最終更新日   2023年3月5日

北海道大学馬術部の萌芽は、大正13年(1924)の「北海道帝国大学乗馬会創立委員会」の人たちの奔走により、翌大正14年(1925)誕生した「北海道帝国大学乗馬会」が源流です。その後、昭和5年(1930)に初めて学内運動部として公認され「北海道帝国大学文武会馬術部」が発足しました。苦渋の戦時体制に翻弄され、昭和26年(1951)には新制大学の「北海道大学体育会馬術部」として再生。爾来、平成18年で80有余年、全国優勝をはじめ、オリンピック馬術競技日本代表選手の輩出など輝かしい歴史を刻んできました。「馬術部三十年史」、「北大馬術部部報」などからその歩みを要約します。

末尾には、戦後復活からの北大馬術部「北からの提言」(半澤道郎氏)、昭和46年(1971)第二代馬場・18条馬場への「自馬繋養と馬場・厩舎の新築移転問題」(半澤道郎氏)、さらに平成11年(1999)第三代馬場・23条馬場への「馬場・厩舎移転の経過報告」(市川瑞彦氏)などを、「部報」からそれぞれ補足しました。

1.北海道帝国大学乗馬会

乗馬会02
旭川第七聯隊での手入れ風景
昭和2年3月撮影 「四十年記念写真集」より

乗馬会01
旭川第七聯隊での合宿風景
昭和2年3月撮影 「四十年記念写真集」より

大正13年(1924)10月、学内で馬術を志す野間口、平山、澤田氏などが中心になり、「北海道帝国大学乗馬会創立委員会」が結成された。当時の情勢から軍事研究団体の一環として乗馬練習をしたい旨を軍部に請願の結果、同年12月、第七師団長より軍馬借用許可が正式に得られた。年が明けて大正14年(1925)1月、上記メンバーは創立委員会を解散し、「北海道帝国大学乗馬会」を発足させた。会長に中村大尉、幹事長に野間口氏のもと三十名の会員が集まり、土曜、日曜に月寒(つきさっぷ)にあった第二十五連隊で練習したり、旭川第七聯隊で合宿なども行った。



 

2.北海道帝国大学文武会馬術部

文武会02
旭川第七聯隊での練習
昭和12年5月撮影 「四十年記念写真集」より

文武会03
月寒第二十五連隊からの帰り道「月寒街道」
 「四十年記念写真集」より

その後、北海道帝国大学「文武会」*にも加入が認められ、昭和5年(1930)3月、東京大学馬術部出身の永井一夫教授を部長に、河崎秋三主任以下四十数名により「北海道帝国大学文武会馬術部」の誕生となった。練習は乗馬会時代と同じく第七聯隊、第二十五連隊などで行われ、創立一年目の昭和5年(1930)「第七回全国高等学校馬術選手権大会」で当時の北大予科が第二位を占めた。また翌昭和6年(1931)には、「第三回全日本学生馬術選手権大会」で東園基文氏が優勝、さらに翌年の同大会でも準優勝に輝いている。東園基文氏はのち宮内庁侍従、掌典長を務められ馬術部東京OB会会長として長らくお世話になった。

昭和14年(1939)には、「第十六回全国高等学校馬術選手権大会」で念願の初優勝。全日本学生馬術選手権大会でも菅間威氏が、東園基文氏以来の優勝に輝くなど、学生馬術のトップを極めるに至り北大馬術部の名声は一気にあがった。

一方、昭和12年(1937)には松平悌、山下正亮氏などが当時の東大馬術部と交渉し、念願の「帝大馬術連盟」の結成を実現、この第一回大会にも北大が優勝している。この大会が後の「七帝戦」、「国立七大学馬術定期戦」に発展したものである。 この間、昭和11年(1936)、北海道陸軍大演習のため昭和天皇が来道されるのを機に、北大馬術部は自馬所有の請願計画を立て各方面に奔走したが、種々の障害のため実現をみなかった記録もある。
*「文武会」:札幌農学校時代の学生・教員・卒業生からなる「学芸会」と、体育会系団体の「遊戯会」が明治34年(1901)に合併し「文武会」となった。スポーツの対外試合を通して、近代スポーツを中等学校や市民へ紹介する拠点となっていた(「北大の125年」h13年刊)。

 

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3.櫻星会馬術部

かねてからの念願だった予科馬術部の独立は、昭和12年の西村雅吉氏等を代表とする請願活動などでも審議課題として残されたままだった。その後の著しい馬術部活動成果と相俟って、4年後の昭和15年(1940)2月に「櫻星会馬術部」の設立が初めて公認された。このことにより、「インターハイなど櫻星会の後援のもとに馬術部が戦える日が実現した。」(「馬術部十年誌」小林誠平氏(S17年卒)より転載)。

 

4.北海道帝国大学報国会国防訓練部騎道班

当時の軍事体制強化の傾向が次第に強まる中、昭和16年(1941)2月、文武会が解消されて「報国会国防訓練部騎道班」と名前を改め、事実上の軍事教練の一組織として存続せざるを得なくなった。そして同年12月には、太平洋戦争に突入する。戦時下、一時は部員数も百数十名に達したが、第二十五連隊での週一回の練習もままならず、北部軍司令部、北部第六十三部隊、あるいは北大農場での分割練習なども試みられた。しかし、戦火激しく昭和19~20年(1944 - 45)には、馬術部としての実質的な活動は休眠状態となった。

 

5.北海道大学体育会馬術部

昭和20年(1945)8月に終戦を迎え、昭和22年(1947)9月に帝国大学は、新制大学として「北海道大学」に改称された。昭和24年(1949)5月には、法文、教育、理、医、工、農、水産学部を設けた総合大学として生まれ変わる。ようやく世の中も落ち着きを取り戻した昭和26年(1951)9月、古谷昌司、下飯坂隆、後藤義英、渡植貞一郎氏など馬仲間が中心となり、スポーツ団体として「北海道大学体育会馬術部」の復活が実現した。練習は札幌競馬場、札幌乗馬クラブの好意のもと、週三日の練習日確保が可能となった。

 

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6.ポプラ並木第一農場

ポプラ並木03
ポプラ並木馬場内で講習会
昭和37年撮影 「四十年記念写真集」より

ポプラ並木07
手入れ風景
昭和45年7月撮影 「四十年記念写真集」より

ポプラ並木06
ポプラ並木も練習場だった
昭和35年撮影 「馬術部三十年史」より

昭和29年(1954)、第九回国民体育大会が札幌で開催され、馬術競技は円山公園、札幌競馬場が会場となり、全国規模の馬術大会が札幌でも復活するきっかけとなった。当時の大会には、出場する乗馬を開催地が準備する(貸与馬)競技種目が中心だった。札幌国体の開催終了後、北大学長の島善鄰(しま・よしちか)氏、理学部教授のち北大学長、杉野目晴貞氏、北大馬術部第四代部長の太秦(うずまさ)康光氏、農学部教授松本久喜氏(後の第五代馬術部長)など、大学幹部、諸先輩から当局への請願もあって札幌国体が用意した貸与馬(20頭)の中から六頭の乗馬を北大が購入することになった。

以前から第一農場で学生実習馬として飼育されていた二頭とあわせて八頭の飼養管理が馬術部に託され、永年の自馬繋養の夢が実現した。あわせて厩舎、部室も第一農場内の施設を借用することになり、自前の管理体制が一気に整った。

こうした経過から、用具を収納する馬具庫も、部室脇の昼なお暗い古いコンクリートサイロの転用だった。馬場は第一農場の農業実習馬場(ポプラ並木馬場)を利用することになった。

この札幌国体で購入した六頭の自馬の実力は見事だった。札幌国体終了の翌年、昭和30年(1955)の第十回川崎国体で北大が初めての自馬出場し、ヨシタカ号(後の北嶺号)が六段飛越に初参加で3位、大障害でも5位に入賞。同年の全日本馬術大会では六段飛越の2位にも入賞できた。さらに昭和34年(1959)の東京国体の六段飛越では、全国でただ一頭170cmを完飛して優勝。つづいて昭和35年(1960)熊本国体の成年障害も優勝し、六段飛越には3位入賞もしている。

