最終更新日 2019年12月6日
北大馬術部後援会 ホームページ制作委員会編
応援団ならずとも、歌うときには「明治45年度寮歌、横山芳介君作詞、赤木顕次君作曲・・・」と大声の前口上にはじまり、ゆったり歌いだした記憶があると思いますが、「都ぞ弥生」が作られてから平成24年(2012)で100年になりました。以下はウイキペディアによります。
都ぞ弥生(みやこぞやよい)は、北海道大学の学生寮である恵迪寮の寮歌の一つ。 1912年(明治45年)度の寮歌として作られた。当時の恵迪寮は、北海道大学の前身となる東北帝国大学農科大学の予修科(予科)学生の寄宿舎であった。恵迪寮では1907年から寮歌が作られており、都ぞ弥生は第6回目の寮歌である。
作曲者は当時予科3年生であった赤木顕次(1891年 - 1959年)。作詞者は同じく2年生であった横山芳介(1893年 - 1938年)。
都ぞ弥生は自然の美しさを讃える歌詞であるのが特徴である。色彩や光彩を表現する言葉が多く使われ、星・雲・空などの広大な自然を表す言葉も多い。1番の歌い出しの 「都」 とは、今日ではしばしば札幌のことと誤解されるが、当時の札幌は都会ではなかった。また、当時の大学予科は9月入学であり、1番の歌詞は実際には、華やかな都 (おそらく東京) の春の桜の姿を暫時のものと見限り、「人の世の清き国」 北海道に憧れた心情を歌っているのである。
都ぞ弥生の歌碑は、北海道大学構内と静岡市の2箇所にある。北海道大学構内のものは、1957年に大学創基80周年記念行事の一つとして建立された。静岡市のものは、横山芳介の菩提寺である長源禅院の中に横山の没後20年を記して、横山に育てられた孤児の河田悠記恵と静岡市在住の同窓生等により1958年1月に建てられた。刻まれた文字は横山の遺品のノートから復刻されたものである。
歌詞は5番まであるが、1・2番のみや1・2・5番のみが歌われることが多い。寮生や応援団により歌われているメロディーと合唱団などにより歌われているメロディーには若干異なる所がある。また、寮生や応援団によるもののほうがゆっくりとしたテンポで、間をとって歌われる。一説によると、例年市内の円山公園で行われる応援団主催の春の花見会で、都ぞ弥生を歌いながら会場へ歩きはじめ、会場到着と同時に歌い終わるように歌ったためゆっくりとなった、とある。
しばしば「日本三大寮歌」の一つに挙げられる。他の二つは、第一高等学校寮歌「嗚呼玉杯に花受けて」と第三高等学校寮歌「逍遙の歌」である。
作詞者の横山芳介(よこやま よしすけ、1893 ~1938)は明治24年に貴族院書記官の長男として東京で生まれ、東京女子高等師範学校附属小学校、東京高等師範付属中学校から北大農学部へ進んだ。中学生の頃から文学を愛好していて入寮後に文学愛好仲間と「凍影社」を発起する。これはドイツ語の教授を顧問に新進作家の作品を読む評論読書会で、機関誌「辛夷(こぶし)」を発刊した。
「凍影社」は明治45年から大正3年までの短期間の活動だったが、この時期の寮歌は「辛夷」の編集委員で作られていたという特徴がある。横山は「都ぞ弥生」を発表した年に落第するが、大正3年に東北帝国大学農科大学農学科に進学する。作物学を専攻し、薬用植物の栽培技術に関する研究を卒論にまとめる。明治45年、「都ぞ弥生」を作詞。卒業後、静岡県農会技師を経て、当時制度ができた小作官となり開明的実務家として、農民の側に立って地主との調停を行うなど、ヒューマニズムにあふれた役人として親しまれたが、若くして46歳で亡くなった。
その業績を追った「小作官・横山芳介の足跡―北大寮歌「都ぞ弥生」の作詞者」(田嶋 謙三 、大高 全洋、塩谷 雄共著 北海道大学図書刊行会 2003/05 )=写真右=がある。この表紙写真から後年の姿を知ることができる。
またネット上に第61代応援団 土屋明氏の「横山芳介氏のこと」(http://nagom.net/keiteki2/yokoyama.htm)があり、作詞当時の話と小作官としての足跡を紹介した一文がある。
作曲者の赤木顕次(あかぎ けんじ、1891~1959)は小樽の赤木病院の息子として生まれた。幼少の頃より耳が遠いというハンディキャップがあり、そのため講義では必ず一番前に座っていた。小学校時代から音楽が好きで、ハーモニカやヴァイオリンに熱中、東京の京北中学に進学したが、中学校時代には演奏依頼を受けるほどの吹き手になっていたという。農学部畜産科に進学し、神戸牛の肉質に関する卒論で大正5年に卒業した。その後は東京で食品科学の研究に従事したり、東京帝国書院で教科書の編纂に関わったり、広島や東京に出て食品化学会社や中学校教師を勤めるなど職を転々としたのち宗教の道に入った。昭和4年にひとのみち教団に入信し、以後布教活動に生涯を捧げ戦後はPL教団の祐祖となった。
