第1話 城戸俊三と久軍号


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多くの場合、西竹一と愛馬ウラヌスの話から入るのですが、ここでは城戸俊三と久軍号の話から紹介したいと思います。バロン・西の英雄譚に隠れて目立たなくなっているという判官びいきもありますが、城戸俊三のエピソードには、その後の国際馬術連盟憲章やすべての国際馬術競技規則の中心にすえられている「愛馬精神」の発露があるからです。このサイトを読まれる方は日ごろ馬術に親しんでいる方々が多いでしょう。鞍上にあるとき、城戸俊三のことを片時も忘れてはいけないと思います。

 
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城戸俊三と久軍号

 

この時の馬術の日本代表は次のようなメンバーでした。

  監督   騎兵大佐   遊佐幸平  
  総合   騎兵中佐   城戸俊三   久軍号
  総合   騎兵大尉   山本盛重   錦郷号
  総合   砲兵大尉   奈良太郎   孫神号
  大障害   騎兵少佐   今村 安   ソンネボーイ号
  大障害   騎兵大尉   吉田重友   ファレーズ号
  大障害   騎兵中尉   西  竹一   ウラヌス号

 

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監督の「遊佐幸平」は戦前戦後を通じて、あらゆる馬術教本にこの人の名前があり、"馬術の神様"と言える人です。また全員が軍人なのは、この時代、陸軍の枢要な構成を騎兵が占め、日本の馬術界を千葉県習志野にあった陸軍騎兵学校がリードしていたからです。この学校「遊佐幸平」のことは別項にまとめます。

遊佐幸平監督以下選手の一行は、出場馬と相前後して昭和7年5月28日、「秩父丸」で各国中一番乗りでロサンゼルスに到着しました。2週間余の太平洋横断の長旅の上、馬匹輸送のため別便の貨物船を仕立てなければなリませんでした。選手団は7人ですが、馬丁として貨物船でも現地の厩舎でも寝起きをともにしながら付き添う兵卒もいたので大人数でした。このオリンピックは日本が国の威信をかけた遠征だったのです。

馬術競技の日本代表チームの主将も務めていた城戸俊三選手が愛馬「久軍」(きゅうぐん)とともに出場した種目、総合馬術競技耐久決勝戦は、山野を22マイル(32.29km)走るものでした。途中のコースには50個の障害が設置され、これを飛越しながら全力疾走するという非常にハードなもので、とりわけ馬の持久力が勝敗を左右しました。

鞍上の城戸選手は、落ち着いていました。全コースのほとんどを順調に走り終え、あと1障害と1.94㌔㍍の距離を残すだけの所まで来ていました。全コースの99%を走行したこの時点で、かなりの上位順位が予想された、まさにそのときアクシデントが起きました。

観客は、その時、眼前の信じられない光景に息を呑みました。城戸選手は突然「久軍号」から飛び下りたのです。彼は愛馬と一緒に歩きながらたてがみをたたいて労をたたえていました。栄光を目前にしながらの棄権でした。

馬齢19歳という「久軍号」は、この時全身から汗が吹き出し、鼻孔は開ききっていました。すでに全力を出し切っていたものの、なおもかすかに残る力で次のジャンプへ向けての前進気勢を見せていました。ムチを当てれば、最後の力を振り絞って障害に挑んだことでしょう。

ですが、このまま障害を飛び越えさせれば死んでしまうという城戸選手の咄嗟の判断で下馬したのです。その時、「久軍号」は、主人の心を知ってか、城戸選手の肩に鼻を埋めて、まるで「ごめんなさい」と謝りながら泣いているようであったといいます。

静かに退場する人馬の姿を見た数名の審判員は、思わずもらい泣きしたそうです。当時のロサンゼルス(羅府)で発行された邦字新聞「羅府新報」の見出しには、「熱涙を呑んで 城戸少佐 馬を救う 最後の障害で棄権」と書かれています。

城戸は後にこう語っています。「自分は馬の使い方が下手だとつくづく感じた。久軍には気の毒なことをした」。

 
城戸俊三
城戸俊三
 

当時の英字紙

Applause for his Decision to Choose his Horse
But then something unbelievable happened
out of the blue. All of a sudden KIDO
dismounted from his horse.
At that time Kyugun was 19 years old, or about 70 in
human years. His body was laced with sweat
and he was almost out of breath. Under
these circumstances, jockeys usually whip
their horses to use the last of their energy,
and it was probable that Kyugun would respond
to this.