また同時に入厩した北楡号は、昭和33年(1958)の富山国体の総合馬術競技で優勝。同年、中京競馬場で開かれた「第一回全日本学生馬術自馬大会」(現在の全日本学生賞典馬術大会)では障害の2位、総合馬術の3位にも入賞できた。


《東京オリンピック総合馬術日本代表に千葉幹夫氏》

ポプラ並木03
東京五輪総合馬術の「障害飛越 余力審査」での
千葉幹夫選手。乗馬は「真歌号」(中半血 6歳)。
「東京五輪 馬術競技アルバム」(第一出版)から
このとき北楡号に騎乗していた千葉幹夫氏は、昭和39年(1964)の東京オリンピックでは、総合馬術競技初の日本代表として活躍された。このときの馬場馬術選手は有名な井上喜久子氏(個人16位、団体6位)だったが、総合馬術には4人が出場、他の3人は失権したが千葉選手のみ完走、個人で34位に入った。しかし世界の壁を目の当たりにした本人は不本意で、この後フランス国立騎兵学校「ソー・ミュール」に留学、帰国後後進の指導に当たった。氏は馬事公苑長から現在、岩手県の「遠野馬の里」苑長として乗用馬の生産に取り組んでいる。
 
ポプラ並木08
冬の馬術部部室とサイロ(馬具収納庫)
昭和35年撮影 「馬術部三十年史」より

その他にも、北斗号(S29札幌国体の中障4位・総合7位、S30全日本の中障4位、S32全日本の中障A5位並びに総合8位)、北慓号(S32全日本の中障A5位、S33富山国体の大障害4位、S34東京国体の大障害4位、全日本の六段6位)など粒ぞろいの北海道産・優駿たちだった。

このように戦後再開された北大馬術部が、いち早く学生馬術界のトップに復帰できたのは自馬だけではない。当時、各大学の自馬保有はまだ数少なく、対抗戦で学生日本一を決めるのは、貸与馬形式の「全日本学生馬術王座決定戦」だった。全国5~6ブロックの地区優勝校が、東京馬事公苑で王座を競っていた。昭和37年(1962)の北大チーム(主将=市川瑞彦)は、この「王・決」をも制覇している。

昭和33年(1958)には、「第一回招待全日本女子学生馬術大会」を全国の女子学生に北大が呼びかけ、ポプラ並木馬場で開催。以後昭和39年の「第七回」まで続き、全国の大学から十数校が参加していた。

さらに昭和34年10月には北大馬術部東京OB会が、昭和40年3月には札幌で北大馬術部後援会が結成され、卒部生や特別協賛会員による全国規模の支援組織が発足した。

 

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7.18条第二農場

通りがかりの厩舎とモデルバーン01
18条馬場隣接の「モデルバーン」
平成10年5月撮影 撮影者 倉本暢子
「ホームページ後援会」 SNAPSHOTより


完成した18条厩舎の全景
完成した18条厩舎の全景
昭和46年撮影 「部報昭和45年度」より

昭和42年(1967)、馬術部の所属が、第一農場から学生部に移管されることになった。同時に馬場移転問題が一気に表面化した。馬術部の部室、厩舎など老朽化していた第一農場の建物の取り壊し、改築が決まり、「ポプラ並木馬場」内には工学部研究室、教室棟の新築計画が進められた。立ち退きを迫られた馬術部の移転先をめぐる紆余曲折は、この問題に心血を注がれた第六代馬術部長半澤道郎氏が、「北大馬術部創立四十周年記念写真集」(S49)にその苦労を詳しく残されている。

昭和46年(1971)11月20日、懐かしい「ポプラ並木馬場」に別れを告げ、旧恵廸寮の近くの北18条西7丁目の第二農場牡牛パドック跡の「18条馬場」に移転し、11月23日に馬場開きが行われた。新設の「18条馬場」の北側には重要文化財の「モデルバーンが」隣接していたのと近くに民家が迫っていて、砂ぼこりに苦情が出るなど、何かと使い勝手に制約も多い場所であったが、ポプラの綿毛舞う新天地で部員たちは一層の練習に励んだ。

この「18条馬場」で育った自馬たちには、スターライト号(S51全日本の中障害優勝、全日学の障害ではS49、S52の二回優勝、S55には日馬連功労馬表彰)、ドンホッパー号(全日本S51中障3位、S54中障優勝、S57島根国体の総合馬術4位、全日学S53障害5位、S56障害2位、S57障害6位などのほか、日馬連S55,S57の二回も内国産優秀馬表彰、全日学S53,S56,S57の三回も優秀馬表彰)、疾風(ときかぜ)号(全日学S50総合9位)、北皇子号(全日学S60総合9位、日馬連H6功労馬表彰)、北玲号(全日学S63総合5位)、北駿号(福岡国体H2総合7位)、明日檜(あすなろ)号(全日学H5障害5位)、などが活躍していた。

 

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8.23条馬場

北大23条馬場01
23条馬場と部室、厩舎全景
平成11年6月撮影 撮影者 西村雅夫
「ホームページ後援会」 SNAPSHOTより


北大23条馬場02
23条厩舎の通路
平成11年6月撮影 撮影者 西村雅夫
「ホームページ後援会」 SNAPSHOTより

「18条馬場」は、北大内部の問題で移転したものだが、今度は外部事情で移転を迫られることになった。環状自動車道路“エルムトンネル”が「18条馬場」を通過するという札幌市道路計画が示されたためである。 移転先、移転補償の長期交渉が第九代馬術部長斎藤善一氏、第十代馬術部長(現後援会会長)市川瑞彦氏などに委ねられた。その経緯については、北大馬術部「部報 平成10年度―馬場移転記念号―」に、市川瑞彦氏が詳しく書かれている。

第2代にあたる「18条馬場」に別れを惜しみながら、平成11年(1999)3月1日には「北23条馬場」が竣工し、引渡しとなった。“新馬場開き”は、同年5月3日の「半澤記念杯馬術大会」開会時に執り行われた。

平成18年8月現在、「23条厩舎」には「11頭」の北大自馬が繋養されている。もっとも新しい馬は、平成18年6月24日入厩の「北柊(ほくしゅう)号」、「北創(ほくそう)号」(いずれもサクラローレル産駒)で、彼らは、馬術部自馬繋養登録「№1瓔珞号」から数えて「№125」、「№126」番目。北大馬術部も「帝大乗馬会」から81年目、「帝大文武会馬術部」から数えると76年目となる。

 

なお<成績記録>に書きもらしたが、平成16年(2004)12月2~5日、ヨーロッパ以外で初めて開催のユニバーシアド馬術「第6回世界大学馬術選手権2004大会」がJRA馬事公苑で開かれた。日、米、英、仏、伊など世界20カ国の学生ライダーが初めてアジアに集結、覇を競った。

一色君と慶響号
一色君と慶響号

この大会のFriendship競技ではあるが、北日本地区代表として北大の「一色真明君」(H19卒)が、カナダのKathleen Clarke選手とペアでRelayJumping競技に出場した。「一色・Clarke」チームは、ともに一落の好成績(チーム合計2落)で堂々「第5位」に入賞した。ちなみに一色君の騎乗馬は慶大の慶響号。この競技には20チームが出場し、優勝は「北島隆三(明大)・Michel Katterbach(スイス)」チーム(チーム合計1落)。一色君以外の北日本地区の代表選手では、広瀬秋典(帯畜)チームが8位、梁川正重(酪農)チームが15位の成績であった。

 

(平成19年7月30日 大場善明 記)