1958(昭和33)年9月、恵迪寮舎南の原始林内に「都ぞ弥生歌碑」が作られた時には、除幕式に参加されたが、すでに半身不随だったため,左手書きで「左手 赤木生」とした色紙が恵迪寮に残されている。
OBなら誰しも思うところだろうが、「都ぞ弥生」はなんでこんなに「引き伸ばして」歌うのか。それに関してはこんな話が残っている。
学部寮の同窓会が札幌であったとき、ある大先輩との会話で話題が赤木顕次氏に移って、さらに「都ぞ弥生」を引き伸ばして歌う歌い方についてに及んだ。「真相かどうかは分かりませんよ。ただ私が聞いたのは…」という由来は次のようなものだ。
戦時中寮生にも赤紙が来た。壮行会が終わってさあ駅まで皆で歩いて送ろう、というとき、当然のように都ぞ弥生を5番まで歌いながら歩こうとなった。駅まで歩いて30分弱、これを5番までの所要時間に合わせようとなったわけである。前述のように長い歌であるが、普通に歌えば5分程度で終わる。当然1番を6分間に引き伸ばして歌う計算がされた。初めは計算どおりに歌っていたが、駅に近づくにしたがって皆の足取りが遅くなり、どんどん引き伸ばしが長くなっていったという。
もちろん汽車の時間が決まっていたわけであり、無制限に引き伸ばしが可能なはずもない。だが意識下のどこかで、いっそ汽車に遅れてくれれば、というはかない希望も働いたに違いない。こうした悲しい道行きが何度か繰り返されて、いわゆる「正調 都ぞ弥生」が定着したのだという。(今市病院形成外科部長 尾郷 賢氏の「悲しき寮歌」から)
都ぞ弥生
横山 芳介君 作歌
赤木 顕次君 作曲
都ぞ弥生の雲紫に
花の香漂ふ宴遊(うたげ)の筵(むしろ)
尽きせぬ奢(おごり)に濃き紅や
その春暮れては移らふ色の
夢こそ一時(ひととき)青き繁みに
燃えなん我が胸想ひを載せて
星影冴(さや)かに光れる北を
人の世の 清き国ぞとあこがれぬ
豊かに稔れる石狩の野に
雁(かりがね)遙々(はるばる)沈みてゆけば
羊群声なく牧舎に帰り
手稲の嶺(いただき)黄昏こめぬ
雄々しく聳(そび)ゆる楡(エルム)の梢
打ち振る野分(のわき)に破壊(はゑ)の葉音の
さやめく甍(いらか)に
久遠(くをん)の光り
おごそかに 北極星を仰ぐ哉(かな)
寒月懸(かか)れる針葉樹林
橇の音(ね)凍りて物皆寒く
野面(のもせ)に乱るる清白の雪
沈黙(しじま)の暁霏々(ひひ)として舞ふ
ああその朔風飄々(ひょうひょう)として
荒(すさ)ぶる吹雪の逆巻くを見よ
ああその蒼空(そうくう)梢聯(つら)ねて
樹氷咲く 壮麗の地をここに見よ
牧場(まきば)の若草陽炎燃えて
森には桂の新緑萌(きざ)し
雲ゆく雲雀に延齢草の
真白(ましろ)の花影さゆらぎて立つ
今こそ溢れぬ清和の陽光(ひかり)
小河の潯(ほとり)をさまよひゆけば
うつくしからずや咲く水芭蕉
春の日の この北の国幸多し
朝雲流れて金色(こんじき)に照り
平原果てなき東(ひんがし)の際(きわ)
連なる山脈(やまなみ)冷瓏(れいろう)として
今しも輝く紫紺の雪に
自然の芸術(たくみ)を懐(なつかし)みつつ
高鳴る血潮のほとばしりもて
貴(たふ)とき野心の訓(をし)へ培い
栄え行く 我等が寮を誇らずや
【前口上 】
吾等(われら)が三年(みとせ)を契る絢爛のその饗宴(うたげ)は、げに過ぎ易し。
然れども見ずや窮北に瞬く星斗(せいと)永久(とこしへ)に曇りなく、
雲とまごう万朶(ばんだ)の桜花久遠(くおん)に萎えざるを。
寮友(ともだち)よ徒らに明日の運命(さだめ)を歎かんよりは楡林(ゆりん)に篝火(かがりび)を焚きて、
去りては再び帰らざる若き日の感激を謳歌(うた)はん。
この後に、「明治45年度寮歌、横山芳介君作歌・赤木顕次君作曲、都ぞ弥生、アインス、ツバイ、ドライ」と続け、歌に入る。
*「都ぞ弥生」を始め恵迪寮歌にはこの前口上が述べられる。これを聞かないと気持が入っていかないという人が多いので紹介した。この前口上は「楡陵謳春賦」と呼ばれ、1936年(昭和11年)に寮歌の『嗚呼茫々の』の序文として当時の学生、宍戸昌夫氏によって書かれた。
つい最近まで「都ぞ弥生」はレコードでしか聞けなかった。それも町の楽器店などにはなくて、札幌まで注文するか、受験シーズン前に深夜放送などに突然流れるラジオでしか聞く機会はなかったものだ。家族に教えるにしても、音程がはずれた親父のだみ声では「なにそれ?」といわれるのがオチだった。ところが急速なIT社会の到来である。ありがたいことにYouTubeなどにどんどんアップされるようになった。
とはいっても馬術部ホームページがスタートした時には(2006年11月)ネット上には一つもなかった。東京OB会の最後をビデオに撮ってアップすることも考えたが、これは自他共におすすめできないしろものだ。世に混乱を招くだけかと自粛してきた。ところが2012年の時点で以下に紹介するようにいろいろな「都ぞ弥生」が存在する。改めて、こんなにとりどりの歌い方があったのかと言う思いである。