However, KIDO thought Kyugun might die if he
forced the horse to jump over another obstacle.
So, KIDO made up his mind to choose his loving
horse over winning a gold medal. Kyugun stepped
closer to his rider. The audience and judges
reportedly shed tears to see a scene where it
looked like Kyugun was apologizing to KIDO.
KIDO later said, "I really realized I'm not
good at riding a horse, and I feel very
sorry for Kyugun."

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愛馬精神に徹した城戸選手の行為を讃えて、2年後にアメリカ人道協会は2枚の記念碑を銅版で鋳造しました。1枚は1934年にカリフォルニア州のルビドウ山にある「友情の橋」に取り付けられ、もう1枚はリバーサイド・ミッションインという教会が保管しました。

銅版にはこう刻まれています。横書きの英文の横には縦書きの日本語で「情は武士の道」と武士道精神の真髄が書かれています。

DURING THE EQUESTRIAN GAMES OF THE 10th OLYMPIAD
LT.COL.SHUNZO KIDO TURNED ASIDE
FROM THE PRIZE TO SAVE HIS HORSE.

HE HEARD THE LOW VOICE OF MERCY, NOT THE
LOUD ACCLAIM OF GLORY.

「第10回オリンピック馬術競技で城戸俊三中佐は愛馬を救うため栄光を捨てて下馬した」
「彼はそのとき、怒涛のような喝采ではなく、静かなあわれみと慈しみの声を聞いたのだ」

An American humane society expressed their
great admiration for KIDO's love for his
horse and created a bronze plague in his
honor.

「アメリカ人道協会は城戸選手の愛馬精神を讃えてこの銅版を建立する」

 
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リバーサイド・ミッションインに保管されていた記念碑は
1964年に日本へ贈られ、現在は当時の鞍とともに
秩父宮スポーツ博物館にある

 

この時、城戸選手が使用していた鞍は、競技の翌日、日本馬術チームを親切に世話してくれたルイス・ゴスネー・カッスル夫人に記念に贈られました。ずっと後、第18回東京オリンピック(1964年・昭和39年)の時、アメリカの関係者の好意により、当時のライシャワー駐日大使の手から、日本オリンピック委員会・竹田恆徳委員長(当時)にリバーサイド・ミッションインに保管されていた銅版とともに贈呈されました。馬術のよってたつ精神を具現する鞍と銅版は、現在、秩父宮スポーツ博物館に展示されています。

 
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城戸選手が久軍号に使用していた鞍

 

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城戸俊三略歴

城戸俊三は明治22年(1889)7月4日、宮城県生まれ。陸軍士官学校卒の騎兵将校で、ロス五輪では馬術日本チームの主将。その後、陸軍騎兵学校に戻り、教官として馬術を教え、昭和9年宮内省に入省、昭和天皇や皇太子明仁(あきひと)殿下(今上陛下)の乗馬指導にあたっている。戦後は、皇居内・東御苑にあったパレス乗馬倶楽部(現在はない)で教官を務め、また長く日本馬術連盟常務理事として馬術振興に尽力した。

また、日本中央競馬会と、常陸宮華子妃殿下の父、津軽義孝氏等のバックアップで岩手県遠野市で乗用馬の生産と育成が始められた事業に大変力をそそいだ。この地をオリンピック総合馬術チームの訓練及び競技施設として発展させる夢をもっていたようだ。現在、遠野で実現しているこの事業には、我が北大馬術部のOBで東京オリンピック馬術競技代表だった千葉幹夫氏が東京から移り住んで、馬種改良に取り組んでおられる。


 
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戦後に城戸俊三が奔走して靖国神社に建立された戦没軍馬の像
 

また、靖国神社に写真のような馬の銅像が建っているが、この建立に力を注いだのも城戸俊三。明治初期から昭和20年8月15日の終戦に至るまで、幾多の戦火で徴用されたおよそ100万頭の馬が戦場に斃れたといわれる。物言わぬ彼らの犠牲を悼んで、戦後、記念碑建立の話が持ち上がった。

生涯に千数百点もの馬像の制作を手掛けた彫塑家、伊藤国男氏(明治23年~昭和45年)が私財を傾け、この鎮魂の像を制作したものの、最後になって台座に費やす資金がなくなり、数年間建立が見送られ放置されていた。

これを聞いた城戸俊三が、旧軍人や馬主に呼びかけ、昭和32年4月に戦歿馬慰霊像奉献協賛会を結成、浄財を募り、翌年の4月7日に建立除幕式を行い、靖国神社に奉納した。現在も毎年4月7日の「愛馬の日」に《戦歿馬慰霊祭》が同神社で行われる。

昭和61年(1986)10月3日死去。97歳。



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