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半澤道郎先生からの伝言

永らく北大馬術部のためにご尽力いただいた北海道大学名誉教授 半澤道郎先生が平成18年5月4日、まさに「平成18年半澤杯記念大会」終了の日に逝去されました。

先生が北海道大学馬術部第六代部長時代の昭和57年11月8日、東京・馬事公苑で全日本学生馬術連盟25周年記行事が皇太子ご夫妻(今上両陛下)をお迎えして挙行されたとき、全日本学生馬術連盟発行の記念誌「学生馬術 二十五周年記念号」に、先生が書かれた『北からの提言』が掲載されています。これには北海道大学馬術部の歩みと、目指しているもの、学馬連のあるべき姿について詳細に先生の考えを述べられています。この原稿は北大馬術部「部報 第28号」(昭和57年度)にも転載されています。

平成18年6月17日に北大「遠友学舎」で開かれた「半澤道郎先生を偲ぶ会」での配布資料とあわせ再録します。(大場善明 (S37)記)


「北からの提言」(「昭和57年度部報」№28から転載)

北海道大学馬術部第六代部長 半澤道郎

Dr_Hanzawa

北大馬術部は昭和5年3月に「北海道帝国大学文武会馬術部」として、母体である「北大乗馬会」(大正14年創立)から誕生したので53年の歴史がある。

北大馬術部は、「部」の創立と同時に全日本学生馬術協会に入会し、たぶん翌年から同協会主催の全日本学生馬術大会に北大選手を送っている。この大会は昭和4年に「第1回」の競技会を開催しているので、協会が設立されたのも昭和になってからのことと考えられる。この大会は現在全日本学生馬術連盟に引き継がれ、昭和57年度は第54回大会(注:「全日本学生馬術選手権大会」)に当たっている。

このころ大正末期から昭和の初めに馬術部のある大学の数も少なく、自馬を持った部は僅かで多くは軍隊の馬で練習をし、競技会も陸軍士官学校、習志野騎兵学校等の施設の提供を受け特別の便宜が与えられていた。当時、高等学校にも馬術部のあるものがかなりあって、「全国高等学校馬術競技会」が東京帝国大学馬術部主催のもとに大正14年から毎年、陸軍大学で開催されていた。「学習院」はすでに校馬を持ち特別であったが、一高、二高、三高、五高、水戸、松本、山形、成城、広島、成蹊、弘前、姫路、北大予科(*北大予科の出場は昭和5年「第7回大会」から、このときの出場校は20校。)などの各校が競っていた。昭和16年の大会には全国26校の記録もあり、北大予科は昭和17年の「第19回大会」まで出場している。

北大は当時最も近い東北大学と昭和6年から「馬術定期戦」を始め、仙台の騎兵第二聯隊と旭川の騎兵第七聯隊で戦前は昭和14年まで、戦後は昭和27年に復活して途中中止した年もあるが、現在もなお続いている。

第1回七帝戦は北大が優勝

また「国立七大学(旧七帝国大学)馬術定期戦」は、現在は他の競技種目とともに各大学持ち回りで開催することとなったが、馬術競技は昭和12年に「第1回」を学習院馬場で開催(北大優勝)以来、戦時中の数年間は中止されたが、昭和27年から復活して現在に至っている。

北海道では昭和17年に「帯広畜産大学」(当時は高等獣医学校)に、昭和37年に「酪農学園大学」、「北大水産学部」(函館)、昭和48年には「北海道工業大学」にもそれぞれ馬術部が創立され、北大馬術部とともに道内外の競技会に出場し、また北大、畜大、酪農大の間で二校または三校で「馬術定期戦」を開催し学生馬術の振興に寄与するばかりでなく、北海道乗馬連盟の諸行事にも参加支援するようになり、次第に優秀な自馬を繋養して全国的に活躍するようになった。

一方東北地区にも「東北大学」を筆頭に、岩手、岩手医科、東北学院、福島、弘前、秋田の諸大学に馬術部が設立され、北海道を含めた北日本地区の学生馬術活動も次第に活発になってきた。それで「東北、北海道学生馬術選手権大会」が昭和27年から開催され、「第一回大会」は北大に於いて、岩大、岩手医大、帯広畜大、北大が参加して実施、以後昭和40年「第14回大会」まで北大、岩大、福島大、東北大、帯広畜大等の各大学に於いて開催されて来たが、「北日本学生馬術連盟」が結成されてからは、「北日本学生馬術大会」に併せて開催することになり、昭和57年には「第18回北日本学生馬術大会」が帯広畜産大学馬場で開催された。もしもこの大会を「北日本学生馬術選手権大会」と呼べば「第30回大会」に相当する。

以上が北日本地区学生馬術の発展と概況であるが、ここで話を昭和30年ころに戻し、その当時の学生の希望を「北大馬術部三十年史」(昭和37年1月1日北海道大学体育会馬術部発行)の中から取り上げて、真の全日本学生馬術王座決定戦の実現に至る経緯を述べてみる。

昭和30年度は北大馬術部が出場したすべての公式戦に全勝する戦後の最盛期を迎えながら、学生馬術の全国的大会がないために「日本一」を競う機会がなかった。当時の日本学生馬術界は地域ごと、たとえば関東学生馬術協会とか関西学生馬術連盟とか東京六大学などの組織があっても全国的な組織がまだなかった。それにもかかわらず関東地区と関西地区の間で「全日本学生王座決定戦」の名称で、昭和26年から大学日本一を決めていた。

この大会を真の全国大会にすることを強く主張したのが、昭和30年の春、日本馬術連盟主催の「第1回学生馬術講習会」の席で北大馬術部の「宮澤寛」君だった。当時全日本学生馬術連盟の結成には、なおかなりの月日を要するものと考えられたので、取りあえず日本馬術連盟の主催で全国的規模の王座決定戦を実施することことを希望し、連盟に対しその後も働きかけを続けてきたのであった。従来の王座決定戦の主催団体が関東と関西だけの学生団体であって、日本馬術連盟はそれを後援していたに過ぎず、ただちに連盟主催にするのには抵抗もあり早急には具体化されなかった。しかしこの「北からの提案」には大義名分があったことと、日本馬術連盟の青山幸高理事(後、学馬連会長)のご尽力によって昭和31年度にほぼ全国的規模の大会が開催される見通しがついたのであった。

ところが残念なことに王座決定戦の予選となった東北・北海道学生馬術選手権大会で、この年の北大は帯広畜大に敗れたために、それまで努力してきた王座決定戦についての交渉を帯広畜産大学に申し送り事項として引き継ぎ、北大は一時手を引く形となった。結局情勢は後退し昭和31年度には実現されず、翌年再び北大が東北・北海道学生馬術選手権大会に優勝できた時にもすでに手遅れとなって昭和32年度にも実現されなかった。

昭和32年12月、全日本学生馬術連盟が創立されて、ようやく同連盟主催のもとに真の学生日本一を決める「全日本学生馬術王座決定戦」(王決)が行われることになった。

提案してから実現まで4年の歳月を要したのは、北日本地区として連盟組織がなかったこと、各地区間の横の連絡が欠けていたこと等によるが、中央の全国的組織であった「全日本学生馬術協会」が未熟であったためかと想像される。ともかく王座決定戦に関して投ぜられた「北からの一石」が「全日本学生馬術連盟」結成の促進に幾分かの力があったとすれば誠に幸いであったと思う。因みに「王座決定戦」の名称は昭和42年までで廃止され、昭和43年からは三種目競技会「全日本学生自馬大会」(注:のちの「全日本学生賞典馬術競技大会」、「全日本学生馬術三大大会」)として実施されている。

北大主催だった全日本女子学生馬術大会

また北大馬術部は昭和33年に「第1回招待全日本女子学生馬術大会」を北大で開催、昭和39年の「第7回」まで北大馬場を会場として実施、年により参加校数が変わったが、夏休みの北海道旅行も兼ねて参加する大学も多く、「第6回大会」には青山学院、麻布獣医、明治、岐阜、学習院、東北、福島、鹿児島、早稲田、帯畜、北大の計「11校」が、また「第7回」には熊本、岡山、岐阜、名古屋、早稲田、中央、福島、岩手、酪農、帯畜、北大の「11校」が参加し、誠に華やかな大会だったが、この大会が母体となって昭和40年から全日本学生馬術連盟の主催で「全日本学生馬術女子選手権大会」が開催され、昭和57年度は「第18回」になるが、北大で始めた昭和33年を第1回として通算すれば第25回となり、特に女子学生選手権だけ第18回とすることもなく女子も堂々と「25年」をお祝いできる次第で、主催にこだわらず「第25回全日本女子学生馬術選手権大会」にしていただければ、北大としても、北日本としても礎石を築いた功績を認めて頂くことになり誠に嬉しいことであります。