2013年、「北海道大学寮歌『都ぞ弥生』百年記念ドキュメンタリードラマ「清き國ぞとあこがれぬ」=ウイリアム・S・クラーク博士の魂を謳う=が制作されました。
このDVDは企画:「都ぞ弥生」百年記念委員会、北大連合同窓会 制作・著作 HBC北海道放送で竹下景子さんの語りにより作歌・横山芳介、作曲・赤木顕次の二人の人生を横糸に北大の歴史を縦糸にドラマ仕立てにしたもので、同窓会の希望者に有料で配布されました。ご承知のように「都ぞ弥生」は5番まであり長いので、通常は全部歌われることは少ないのですが、このDVDの制作趣旨から北大合唱団OB会による「『都ぞ弥生』合唱・完全版(一番~五番)」というのがDVDの最後についています。
恵迪寮OBと北大合唱団、北大交響楽団が制作に携わっていることから、まさに正調「都ぞ弥生」といってよいものです。
2013年にアップ。ピアノ伴奏で合唱したものだが、前口上から入っているのと、コンパなどで歌われているテンポに近いので一番のおすすめ。また5番まで全歌詞を歌いあげている点や最近の写真が多く散りばめられていてOBには母校の様子をし偲ぶよすがとして最適だと思う。
なにも記載されていないので出所はわからないが、「北海道帝國大學寮歌 都ぞ彌生」という旧漢字の表記や、無伴奏で正確に楽譜をたどっているこなどから北大合唱団などによる録音ではないかと思われる。1、2番歌唱。
これも男性ボーカルのもの。時おりバックコーラスと伴奏が入るがほとんど独唱にちかい。馬術部ホームページのフロントでバックコーラスに使っているもの。1, 2,3番歌唱。
いろいろな学生愛唱歌を歌っているなかにあるもので「知床旅情」の延長線上にあり、メディアに取り上げられるときはこれが多い。1,2,5番歌唱。
1,2,3番歌唱。「荒(すさ)ぶる」のところを間違って歌っているので気になる人もいるかもしれない。
応援団が付いているので前口上つきで始まる。現在の歌い方だと思うので採録した。
もうすこし音楽的に洗練された歌い方となると北大混声合唱団の「都ぞ弥生」がある。略称「北混(ほっこん)」は北大生のみのならず、札幌と近郊の学校から学生が集まって組織されている。だから「北大混声」というより「北海道地区大学混声」といった意味合いの合唱団。 「第53回定期演奏会」(2015年1月25日、札幌市教育文化会館 大ホール)から。
これまで紹介してきた「都ぞ弥生」はアップテンポなものが多い。皆さんご承知のとおりキャンパスでなじんできたものはもっとゆったりとしている。応援団のように花見のとき「円山公園に到着するまでに5番で終わる」というのではLPでもCDでもやってられないだろう。「もっと音楽的に耐えられるテンポで」となるとこのようになるのだが、その点、北大合唱団のものはOBに親しみ深いテンポである。残念ながら音量が低いがそのうち声量があるものが出てくるだろうと期待して、それまでのつなぎとして紹介する。
北大合唱団には東京OB会があるようで、「クラーククラブ」というのを結成していて、これは東京・目黒区の「めぐろパーシモンホール」で開かれた第6回コンサート(2009年12月19日)の録画(公開は2014年2月)。男声合唱の重厚な味がある。YouTubeではほかの合唱曲もあるのだが必要部分だけ取り出した。
北大アウロラ創立90周年記念OB演奏会から。北海道大学マンドリンクラブ「アウロラ」は大学公認のマンドリンオーケストラサークルで、これはOBたちによる合唱。はじめはマンドリンの伴奏で歌いだすが、やがて男声合唱に。かなり高齢の方も混じっているが迫力はかなりなもの。2番まで歌った後のマンドリンや弦楽器による演奏もいい。
フォレスタは、美しい日本の言葉、美しい日本の旋律を次世代に歌い継ぐ活動をしているグループ。全員が音大出身の人たちで、企画によって男性、女性、混成と形を変えて歌っていて、毎週月曜よる9時からのBS日本「こころの歌」が定時放送番組。これは6人による男声合唱で1、2、5番を歌う。
寮歌は今でも毎年作られている。応援団でもすべて歌える人は少なかろうが、寮歌のうち「人気」があるものを集めた動画がアップされた。 収められているのは次の14曲。
1.「都ぞ弥生」(メロディーのみ) 2.「春雨に濡る」(四番まで全部合唱) 3.「別離の歌」(デユ-ク・エイセスで三番まですべて) 4.「タンネの氷柱」(五番まで全部合唱) 5.「瓔珞みがく」(デユ-ク・エイセス)6.「郭公の声に」(一、二、六番) 7.「津軽の滄海の」(メロディーのみ) 8.「都ぞ弥生」(1,2,3,4,5番合唱) 9.「茫洋の海」(デユ-ク・エイセスで一、二、三番) 10.「蒼空高く翔らんと」(全10番のうち六番まで寮生の合唱) 11.「時潮の波の」(序と一、二番) 12.「湖に星の散るなり」(デユ-ク・エイセスで一番のみ) 13.「春未だ浅き」(四番まで合唱) 14.「魔神の呪」(一番と六番)
昭和35年寮歌「茫洋の海」の作詞者、三浦清一郎君は馬術部OBです。
大正十二年寮歌 春雨に濡る | ||
高橋北雄君 作歌 西田貫道君 作曲 |
||
一 |
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春雨に濡るアカシヤ花 | 街路の灯はなやかに | 地は銀鼠にたそがるる |
寂かに歩む若人が | 心にめざむ爽かの | 灑み充てる力かな |
二 | ||
夏の入陽に砂丘の | 臘虎の骨に鴎飛ぶ | 融けざる銀の山脈は |
碧薄れゆく空にうく | 名残の光身にあびて | 異郷の方を思ふかな |
三 | ||
灰青白き白樺や | 落葉ふむ音寂しくも | 谷また谷を辿り行き |
今宵は淡き夢見んと | 焚火を囲み歌ふ寮歌 | 紫紺の闇に解けて行く |
四 | ||
青き空透き銀の月 | 石狩の河波光る | 雪の野限は靄こめて |
灯漂ふアイヌ小屋 | 琥珀の酒を汲み交し | 王者の誇偲ぶかな |
昭和六年 別離の歌 | |
大槻 均君 作歌 中村小弥太君 作曲 |
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―草木すら時に悲歌を歎ず、永劫の時の流れの尽きざるに |
|
一 |
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高遠(たかき)を誇る自治寮よ | 星永遠(とこしえ)に流れては |
春秋ここに二十六 | 逝きて帰らぬ春風を |
恨む今宵の若草(くさ)の上 | これ先人が夢の跡かな |
二 | |
移ろう世習(ならい)泣くは誰(た)ぞ | 原始の森に咲く枝を |
手(た)折りて結ぶ友垣が | 燃ゆる生命(いのち)のかがり火に |
光る瞳は幸福星(アストラ)か | 強く正しく友よ生きなむ |
三 | |
明日の宿居(やどり)は知らねども | 吾に友あり、吾強し |
降(ふ)る苦難(くるしみ)をともにせん | 誓う心の酒杯(さかづき)に |
尽きせぬ名残の涙する | 今宵限りのこの宴(うたげ)かな |
昭和八年寮歌 タンネの氷柱 | ||
ト部 清君 作歌 白石祐義君 作曲 |
||
一 |
||
タンネの氷柱消ゆる頃 | 胡蝶は眠る花の宿 | 牧場に結ぶ夢遙か |
青き希望の雪峯こえて | 四海に羽振る若鵬の | 石狩を立つ意気をみん |
二 | ||
朝里の丘に鳥頭咲けば | 蝦夷が芙蓉の雪とけて | 千尋の懸崖ゆくだけ入る |
忍路の沖の真白帆に | 万里の波濤翔らんと | 白鴎はしばし憩ふなり |
三 | ||
真紅の夕陽山の端に | もゆる紅葉をかざしたる | 友がゆくての野を遠く |
幌馬車の影消え去りぬ | 蓬髪胡風に靡けつつ | 懐情は尽きず果てもなく |
四 | ||
十勝の峰に捲き起る | 吹雪怒りて咆ゆる夜も | 旭光東に色めけば |
熊追ふ愛奴の雄叫びに | 大雪原の霊光や | 無絃琴の音ぞ高し |
五 | ||
懸る垂氷に月くだけ | 千々の瞑想は来し方の | 六十の秋はしるくして |
緑に浮ぶ白亜城 | 苔むす楡鐘の哀調きけ | 若き力を求むなり |
昭和三年寮歌 郭公の声に | |
古河勝夫君 作歌 宮本正治君 作曲 |
|
一 |
|
郭公の声に迷夢の夜は明けて | 紫紺の雲の色も褪めゆき |
春芝草に風のそよげば | 旭光は見よ東雲の沈黙を破り |
自然の精姿紅に揺らぎぬ | 讃へなんうら若き日の |
朝の神秘よ | |
二 | |
濃緑に原始の森の茂る候 | 君影草の花も散り果て |
クローバの上に胡蝶舞ひ舞ふ | 蒼空の小鳥を追ふか陽炎立ちて |
牧場に悠き牛の声聞く | 仰臥せる牧童の上に雲は動かず |
三 | |
俊厳の秋気何時しか野に充ちて | 可憐し虫の音ものを思はす |
移ろふ自然の色彩賑はへど | 沁々と人の運命の秋も偲ばれ |
淋しき哀愁に涙にじみて | 蕭々夕風いとど身には悩し |
四 | |
銀月は今雪原の上に照り | エルムの梢淡青く映りて |
野末に籠むる夢の狭霧の | 奥深く幻想の燈火の明滅を見る |
凍らんとする霊気かすかに | 一条の橇路に残る鈴に震へり |
五 | |
丈なる草踏み分けて蝦夷ヶ野に | 迪を恵ねし人の姿よ |
さ迷ひ暮れて星仰ぎけん | ああそこに原始の影は更に薄れて |
老いし楡に嵐荒涼びつ | 夕陽は手稲の背淡紅く映せり |
六 | |
白樺よポプラ並木よアカシヤよ | 春秋三度廻り去りなば |
若き生命は疾くに萎え果て | 逝にし日の宴遊の宵の夢も追ひ得じ |
此の経営に思想分ちし | 寮友よ心の記念永久に謳はん |
昭和十三年寮歌 津軽の滄海の | |