全日本学生馬術連盟「25周年」の記念として、過去の投石に新しい提言の投石を加えてみました。なお、「学生馬術」第二号(昭和40年12月、学馬連発行)の6ページに載っている当時の副会長、青山現会長が提唱された、「東西対抗馬術競技会」も選手権や王座決定戦とは別に、対抗意識を高揚して練磨する上に効果があり興味もあると思います。
大きな会長賞(チャレンジ杯)を出していただいて、一年遅れながら25周年を記念する大会として全日本学生馬術連盟が主催されてはは如何でしょうか。

(半澤道郎:昭和58年3月15日、73歳の誕生日に記す)


半澤道郎先生 ご経歴

明治43年3月15日 北海道帝国大学農学部教授 半澤洵先生の長男として札幌に生まれる。
昭和 8年3月 北海道帝国大学理学部化学科を卒業、同大学院有機化学講座に進学。
昭和10年11月 同大学院を中退、北海道帝国大学理学部副手、引き続き助手に就任。
昭和12年12月 理学部から農学部に移籍。同学部で助教授、教授に昇任、林学科林学第6講座を担当。後に、林産学科の増設により林産製造学講座を担当。専門は木材化学で、主に木材のパルプ化および抽出成分を有機化学の手法を用いて研究。
昭和48年4月 定年退職、名誉教授。
昭和50年4月 酪農学園大学嘱託教授(5年間)。
昭和57年4月 勲三等旭日中授章。
平成18年5月4日 肺炎のため逝去(享年96歳)。
この間、日本馬術連盟理事、北海道乗馬連盟副会長、北日本学生馬術連盟会長、北海道大学馬術部長、北海道大学馬術部後援会会長など、広く日本の馬術界に貢献。 (以上)

偲ぶ会
半澤道郎先生を偲ぶ会 平成18年6月17日 北大・遠友学舎
 

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「自馬繋養と馬場・厩舎の新築移転問題」(18条馬場)

(「北大馬術部創立四十周年記念写真集」(S49)から転載)

半澤道郎

昭和38年部長在任僅か一年余で鹿児島大学にご転任になられた松本久喜先生の後を受けて、私が第6代の部長(顧問教官)になり、昨年4月退官まで10年間在任した。昭和3年1月に北大乗馬会に入会してから実に45年の長い歳月を北大で馬と共に過ごして来た。その間昭和5年には文武会馬術部の創設に参画し、永井、高松、黒沢、太秦、松本の歴代部長先生の下に、部の先輩として、また顧問として、部員諸君と共に部の運営に微力を尽して来た。

40年記念写真集

長く部に関係したお蔭で退官に際して種々の記念の行事をして頂く光栄に俗し、全く感謝と感激で一ぱいである。松本先輩は早く亡くなられたが、昨年暮と今年の三月に黒沢、高松両先生が相次いでお亡くなりになられ、切角のアルバムもお目にかけることが出来なくなった。誠に痛惜の至りで茲にお世話になった先生と同級生の九鬼君を始め物故された部の関係の諸兄に対し新たにお冥福を祈る次第である。

幹事の加藤公敏君から部長時代の思い出を書くよう依頼を受けたのであるが、今回は馬術部の馬の繋養問題と馬場、厩舎の新築移転の事に就いての裏話しを述べて責を果すことにする。

昭和29年に第9国の国民体育大会の馬術競技が札幌の競馬場と円山の綜合グラウンドで催されたが、その時の貸与馬競技用の馬の中から6頭が当時の学長の島先生と杉野目先生、太秦部長、松本先輩、部員の大久保君等の尽力によって北大に払下げを受け、待望の自馬を持つことになった。さてその馬の繋養について松本先輩が第一農場の第一畜産部の主任をして居られた関係で、農場の旧い農耕馬用の厩舎に入れて頂くことになり、農場に居た二頭と合せて八頭を部で使える馬として部員が飼養管理一切をすることになった。部室も牛が居なくなった牛舎の一部を使わせて頂くこととなり、戦前に農学部の畜産学科の学生が正課として実習をしていた馬場を自由に使えることになった。畜産学科で乗馬実習が行われていた頃には常時数頭の乗馬が繋養され、教官が配属されていた。塩野谷氏、荒野氏、岡田君の厳父の元八氏等が居られ、馬はハックニーやギドラン等の中半血種が飼われ、時にはハックニーの種牡馬(コッチンガムキング号)やアラブ種の牡馬(影雨号)等も居た。

荒野氏が仙台―東京間の長途騎乗に出場された釧山号、悍の強い青毛の宮武号、騎兵隊から来た大正号(私が騎兵隊の合宿で宛がわれて乗った馬で、滝曹長が調教されたスペイン常歩をやる調教された馬であったが、老令馬で余り長く居なかった)その他蘭高号等々思い出多い馬が居たが、その他に3、4頭の耕馬と土産子や驢馬や騾馬の実験用馬が飼われていた。戦時中に学科課程の改正等によって乗馬実習が無くなり、乗馬も居なくなってしまった。

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馬術部用馬となった馬は大学の備品として、他の動物と共にその飼育費は予算化されて、全部農場の会計に入ることになっていたので、最初のうちは農場で生産された乾草、燕麦、寝わら等が支給され、不足分を部員のアルバイト収入などで補っていた。然し農場自体の経費予算が少なく、農場生産の飼糧等も実験実習その他の都合で余り潤沢には配給されなくなり、購入飼糧の増加と共に馬術部の馬は邪魔物扱いにされる様になった。松本先輩とご一緒に大学本部の会計課に度々出かけて農場に配付される予算の増額や臨時の出費を依頼して急場を凌いだこともあったが、切角増額されても一旦農場の会計に入ると他の部門にも廻されて、部の馬の飼糧その他の経費に充当されるものは僅少となり、外注した飼糧や寝わらの代金はアルバイト収入や先輩の援助等によって支払わなければならなくなって来た。それでも松本先生の在任中は農場から部で必要な量の大半を苦面して呉れたが、先生が辞められてからは、それまで先生か無理をされた反動もあって、農場では馬術部の練習用馬の繋養を全く厄介視するようになった。農場の籍になっていた乗馬が更新の為に離厩するとその処分は農場でやられ、新しく入って来る馬は付属実験牧場から保管転換のものは別として、部で購入したり寄贈を受けたものに対しては、備品として受け入れることを拒まれ、切角寄贈を受けても寄付採納願を受け取って貰えない始末で、本部の備品として貰う様交渉しても農場との関係もあって受け入れて呉れないので、止むを得ず無籍のまゝ厩舎に繋いでで飼育する状態になり、次第に無籍の馬が多くなった。従って正規の予算で飼糧代が本部から農場に廻って来ない為に飼育費は赤字となり、業者の犠牲でその場を凌ぐ有様で、膨大な赤字を抱えた当時の部員の苦悩と努力は誠に気の毒であった。本部の会計や学生部にも度々出頭して、農場から離して本部の所管にして欲しい旨を申し入れたが、当時の学生部長の星教授は音楽の課外活動ではバイオリンの弦は自分で購入するのだから、馬の飼糧代は部員で支払うのが当然だろうと云われ、それが出来なければ支給される予算の内で飼育出来る様に馬の頭数を減らせばよいではないかと云われ、厄介ものを学生部でしょい込むことを敬遠された。また北大には立派を農場や牧場かあるのだから、馬の飼育は当然そちらで面倒を見る可きであって、本部でやるのは筋が通らないとして、専ら学生部から農場にお願いする形で過ぎて来た。田口、明道両農場長、八戸、広瀬両教授や農場の事務の方々には大変ご迷感をかけた。時には叱られた事も度々あったが無理を通して農場に置いて頂いた。第一農場の建物の改築が決まり、馬場に工学部の建物が建てられる事が決定されてからは、暫定的に農場施設を使わせて貰っていたが、次第に農場との関係が薄くなった。