二階堂孝一君 作歌 高橋寛君 作曲 |
|
一 |
|
津軽のの渦潮わけて | 雄大き想ひを北斗に馳する |
若き情懐(こころ)は北溟(きた)の自然に | 抱擁かれて今野心培ふ |
二 | |
アカシヤの白花(はな)散り敷くタべ | 白銀の月灰かに浮ぶ |
牧場(まき)添ひの野路(みち)逍遥(さまよ)ひゆけば | 羊の群は声なく去りぬ |
三 | |
石狩の平野に爽夏(なつ)訪れて | 原始の大森は緑影も小暗し |
郭公の朗声静寂に徹(とお)リ | 清涼しき朝の熟睡(うまい)を破る |
四 | |
豊穣の秋の讃歌を奏で | ポプラの高梢さやかに揺ぐ |
北漠の蒼穹紺碧に透き | 生の歓喜我が胸懐に充溢つ |
五 | |
飄々の風声疎林に沈潜み | 無眼の静寂天地に充満てり |
寒月は鋭利く虚空を截りて | 我が行く孤影よ霜仁凍りぬ |
六 | |
白銀の六華荘厳に咲く | 山嶺奥深く彷徨れ行けば |
ああ壮麗の樹氷の森よ | 冬の神秘に我が胸戦?ふ |
七 | |
さあれ戦塵東亜を閉鎖し | 全支の空に硝煙昏冥し |
大陸飛翔る荒鷲想へば | 雄心湧きて若き熱血滾る |
八 | |
先人の絢夢残れる原始林に | 寮祭の犠牲の火柱廻りて |
いざ寮友どちよ永久に謳歌はん | 意気と血潮の三年の契り |
昭和三十五年寮歌 茫洋の海 | ||
三浦清一郎君 作歌 前野紀一君 作曲 |
||
一 |
||
茫洋の海に憧れ | 峻険の峰を慕いて | 北国の大地に旅ゆけば |
溢れ満つ夢若さ | 果てしなく広ごれる地平線 | |
二 | ||
曇りなき心求め | 厳しかる努めの道に | 真なる美を探らむと |
人の世の旅にして | 結ばれし二年の宿なれや | |
三 | ||
移り行く時にはあれど | 涙して誓いし言葉 | 尊しや若き日の夢 |
春秋の十年の後に | 思い出声もなく偲ばんや |
昭和二年寮歌 蒼空高く翔らむと | |
土井恒喜君 作歌 長谷川吉郎君 作曲 |
|
一 |
|
蒼空高く翔らむと | 暫しやすらふ楡の蔭 |
力は胸に溢れつつ | 翼つくろう思かな |
二 | |
朝曠野の露を吸ひ | 夕北斗の囁きに |
驚き瞠る若鵬の | 清き眸君見ずや |
三 | |
うら若き日の悦びを | はかなきものと誰かいふ |
理想の潮湧き出づる | 生命の海の高鳴るを |
四 | |
若きに芽ぐむ数々の | 深き苦悩は身にあれど |
迪を恵ねて辿りゆく | 遊子の真意君知るや |
五 | |
茫々千里石狩の | 野は澄みわたる銀の |
雪さんらんと散るところ | われらが魂の故郷かな |
六 | |
若き勇者よオキクルミ | 熊をはふりて饗宴せし |
短檠すでに光消え | 東の空はかぎろひぬ |
七 | |
花咲き散りて五十年 | 寮庭の桂も年ふりぬ |
先人の影とほけれど | 遺訓や永久に薫るらん |
八 | |
北溟城の生活に | 桜と星の旗かざし |
相寄りむすぶ三百の | 志は高きわれらかな |
九 | |
こよひ手稲に日は落ちて | 新月細くかがやけば |
青き煙のそが中に | ほがらかになる楡の鐘 |
十 | |
ああ碧落に永劫の | 北斗の光かげさえて |
清き三年の思出の | 銀觴の酒つきざらん |
昭和二十一年寮歌 時潮の波の | ||
渋谷富業君 作歌 寺井幸夫君 作曲 |
||
序 厳しかる道に仕へて 限りある玉緒惜しむ げにさはれ深き因縁の 魂ゆする生命の饗宴 汲まざらめや残の月に 旅の朝早くは明けぬ |
||
一 | ||
時潮の波の寄する間を | 久遠の岸に佇みて | 不壊の真珠を漁りする |
嗚呼三星霜の光栄よ | 緑の星を夢む時 | 疎梢を払う天籟は |
秘誦の啓示語るなり | ||
二 | ||
孤窓に流る星屑に | 無辺の調律訪へば | 測りも知らに底つひゆ |
言の葉洩れて伏し祈る | 奇しく貴き生命をば | 友情を讃ふ歌声の |
溶け行く方に馳するかな | ||
三 | ||
朽葉ゆらぎて湧き出づる | 楡の林の真清水に | 己を責めて泣く友の |
孤杖を運ぶ逍遙や | 遠き誓ひの日を偲び | 虚しき春に嘯けば |
淡れし影の寂寥よ | ||
四 | ||
宿命の道を行く身にも | 友を誇らん花筵 | 銀燭頬涙を照らす宵 |
沈黙に語る歓喜よ | 心を交し思ひ酌み | 団欒にふるふ共鳴は |
胸の小琴を掻き鳴らす | ||
五 | ||
北斗頭上に影冴えて | 神秘の息に吹かれつつ | 肩組み歌ふ旅の子を |
染むる伝統の篝火よ | 暮るるに早き青春の日の | 追懐を込むる此の盃を |
汲まん今宵の記念祭 | ||
結 近きかな楡陵(おか)を去る日は 還り来ぬ足跡愛しみて ひたぶると打笑む時ぞ 求めつつ得べからざりし 秀邃(うるわ)しき真理の道は はろかなり我等が前途 進まざらめや |
昭和十六年寮歌 湖に星の散るなり | |
切替辰哉君 作歌 岡田和雄君 作曲 |
|
一 |
|
湖に星の散るなり幽(まど)けさよ | 松の火燃えて |
漕ぎ出いづる愛奴の漁舟の | 岸辺佇ち沁々眺む |
旅の日ははや暮れゆきぬ | 夢に酔ひ夢にぞ歎かん |
汚れなき心を慕う | 大いなる支笏の湖よ |
花若く我汝が許に | 希望満ち今宵宿らん |
二 | |
轟けるか雄叫びよ創造の | 歴程一路新しき使命に捧ぐ |
幸の今日にしあれば | 忍苦して欣求むるところ |
得べくして得べからざりし | 秀麗わしきまことの道ぞ |
近くして遙かなる哉 | 若き世の秩序を背負ふ |
洋々の日と倶にゆかなむ | |
三 | |
乾坤に伏し祈るなり栄光あれ | 祖国の生命決意する |
光眩ゆく手に取りぬ楡の嫩葉 | 葉脈の強きを讃ふ |
草々のたおれ生れて | 春青み辛夷咲くなり |
逍遙の原始林蔭清く | 暢び行かん我が民族の |
逞しき息吹き感じぬ | |
四 | |
立て歩め光の中を国民の | 重き責任負ひ燦めきの |
星辰は語らひ微香る大地囁きぬ | 甦生へる征覇のいくさ祝歌ふ |
吾等が双頬に | 失はじ高きが矜持護り来し |
伝統の法火 | 浄らかに燃え熾る刻 |
継ぎ行かな来ん若人に |
昭和十二年第三十回記念寮歌 春未だ浅き | |
平城鷹男君 作歌 宍戸昌夫君 作曲 |
|
一 |
|
春未だ浅き白楊の | 雪解の小路たたずめば |
しばし聞けとて私語(さざめき)の | 木の間もれくる夕嵐 |
二 | |
あはく足げに咲き出でし | おぼろおぼろの水芭蕉 |
なつかしの原始杜(もり)肩とりて | 榾火(ほたび)をめぐり歌はなん |
三 | |
長髪頬に戯むれて | 昔変らぬ風なれや |
今したたへん三十回(みそたび)の | 青史をかざす記念祭 |
四 | |
美酒の夜は更け行けど | 尽きぬ男子の黒潮を |
契の杯に汲み交わし | 常緑(ときわ)を祝う自治の宴 |
大正六年寮歌 魔神の呪 | |
佐藤惣之助君 作歌 植村泰二君 作曲 |
|
一 |
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魔神の呪アルペンの | 白雪永久に清からず |
見よ永劫と誓ひけん | 平和の春は短くて |
吹く凋落の秋風に | 正義の光影くらし |
二 | |
されど儼然東洋に | その義と侠を胸にして |
燦たる北斗北陲の | 強と仰がれ誇矜りつつ |
自治を精神の我寮は | 映華ある歴史十二年 |
三 | |
嗚呼北海の荒吹雪 | 白箭膚を擘くも |
胸の狂瀾青春の | 血潮に如何で比すべきぞ |
力の緒琴高鳴りて | 紅燃ゆる悶えあり |
四 | |
残陽西に茜して | 今日も暮れ行く手稲山 |
雲の五彩を眺めては | 思ひは遠く渺茫の |
彼の海を越え山を越え | 雄図千里ぞ駆りゆく |
五 | |
平和の流れ豊平の | 狭霧罩めたる朝ぼらけ |
東指して流れ行く | 淙々の音を我聴けば |
瀬々の河波声あげて | 唄ふ「自由」の二字の曲 |
六 | |
今宵楡影に団欒(まどい)して | 月影に酌む自治の宴 |
廻る盃夜も更けて | 北斗傾く玻璃の窓 |
いざ吾が友よ熟睡(うまみ)せむ | 明日は人生の旅なれば |
歌詞を知りたい方は(http://ryoukasai.org/m/songs.php)「北大寮歌祭」のホームページにほとんど掲載されている。
また音源がほしい人には「北海道大学 恵迪寮寮歌, 学生歌一覧」(http://www.ep.sci.hokudai.ac.jp/~mkuriki/phone/ryoka/list_ryoka.html)
がある。年度ごとに全寮歌が網羅されていて、「歌詞」をクリックすれば全歌詞が表示され、また黒い枠でスピーカー印があるところの「右向き三角」をクリックすれば寮生が歌う寮歌の再生が始まる。(歌詞部分にある(1,2,3,4 了あり)は歌われている歌詞と最後の繰り返しがついていることを表す)
永遠の幸
大和田建樹 校閲
有島武郎 作歌
一
永遠の幸 朽ちざる誉 つねに我等がうへにあれ
よるひる育て あけくれ教へ 人となしし我庭に
イザイザイザ うちつれて 進むは今ぞ
豊平の川 尽きせぬながれ 友たれ永く友たれ
二
北斗をつかん たかき希望(のぞみ)は 時代(とき)を照らす光なり
深雪(みゆき)を凌ぐ 潔(きよ)き節操(みさを)は 国を守る力なり
三
山は裂くとも 海は浅(あ)す=涸れる=とも 心理正義落つべしや
不朽を求め 意気相ゆるす 我等丈夫(ますらを)此にあり
北大の校歌だと思っていたらアメリカでもアイルランドでも同志社大学のラグビーの試合でも耳にしたという驚きをOBの古川俊実氏(朝日新聞社友、北大文学部英文科 1960年卒業)が「ダブリンで『校歌』を聞きました」に書いている。歴史などもこのサイトに詳しいのだが、いきさつは次のようなことである。