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15年間馬術部の住み家であった第一農場の古めかしい建物も、ポプラ並末の横に手稲連山を望み乍ら、毎日の練習や多くの競技会をやった思い出の馬場も、もう見る事が出来なくなってしまって、本当に名残り惜しい淋しさを感ずるが、過ぎ去ったいろいろを場面が脳裏に探く刻まれていて何時も懐かしく思い浮べることができる。

北大の諸施設が次第に拡充整備されるに及んで、従来農学部の農場用地であったところが、次々に本部や他学部の施設の用地に転換され、広大さを誇っていた北大の構内も狭隘になって、第一農場の建物のあった部分は理学部に、馬場は工学部に移されることになって、老朽の甚だしい厩舎や牛舎は取り壊すことになり、馬場には工学部の瞬間強力パルス状放射線発生装置研究施設が建設されることが決まって、厩舎、部室、馬場の新築移転の実施の問題が急に表面化し、大学本部としても本腰を入れて具体化を計って呉れることになったが、馬術部としては以前から前述の様に農場から厄介者扱を受け、農場の生産物の供与が無くなった時点に、既に所管を本部(学生部)に移し、農場と縁を切る方がお互に都合がよいと考えて、農場用地でない本部管轄の土地に移転することを希望して来た、綜合グラウンドの設置が計画された頃に、松本先輩が綜合グラウンドの内で、第一農場に接した端の処に馬場と厩舎を移す計画を本部に持ち出されたのであったが、時機的な問題で綜合グラウンド建設の最初の計画には取り上げられなかった。其の後学生部では現在の硬式野球場と軟式野球場の間の処と、硬式野球場の西側全部を馬術部用にすることに殆んど決められたのであったが、冬季オリンピックが札幌に開催されることが決定するに及んで、トレーニングセンター(現在は北大に所属する体育指導センター)が急拠建設されることになり、馬術部用地をそちらに当てることゝなって沙汰止みになってしまった。前述の工学部の共同利用施設に予算がついて機械も発注され、責任者の小沢教授から馬場の移転を度々催促されるようになり、小沢教授からも本部に交渉して頂き、私も度々本部に出向いて早期実現を要望した。本部としても切角予定した候補地を取り上げた手前もあって積極的に用地を探して下さることになった。

然しいざとなるとさすがに広い北大構内もいろいろの問題があって、そう簡単に決めることができない有様で、何度となく構内を歩き廻り、時には部員諸君と一緒に探して、私の案としては旧第二農場の牡牛のパドックであった処(現在馬場のある場所)を馬場の用地として本部に希望を申し入れた。その場所は第二農場の古い建物が文化庁から重要文化財の指定を受けたために、農場から本部に移管された土地であって、移管の際に当時の農学部長の石塚教授と農場長の明道教授から本部に対し、将来建築物は建てないこと、地表の牧草は家畜飼糧として農場で使用する等の条件を付けられてあった。

牡牛のパドックは大きな石が入って居て牧草畑にはならないし、唯遊ばせて置く位なら馬場にすれば広場として残り、風致も害われないし、牧場の紛囲気にも合うなどを強調し、文化庁にも出頭して内諾を得た。本部の官財課でも遂に馬場として使用することを許可して呉れた。厩舎と部室の建設用地は未定であったが、馬場と厩舎の新設費の予算獲得について、経理部長の前田氏(現在帯広畜産大学事務局長)が積極的に文部省に接渉して下さり、設計其の他について企画課長の中島氏も真に好意的の援助をして頂いた。

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馬場は東西80m、南北40mの角馬場とし、地表から80cm位下に排水用の土管を2m間隔で南北に並べ、土管の上10cm位土を均しその上に10cm位火山灰を敷いて圧締した上に砂を10~15cm敷く設計で、工事が44年から始められた。土管の工事には学生のアルバイトを頼み、火山灰は長沼附近のものを運び、砂は競馬場の走路のものと同じものを指定して入れて貰った。馬場の周囲には排水溝を太目の土管で囲んで馬場内の排水管と接いで西側に導く様にした。東側の三角地には砂を入れないで、岡田君(当時札幌市土木部長)に頼んで市の道路工事の排土をトラック20台分位を運んで頂いて、小山やバンケット等不整地を造った。また周囲の埒の支柱は当時の札幌競馬場の大木場長にお願いして、走路に使った古いものを無償で頂いて、コンクリートの土台に埋め込んで造った。北18条の市道に面した場所が場所だけに通学の学生や通勤の職員には大がかりの地均作業を見て一体何が出来るのかと注目されたようで、後で馬場が出来たのを見て驚いた人が多かったそうである。

この様に馬場の方は順調に進んだのであるが厩舎については紆余曲折があって、簡単に進まなかった。私は最初は成る可く費用のかゝらないようにと考えて、学内の既設の建物を厩舎に改造することを計画し、先づ重要文化財に指定される前から第二農場の不用の建物を狙って種牡牛舎を改造することを本部に申出た、最初はこの建物は重要文化財に入っていなかったのであったが、文化庁の人が実地を見に来て、ついでに文化財にさせられ、部室に使い度いと考えた旧の製乳所のレンガの建物も、第二農場の事務室も同じ運命に会ってしまった。文化庁に出かけて文化財使用の可否を問い合わせたところ、文化庁で唯遊休施設として保存しなくても、原型復することが出来る様に手を加えて、有効に使用することは差支え無く、厩舎として使用することは構わないという意向であった。我が意を得たりと本部の管財に交渉したところ、学生に責任を持たせることは出来ないということで使用は認められなくなり、第二候補として獣医学部の東に残っていた旧い建物を狙ったが、申出た時には既に取り壊しが決定し書類が本省に到着した後であって、今更撤回する訳には行かないという事で、これも不成功に了った。

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前田経理部長は厩舎の新築費も何とか獲得してやるという事になって45年の2月頃に700万円位を取って下さった。新しい厩舎の設計に当って競馬場の競走馬の厩舎を参考として最初は10~12頭分の馬房を1列にしたものとし、両袖に部室と物置をつける様にし、大木場長に競馬場の新設厩舎の設計図を見せて頂いて本部の施設部と交渉をし、設計を依頼した。本部では1列だと費用が嵩むというので、6頭向い合せにすること、予算の範囲では物置を取る余裕のないこと等で、現在建った様なものに落着いた次第であった。馬房の床についてろいろ検討したのであったが、これも予算の都合で理想的なものにすることが出来ないで、一番安価な赤土にニガリを混ぜて渇き固めるだけにし、屋根裏に乾操や寝わらを貯蔵する様にし、部室の上は畳を敷いて数名寝泊り出来る様にした。予算が決まっていて面積が限定された為に狭溢で余悠の無い建物になってしまった。

設計図を部員に見せたところ、私が無理に水洗にする様に頼んで造ることにした便所を、不潔だし、掃除をするのが嫌だから、便所を止めて物置場を拡げて欲しいと云い出し、小栗君までが本気で申し入れられたのには一服した。私が行った時に使うから造る様にといゝ、掃除も私がするという事で納得して貰った。出来上ったら不要だと云った者も結構用を達して居るようで、掃除もやっている様をなので私は約束を果さないで退官してしまった。最近少し汚れた様なので近い中掃除に行かなければと考えている。