アメリカの南北戦争のときにG.F.ルートという人が、北軍の行進曲として『Tramp! Tramp! Tramp!』という曲を作曲し、さかんに部隊で使われた。メロディーは上記の表題を検索に打ち込めばたくさん出てくる。(例えば『Tramp! Tramp! Tramp!』。副題に「Prisoner's Hope」とあるように内容は南軍の捕虜となり救出を待つ少年兵の心情を歌っている。歌詞は 以下のように母と故郷を偲ぶせつせつとしたものだ。
このあとに続く、「Tramp」というのは行軍する時の重い足音の擬音である。
南北で60万人が戦死した戦争の方は1865年に終了した。その当時、北軍の兵士には、英国からの独立運動(戦争)をしていたアイルランド出身者が多く、この歌はアイルランドに渡り、歌詞を変えて、『God Save Ireland』(神よアイルランドを守り給え)となった。
現在ではアイルランドの国歌は1926年に制定された「兵士の歌」(Soldier's Song)だが、それ以前は国歌としては非公式ながらこの『God Save Ireland』が歌われていた。第二のアイルランド国歌として親しまれているうちに日本に伝わり「船乗りの夢」という曲になった。筆者など小学生の頃、曲名「夕日の落ちる頃」としてキャンプファイアーの歌として教わったが、学校でも教えたしボーイスカウトやガールスカウトや運動会の鼓笛隊の演奏などで今もよく演奏されている。
「永遠の幸」の由来に戻るが、南北戦争には北軍少佐としてDr.W.S.クラーク(1876~1877)が従軍していた。終戦時、准将まで昇進していたクラークは郷里のAmherst(アムハーストまたはアマースト)に帰り、自らが誘致したマサチューセッツ農科大学(現在、マサチューセッツ大学アマースト校)第3代学長から乞われて、はるばる札幌農学校教頭として赴任した。
1876年に開校した札幌農学校には、校歌も寮歌もなく、農学校にも「校歌」という要望がたかまり、多分、このころ農学校では有名であった、「Tramp! Tramp! Tramp!」の曲をベースに、有島武郎が作歌(この年、有島 22歳)して明治34年(1901年)に披露されたのが「永遠の幸」だった。
一方、クラーク博士が、来日する前だが、新島襄がクラーク博士が学んだ同じアマースト大学に留学、1870年に卒業している。新島は私立大学の重要性を訴え、没(1890年)後ではあるが、同志社大学が創立された。そこから先は推測だが、そのとき彼が持ち帰った曲が同校ラグビー部の応援歌『若草萌えて』 となったようである。応援歌だけに北大校歌の「永遠の幸」より一段とリズミカルで早いが、メロディーはまさに同じである。
ところで「永遠の幸」は有島武郎が学習院から進学した札幌農学校本科4年に在学中の作詞だが、表記のように「大和田建樹 校閲」とある。寮歌集の発行年度によっては「 納所弁次郎 選曲」となっているものもある。「校閲」だの「選曲」という見慣れぬものが付いているのは何なのだろうか。
大和田健樹(1857-1910)は文学者で、『鉄道唱歌』、『故郷の空』、『青葉の笛』などの作詞者して知られるが、学習院教授でもあった。
納所弁次郎(1865-1936)は明治期を代表する音楽家で「桃太郎」「うさぎとかめ」などの作曲者で多くの軍歌の作曲をしている。納所は明治21年学習院助教授になり小学校にあたる予備科で「唱歌」の授業を担当していた。年代的に有島が予備科に在籍していた時代で、このとき納所に唱歌を習った可能性がある。
全員が学習院という共通因子でつながっているのである。しかも2人とも有島武郎にとっては恩師にあたり、ともに文部省主導による数多くの唱歌作成選定に参加している人物だった。
一方、明治政府は明治8年から20年にかけて欧米から大量の楽譜を購入している。文部省買い入れ楽譜は現在国会図書館が所蔵しているが膨大な数に上る。このなかに『Tramp! Tramp! Tramp!』もあった。納所はこの購入楽譜を管理する立場にあり、自分でも利用した。彼が編集した「日本軍歌」では「学びのみち」と言う名で『Tramp! Tramp! Tramp!』が載っている。
明治時代には外国曲に元歌と関係のない内容の歌詞をつけたものが多い。これが西洋音楽に馴染みの薄い日本人に洋楽を広めるのに大変役立ったと言われている。
有島は「曲にあわせて作詞した」とも言っているところをみると、納所から提供された『Tramp! Tramp! Tramp!』にあわせて「永遠の幸」をつくり、大御所だった大和田健樹に校閲を依頼したのではないか。これが「校閲」と「選曲」という形になって二人の名前が出てくる由縁だと解される。