厩舎の工事に関して余り足繁く本部に顔を出したので、私の顔を見るとまた来たのかと迷惑そうな顔をされるようになった。

設計図が出来上り、仕様が決まり建設業者も決まってから、建設場所の選定が問題となって用地のなかなか決まらない有様であった。先に旧い建物を改造して使うことを考えた建物のあった本部の所管の獣医学部の東端の処は馬場にも近く最適と考えて、獣医学部と交渉したのであるが、将来近くに小動物の飼育舎を建てることになっているとか、放射性同位元素の研究棟を造るとか、本館を増築する時に差支えるとか、当然獣医学部の用地に入る区域だという事で賛成が得られなかった。次にその少し北側に低温研究室に入る道路に沿った第二農場の所管のところに眼をつけたのであるが、低温研究所では玄関の真正面にそんなものを建てられては困るというので反対され、また農場では其処は以前に患畜の隔離病棟があった処だから止めた方が良いだろうという事で其処も諦めることとした。

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次に中央通りのつき当りの官舎の建っている処は近い中に官舎を取り壊すことになっているから、官舎を取り除いた後を使わせて貰い度いと考えたが、取り壊しの時期が大部先になるという事で駄目になった。次に恵迪寮の西北の原始林の中の空地(自動車部の用地の西)を狙ったが、其処には旧土人の住居の跡があるという事で自然保護や北方文化関係の先生方の反対があり、自動車部の施設とした時にいくつか損われたとか、本部で武道館を建てる計画を樹てたけれども使えなかったという事で全然問題にならなかった。次に少し東に出て恵迪寮と北18条の市道との間で、前に池のあった処で、自動車部の手前のところに目を付けたのであるが、寮の食堂や炊事場の近くに動物を飼うのは不衛生であるという事で学生部の厚生課から反対され、強行して学生運動の好餌にされても困るという事でこれも断念、次に綜合グラウンドの最北西端の空地は相当に広く、厩舎ばかりでなくパドックや小馬場を併置しても充分余悠があるから其処に決めては何うかということで本部でも其処なら他に影響が無いからと勧められたが、馬場に出て来る直通の通路が無く、冬の除雪も出来ない状況で、徒歩で雪の中を往復するには余りに遠すぎるということゝで断念せざるを得ないことになり、愈々思案に窮して建物を建てないことになっている旧第二農場事務所と新設した馬場との間にある林の内に建てて貰い度いと考え管財課に申出たところ、約束だから絶対に建物は建てられないと云われた。全く萬事窮する形となり当時の大学の施設委員会の委員長であった大野工学部長に善処方をお願いすることにして、ご相談に行った。大野教授は軍隊生活を野砲隊だったか輜重隊で送られ馬の飼育管理については良く知っておられ同情をして下さり、委員の方々で古い厩舎を見られ環境衛生上のことも考えられて、重要文化財用地内に建ててもよろしいが樹を伐り倒す事は駄目だという事で、出来上った馬場の内の西側(現在の位置)に建てることを提案された。私は切角出来た馬場を縮少する事には不満であったので、極力林の内か種牡牛舎の東側に建てて欲しいと説いたのであったが、ゴタゴタ云っていれば結局建たなくなると驚かされ、大野先生の裁量によって現在の処に建てることに決められた。大野先生は自ら予定個処に縄張りをして位置を決めて下さる有様で、ご一緒に現地に行ってもう少し道路に寄せて奥の空地を広く取ることや、出来るだけ西に寄せて馬場との間を広くする様にお願いしたのであるが、建築工学の大先生には全く歯が立たないで先生の云うなりに決められて了った。

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結局建物が建てられない事になっていた処に建物が建てられたが、お蔭で馬場が80mの長さが64mに縮少されてしまった。その補いに馬場に隣接した三角地に20m位延ばして飽く迄も80mの長さにし度いと思い畜産学科の広瀬教授に地上権の割愛方を申し出たが、農場側の事情で拒否され、競技会を挙行する場合に臨時に準備馬場として使う事の許可を得たが、将来農場の事情が変った時には馬術部に優先的に使わせて欲しい旨を述べて来た。

愈々厩舎が建ったところ文化庁の方で厩舎の西側に厩舎スレスレに金網の垣を造ることになり、支柱を立てる穴を堀り始めたので、パドック用地が無くなるので慌てゝ早速施設部から文化庁に電話をかけて貰い現在の地点まで西に寄せて垣を造って貰う事が出来た。間一髪余りにアッサリ変更して呉れたのには驚いたが、文化庁の好意ある配慮は本当に有難く嬉しかった。

退官を間近かに控え、背水の構えで、方々にご無理をお願いしたので、今振り返えって随分厚かましいことであったと冷汗の出る思いである。

お世話になった多くの方々のご厚意に対し心からお礼を申し上げる次第であります。

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「馬場・厩舎移転の経過報告」(23条馬場)

(「部報 平成10年度―馬場移転記念号―」から転載)

馬術部部長 市川 瑞彦

1. はじめに

北大札幌キャンパスの北西の角(北24条西13丁目)に位置する新しい馬場及び厩舎・飼料庫・堆肥置場の施設群は、1999年3月1日に札幌市役所から北大に完成引渡しとなりました。引き続き、引越し作業が行われ3月以来新馬場で活動しております。現在は、積雪のためやり残しとなっていた最終的な整地作業・芝張り・芝の種まきなどの土木工事を終え最終的引渡しを残すのみとなっております。キャンパスの北西のはずれといっても札幌の中心部に近い一等地であることには変わりありません。

平成10年度―馬場移転記念号

この馬場は、我が北大馬術部創立以来、初代のポプラ並木横の旧第一農場内馬場、二代目の北18条旧第二農場の牡牛パドック跡、についで三代目の馬場となった。もっとも、初代の馬場は、「北大馬術部創立40年記念写真集」の中で第4代部長太秦康光先生の書かれた文章によると、農学部畜産学科の必修科目「乗馬及び馬匹調教実習」の実習馬場であったとのことであるから、自前の馬場としては二代目というべきかもしれない。

二代目の「北18条馬場」と厩舎が、その位置と内容に確定するまでの紆余曲折と並々ならぬご苦労の様子は、「40年記念写真集」に当時の第6代部長半沢道郎先生が「自馬繋養と馬場、厩舎の新築移転問題」と題する文の中で詳しく述べられている。残念ながら、先生は倒れられた後言葉がご不自由なので、私は現在先生と意思疎通を十分することができませんが、去る5月3-4日に行われた「半沢杯馬術大会」の折には体調が十分でないにもかかわらずご出席くださり、その帰り際付き添われたご家族の心配をよそに新しい施設に関心を示され私の説明にうなずかれておられたのが印象的でした。おそらく先生は、新しい「北24条馬場・厩舎」をご覧になりながら、約30年ほど前ご苦労の末完成された「北18条馬場・厩舎」がなくなってしまったことをダブらせておられたのではなかろうかと推察します。

幸い北大の関係者、馬術関係者、OBの皆さんが、「馬場が広く、施設が立派」と云ってくださるので、これからおそらく30年ぐらいの間馬術部の活動の場を決める責任を負っていた者として、追い出されることなくキャンパス内に馬場を確保できたことに先ずは安堵しているところです。半沢先生はじめ先輩諸兄のご苦労や築かれた実績の上に、我々が自馬を繋養して以来、着実に馬場・厩舎はその建物・面積とも充実してきていることを皆さんとともに喜びたいと思います。

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2.「北18条道路問題」の経緯

北18条馬場が接していた北18条道路については、昭和54年、昭和56年の二回にわたり、札幌市から道路整備計画(北18条通りを環状線の一部として拡幅・整備する計画)を推進したい旨の申し入れがありました。これに対し北大では評議会決定として「大学の主要な教育・研究施設、文化財などが集中立地するキャンパスの真中を幹線道路が通過するものであるため、本学の教育・研究及び管理運営に及ぼす影響があまりにも大きく、大学としてこれを容認することはできない」と回答をし、「地表で通過交通を通すことは認められない」など8条件を提示してきました。