正しくは<櫻星会歌「瓔珞みがく」>です。櫻星会は現在の体育会、その会歌として作られたもので寮歌ではないのですが、学生・OBに親しまれ、いまでは寮歌の扱いを受けている歌です。全国にある寮歌の多くは青雲の志を披露した大言壮語型が多いのですが、北大のは豊かな自然をせつせつと謳いあげていて魅力的なのが特徴でしょう。「瓔珞みがく」もまたその範疇にあります。「瓔珞」(ようらく)というのは「紐を通してつないだ美しい石の首飾り」のことです。
学生が歌うものよりテンポが早く、やや歌謡曲風で軽いかもしれないが、加藤登紀子の「日本寮歌集」のなかにある「瓔珞みがく」。 1、2、3、4、8番歌唱。
北海道大学応援歌 瓔珞みがく (大正9年桜星会歌)
佐藤一雄君 作歌
置塩寄君 作曲
一
瓔珞みがく石狩の 源遠く訪ひくれば
原始の森は闇くして 雪解の泉玉と湧く
二
浜茄子紅き磯辺にも 鈴蘭薫る谷間にも
愛奴(アイヌ)の姿薄れゆく 蝦夷の昔を懐(おも)ふかな
三
今円山の桜花 歴史は旧(ふ)りて四十年
我が学び舎(や)の先人が 建てし功(いさお)はいや栄ゆ
四
その絢爛の花霞 憧憬(あこがれ)集ふ四百の
健児が希望(のぞみ)深ければ 北斗に強き黙示(もくし)あり
五
醜雲(しこぐも)消えて人の世に 陽光(ひ)はうららかに輝けど
風の名残のつきやらで 狂瀾さわぐ今しいま
六
潮(うしお)に暮るる西の空 月も凍らむシベリアの
吾が皇軍(みいくさ)を思ひては
猛けき心の踊らずや
七
白銀狂ふ埋れ路も 踏みて拓かむわが前途(ゆくて)
はろけき牧場(まき)に嘯けば 雲影はやし草の波
八
想を秘めし若人が 唇かたくほほゑみつ
仰げば高く聳え立つ 羊蹄山に雪潔し
深田久弥の「日本百名山」の大雪山の項で、層雲峡についての説明として、「北大寮歌に、瓔珞みがく石狩の……と歌われた頃に、この渓谷を探ったパイオニアたちの、何と幸福だったことか。」とある。パイオニアと言うのは慶大山岳部に属し、槙有恒らと槍ヶ岳・奥穂高岳をはじめトムラウシ山、石狩岳を登り、石狩川の源流を層雲峡まで下るなど北海道の山を全国に広めた大島亮吉(1899-1928) らのことで 「アイヌほど美しい地名をつける種族はない」とも書いている登山家で、前穂高岳で墜落死しています。
「瓔珞みがく」歌碑は札幌の北大植物園の中にありますが、もう一つ、記念碑が山梨県大月市の中央道大月ICを出てすぐのところにある星野家旧宅本陣跡に「瓔珞みがく」記念碑が建っています。昭和45年、北大東京同窓会が記念碑を建設し寄贈したものです。
余談ですが、児島仁・NTT社長と松田昌士・JR東日本社長、という日本で1番と2番の企業トップが北大OBで占めたとき新聞ニュースになりました。そのころのことですが北大東京同窓会主催のバスツアーがあり、児島会長とともに星野家住宅を訪れたことがあります。このときはじめていわれを知りました。
作曲の置塩 竒(おしお・くすし)氏は大正9年 北海道帝国大学予科に在学中にこの歌を作曲し、のちにこの本陣の所有者である星野家に養子に入りました。星野家は、甲州街道・大月宿の西隣にある花咲宿の名主を務めていた旧家です。江戸時代には、甲州勤番をはじめ大名や幕府の役人らが宿泊しました。明治13年(1880)6月18日には、明治天皇が京都へ御巡幸の際に御小休所にあてられました。江戸時代の本陣建築を伝えるのはいまでは「星野家住宅」だけとなり、主家と籾蔵および味噌蔵、文庫蔵の三棟が宅地を含めて重要文化財に指定されています。
国道20号線わきの一角に「瓔珞みがく」の碑があり、本陣の広間に「瓔珞みがく」の歌詞が掲げられています。
昭和55年に作詞者の佐藤一雄氏未亡人とともに札幌を訪れた星野さん夫妻の新聞記事が残っています。このとき84歳で「私と違って作歌者の佐藤君は豪放な人でした。その佐藤君の詩に私が曲をつけたのですが、夜中、布団に横になりながら頭に浮かんだメロディーをもとに、次の朝、恵迪寮食堂にあったオルガンで譜面を書きました。実はそのオルガンに昨日対面しました。昔のままで、懐かしい思いがしました」。「アインス ツバィ ドライ」で、全員で「瓔珞みがく」が歌われた。足腰が弱くなって手放せないはずのツエを背広の前ボタンにかけ、両足でふんばった星野さんも声を張り上げていた。(昭和55年4月27日北海道新聞朝刊)
寮歌のあとはストームがつきものだった。こちらも動画があるので紹介する。北大水産学部の同窓会・大阪府支部総会の懇親会の模様とのこと。
ストームの歌
――醒めよ迷ひの夢さめよ
醒めよ迷ひの夢さめよ――
一
札幌農学校は蝦夷ヶ島 熊が棲む 荒野に建てたる大校舎コチャ
エルムの樹影で真理解く コチャエ コチャエ
二
札幌農学校は蝦夷ヶ島 手稲山 夕焼け小焼けのするところコチャ
牧草片敷き詩集読む コチャエ コチャエ
三
札幌農学校は蝦夷ヶ島 クラーク氏 ビーアンビーシャスボーイズとコチャ
学府の基を残し行く コチャエ コチャエ