平成4年に札幌市から再び協議の申し入れがあり、従来の計画案を再検討し「大学と都市計画の整合性を考慮した」とする新たな計画案が提示された。北大としても「北18条道路専門委員会」を組織し、昭和56年に評議会決定した「8条件」をクリアしているかどうかなどについて検討を重ねてきました。その結果、平成7年11月「北18条道路専門委員会」は、札幌市による環境アセスメントを経て、新しい北18条道路整備計画案は「8条件」をクリアしており、教育・研究環境が現状よりも悪化することなく改善されるところが大きいと考えられるので、この計画案を容認し前向きに検討することを答申した。この答申が最終的に評議会で承認されたことにより計画が動き出し、馬術部が計画の「支障物件」となり移転問題が浮上したわけである。

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3.「馬場・厩舎移転」の経緯

a)平成8年以前

前述のように公式的には、平成7年11月の「北18条道路専門委員会」の答申が出てから移転問題が動き出したことになるのであろうが、実際には少なくともそれをさかのぼること2年半ほど前にはすでに動き出していることがわかる。後の経過と関係するので引用すると、前部長の斎藤善一先生から引き継いだ文書の中に、斎藤先生が当時の深沢和三学生部長に出した「市道拡幅による馬場削減の件」と題する文書の中に

1)現在の総面積、設備が確保され、整地が十分であれば、キャンパス内のどこに移転しても構わない。20m×60mの馬場馬術用の馬場2面とそれへのアプローチ部分を含め60m×80mの平坦部分を馬場内に確保する必要がある。

2)移転しないで現地に留まるとすれば、(中略)削られた面積と同等の部分を現厩舎西側(モデルバーン敷地)あるいは現18条通り部分(トンネル上)に確保していただきたい。(後略)

とある。またその基になったと思われる鉛筆書きのメモの中に「北24条側であってもよい」との記述がみられるので、当初から北24条側も含めキャンパス内ならどこにでも移転する決意と、60m×80mの平坦部分を馬場内に確保するという目標がみてとれる。この「60m×80mの馬場の確保」は、私も当然と思っていたが、歴史的に悲願ともいうべきことかもしれないものであることが後になってわかった。それは、前述の半沢先生の文章中に、約60m×80mの馬場が一旦「北18条旧第二農場の牡牛パドック跡」に確保された後で厩舎の建築場所がなかなか決まらず、紆余曲折の未に本来建築物は建てない条件になっていた馬場用地の一部を割いて厩舎を建てざるを得なくなり、その結果60m×65mに馬場が縮小させられてしまった経緯が詳細に書かれていたからである。この点は、さぞかしご無念であっただろうと推察します。

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b)平成8年

さて、「北18条道路専門委員会」の答申が出てすぐ後、平成7年の暮れ頃から学務部・(旧学生部)学生課から移転先の面積に関して要望を出すよう依頼があり、年明け早々に要望書を提出した。このときの内容は、現状の面積を基礎としたもので、現状を大きく上回るものではなかった。それは、前部長の斎藤先生から「火事場泥棒のようなことはしないように」とくぎを刺されていたからでもある。しかし、「60m×80mの馬場の確保」(馬場競技の審判席のスペース、入場前の運動スペースを考慮して後に80mから90mへ変更)は文書に入っていた。

2月19日には副学長、学生課長以下学務部と馬術部の懇談の機会があり、副学長から「北18条道路問題」の経過と現状について説明があった。馬術部からは移転はやむをえないと考えていること、先に出した要望書の面積は現状を基本とした最小限のものであること、その他考慮すべき点について話をした。このとき副学長は、キャンパスマスタープランに馬術部の場所を含める、したがって今後20~30年は変わらないので、実現するかどうかは別にして、具体的要望や案はどんどん出して夢のあるものにしてほしいと言われた。キャンパスマスタープランとは、北大のキャンパスを全体としてどのように使っていくか長期的な計画を策定しようとするもので、全学的な委員会ができていた(後に馬場移転とこのキャンパスマスタープランとの関係が問題を複雑にすることになる)。

2月29日には、移転先には、部員の活動、通学の便、馬の治療、不整地や環境の利用などの点から、第二畜産部かそれに隣接する地域を希望する旨の要望を副学長に出した。馬術部としてはこれまでキャンパス内ならどこでも移転すると言っているが、それから時間も経っているし、要望が通ればそれにこしたことはないと考えたからである。

6月7日、学生課から北18条道路拡幅で削られた(1,900m2)後の現在地で活動するとしたら厩舎をどこに建て、他の建物をどこに配置するか検討してほしい旨要請があった。削られた跡地において活動していくことは極めて困難で移転の方向で考えたい旨対応してきたが、6月20日頃学生課長、同補佐に直接回答した。この席で、先に出した要望にもとづく馬場・厩舎のレイアウトを提出してほしい旨要請された。この頃は学生課でも、文部省を通じて資料を集められ、理想的な面積として80m×140mの馬場を考えるなど我々を喜ばせた。また学生課では帯広畜大の馬場・施設の図面や、ノーザンホースパークに視察に行くなど好意的・積極的に考えていただいたように思う。

8月14日施設部が現有スペースにもとづきレイアウトしなおすように要求している旨、学生課を通じて連絡があった。「移転補償」は現状に対する補償であるため拡大したスペースを基にしては交渉ができないとの趣旨であった。これは突然の方向転換であった。ここで困ったのは、「60m×90mの馬場」を確保しようとすれば、パドックのスペースを捻出できないことであった。そこで、8月19日、学生課長補佐の方に依頼して同席の上、施設部企画課長以下3名の担当者と面談し、最終的に幅10mのパドック分(830 m2)の割増を認めてもらい、これを「現有スペースにもとづくレイアウト案」として提出した。この後しばらくの間表立って何の連絡もなく推移したが、バックグラウンドでは少しさかのぼる頃から具体的かつ重要な変化があったようである。キャンパスマスタープランの確定である。キャンパスマスタープラン委員会のゾーニング計画(資料1、5月15日)の図では、北24条沿いに東西に長さ約230m、南北に幅100mの領域に「馬事公苑」の名が見られる(10月のバージョンでは約140m×100mに変更されている)。私自身はこの件について承知していないが、上記委員会で議論され考えられていたのであろう。11月25日の部局長等からなる全学施設計画委員会では、当面の計画とマスタープランは分けて考えることが議論されたという。このキャンパスマスタープランは、明けて1月29日の評議会で承認された。

移転先については、側聞するところでは、さかのぼる12月18日に副学長と農場の間で話し合いがもたれたそうである。農場側からは、第二農場が将来的に他所に移転することについてはやむをえないと考えているが、キャンパスマスタープランの馬事公苑への馬術部の移転は困る、農場の移転までの間そこを使いたいと主張し、代替地の提案もあったようである。3ケ月後の明けて3月19日には、移転先について施設部、学務部、農場、馬術部で話し合いがもたれたが、農場サイドは「30名の学生の課外活動と、農学の研究・教育とどっちが大事だ」と繰り返し主張した。しかし、農場は方向性としては第二農場を明け渡すことを承諾していることからか、この頃には移転先については事実上確定していた。すなわち、1)移転先は第二農場北西の角、2)敷地は北24条に沿って東西114m、南北174m、3)西側及び北側に20mの緩衝帯を設けること。

この間の事情は、馬術部が参加できない全学的会議で決定されてきたことから経過を正確に把握できない面があるが、およそ次のようなものと思われる。馬術部の移転場所やスペースは、問題をどう見るかで、まるで異なってくるのである。キャンパスマスタープランの中で長期的なスケールで考えると、現有スペースに縛られる理由はないので、夢のあるプランを議論することができる。一方、さしせまった北18条道路整備計画の「移転補償」として考えると「現状補償」の問題に限定されてくる。この二つの流れが同じ時期に起こり錯綜していたために混乱があったと思われる。すなわち当初副学長、学務部はキャンパスマスタープランの中で考えたのに対し、途中から施設部では「移転補償」に限定してきて、馬術部はそれに振り回される結果になった。いずれにせよ、これで馬場・厩舎の移転の方向は、移転先は第二農場北西の角、内容は現状補償で決まった。

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c)平成9年4月以降

この時点から馬場・厩舎の移転問題は、第二農場北西の角、現状補償という条件のもとで、今後数十年間活動する場としてベストのものをどのようにしてつくるかという点に絞られてきた。5月14日には施設部、学務部、農場、馬術部の間で話し合いがもたれた。このときの主な内容は、北大敷地西側境界線に沿って通学、堆肥運搬、補助的車両通行のための道路を確保することであった。7月23日には市役所・北大関係者・設計事務所関係者が一堂に会する集まりがあり、設計工程・現地調査など移転の具体的な打ち合わせが行われた。この席では、市役所サイドからは現状補償一点張りの主張がされたので、これでは先行きが思いやられ「馬術部は好き好んでこんな条件のよい現在の場所から最も遠い北西の角地に移転するのではなく、北18条道路整備計画に協力するからではないか。我々は補償された施設に不満があっても今後数十年間活動していかなければならない。現状補償だけを主張するのであれば、馬術部にも移るか移らないかの選択権を与えよ」と主張し、会議は一時進まなくなった。今後のすべての困難な問題はこの「現状補償」の壁であった。市役所関係者はこの点については譲らなかったが、言ったことにはきちんと対応し、その後不愉快なことは一つもなかった。これ以降は馬場・厩舎・部室の内容が、平成11年3月1日の竣工引渡しまで、設計・施工・手直しなどを経て確定していくことになるが、その詳細な経過を辿ることは避け、問題となった主な点を次の「施設の概要」の中で述べるにとどめる。

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4.諸施設の概要

a)馬場

現在の敷地面積しか認められないという制約の下で次のような内容とした。1)本馬場を60m×90mとし、馬場の競技を二面同時にできるようなスペースをとった。2)準備馬場(60m×約49m)と本馬場の間は、移動柵で区切ることにし、柔軟性をもたせた。3)この結果、現在のパドック、傾斜地を敷地内に盛り込むことはできなかったが、20m幅の周辺緩衝緑地帯のスペースを有効に活用することで対処したいと考えている。北大敷地西側境界線に沿った通路は幅3.5mだけが認められた。

b)部室

厩舎と部室を火災防止の観点から別棟とした。部室は、部室(12.5畳)、男子(12.5畳)及び女子(6畳)更衣室、男女別トイレ、シャワー室からなる。男子更衣室と部室は、境の戸をはずすと一つの部屋として使用できるようになっている。二階は合宿所(44畳)及びバルコニーからなり、バルコニーは試合の際には審判席として使用できるよう外からの階段を設けてある。このように、部室は現在より広さ内容ともかなり充実したものになりました。

c)厩舎

14頭分の馬房、飼料庫、鞍置き場、装蹄所(兼洗い場)からなる。中央の通路は広くしたかったのですが、現有面積との関係で断念し、その代わり格子戸をとりつけ、場合により馬が首を出せないようにしました。馬房は現在より幅が30cmほど広がりました。

d)乾草庫

天井裏の乾草庫は、ロール乾草の時代に対応して、地上に下ろし同容積分の別棟のD型乾草庫とした。当初から乾草庫の面積増を一貫して主張しましたが、「移転補償」の壁で実現しなかったのは残念でした。その代わり将来の増築が可能なようにレイアウトしてあります。このD型乾草庫は、市街化区域の建築基準に則った立派なもので、トラックの乗り入れを想定しております。実際問題としてこの乾草庫ではスペースが足りないため、施工業者と市役所との間の完成引渡しと、市役所と北大との間の完成引渡しの間に(つまり馬の引越しの前に)厩舎の屋根裏に床張り工事を行い補助的な乾草庫をつくりました。この費用として、一部は学務部から出していただきましたが、大半は後援会の寄附を使わせていただきました。

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5.おわりに

今回の馬場移転問題は、いままでみてきたように、「北18条道路整備計画に関わる移転補償」の面と「キャンパスマスタープラン中の馬術部の位置」という二つの面が錯綜していた。また、共に全学的な機関で議論されてきたため、直接意見を述べる機会はありませんでした。また交渉過程でも学務部や馬術部は当事者なのに、間接的にしか意見を述べることができない場合もあり歯がゆい思いをしました。また、未解決で残された問題もあります。その第1は、北大敷地西側境界線に沿った通路が現時点で大学の予算の関係でまだ実現していないことである。部員の通学、堆肥の運搬などに支障が出ており、早急に解決しなければならない。第2は防風対策で、これは当初から気がついていたが、まだ決定的な解決策が見つからない。第二農場は吹きさらしになり、砂の飛散、冬季間の練習など頭の痛いところで、植樹、防風ネットなどあらゆる努力を払う必要があります。第3は、臭い・はえなどによる周辺住民とのトラブルです。この点も我々は当初から危惧しており、この場所を希望したわけではないので第一義的には我々に責任はないともいえますが、何とか努力をしなければならないでしょう。キャンパスマスタープランの議論に我々も加わって時間の余裕があれば、もっと広いスペースの中に環境とマッチした馬場・厩舎の設計も可能であったと思われ残念である。

しかし全体的には、「移転補償」の制約の下では、市役所、設計事務所、施工業者の担当者の方々がよく我々の主張・要望に耳を傾けていただき、結果的によいものになったと考えており、感謝しています。最後になりましたが、この間にお世話になった皆さんにお礼を申し上げなければならない。経過報告の中では述べませんでしたが、高野文彰氏にはこの移転計画の当初から、馬場・厩舎のレイアウトや設計に相談にのっていただき図面を引いていただきました。氏には宮城国体の馬場設計の経験があり、まだ現役の選手であり、私が4年生の時の1年生という気安さもあってずいぶんと仕事をさせてしまいました。さきに述べましたように、大学側の対応が、「キャンパスマスタープラン」の「夢のある案」から「現有スペースの移転補償」へ急展開し、馬術部が結果的に振り回され返答に時間的余裕のないときもあり、無理なお願いをしました。あるときは、歯痛で歯医者さんから帰ったばかりのご不自由な身に、電話口まで無理強いしたことも気になっています。もう一つの問題は、馬術部の要望を直接札幌市役所に聞いていただきたいと申し入れましたが実現せず、歯がゆい思いをしていました。これには、岡田光夫顧問、八木正巳氏が足を運んでくださり、おかげさまで馬術部の状況をよりよく理解していただけたのではないかと思います。厚くお礼申し上げます。畜大OBの中曽根宏氏、長岡源一郎氏には、日頃部員がお世話になっていることに重ねて、ご丁寧に乾草庫の設計やレイアウトに何度も示唆をいただきました。前述のように、その通り実現したとは云えませんが、一部は活かされていると思います。この場を借りてお礼申し上げます。後援会員の佐合義弘氏にせっかく寄贈していただいた飼料庫は、新しい厩舎に算入されたため残念ながら取り壊しとなりました。新厩舎の飼料庫は、氏の寄贈によるこの飼料庫が基礎になっていることを記憶に留めるためプレートに記述し残しました。移転に際しての後援会の寄附金も当初の予想をはるかに越える金額が集まりました。快く多額の寄附に御協力いただいた会員・OBの皆さんに厚くお札申し上げます。その過程で、佐合義弘氏、大場善明氏、八木沢守正氏、石川信行氏ほかの皆さんにはご尽力いただきました。実は、厩舎の屋根裏工事は寄附の集まり具合の予想がたたなかったために、最後まで床張をするかどうか迷っていました。この機会を失すると困難との結論で踏み切りましたが、結果的によい目がでてよかったと思います。寄附金の一部は半沢杯馬術大会での馬場開きセレモニー及び夕方のレセプションの費用にも使わせていただきました。考えてみますと、今回の馬場移転の問題に私が関わってからでも短いようですが三年半の歳月がながれました。その間現役部員の担当者も、中村君(北村(薫)さん)、亀山君、田中君、金丸君と替わってきました。彼らの協力にも感謝して筆をおきます。(99.6.8.)

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