日本馬術の父、遊佐幸平


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今でこそ欧米の書籍含めて数多くの馬術教本が出版されていますが、戦後しばらくどころか平成に入る直前まで、馬術の本は「遊佐馬術」くらいしかありませんでした。北大馬術部にも大勢の部員が読んで表装が痛み変色しているものの唯一の情報源である「遊佐馬術」がありました。

刷りの悪いモノクロ写真ながら姿勢正しく鞍上にあるカイゼルひげの遊佐幸平の姿から、騎座やこぶしを学んだものです。馬術部の昭和30年代くらいの古い年次の方には皇居・東御苑にあったパレス乗馬倶楽部で馬に乗る機会をえて「昭和の馬将軍」と称された”神様”から指導を受けた人もいるかと思います。

 
遊佐幸平01
馬術の神様、遊佐幸平の騎兵学校時代の乗馬姿

 

  略 歴


遊佐幸平は明治16年(1883)7月25日、馬産地であった宮城県鳴子町生まれ。仙台幼年学校を経て明治37年に陸軍士官学校16期卒。翌38年に少尉任官。騎兵第8聯隊に配属された。
その後、新設の騎兵第17聯隊に転属、日露戦争では北部樺太に上陸。武勲をたて功五級金鵄勲章授与。独立第13師団長から個人感状を受けた。
明治42年陸軍騎兵学校馬術教官。大正3年フランス・ソミュール騎兵学校留学。
騎兵学校では教官室の前を通る学生は、遊佐の名前をもじって「遊びさゆくべえ」と聞こえよがしに大声をかけていったくらい慕われた。
昭和10年陸軍少将。11年宮内省主馬寮嘱託(主に昭和天皇の御乗馬相手)、12年軍馬補充部本部長。13年予備役編入。14年満州国馬政局長。
この間、昭和3年の第9回オリンピック・アムステルダム大会に選手、監督として出場、その後、第10回ロスアンゼルス大会、第11回ベルリン大会、戦後も講和条約後に国際舞台に復帰した日本の馬術監督として第15回ヘルシンキ大会、第16回ストックホルム、第17回ローマ大会で日本馬術選手団監督として選手を引率、昭和39年の第18回東京オリンピック大会でも日本馬術選手団総監督。オリンピックには計6回出場も出場している。
 
遊佐幸平03
第9回アムステルダム五輪の馬術日本代表。
(左から)遊佐幸平、城戸俊三、岡田小七、吉田重友各選手

 
戦後は民間馬術の普及に尽力し、皇居・東御苑にあったパレス乗馬倶楽部で指導に当たり、昭和天皇も教え子の一人で親しかった。「昭和の馬将軍」、あるいは「昭和の曲垣平九郎」の異名をとった。

昭和30年紫綬褒章。馬術連連盟顧問。
昭和41年11月25日、83歳で死去。

著書・訳書、「遊佐馬術」、「馬狂放談」、「フィリス氏の馬術」、「シュテンスベック氏の馬術」など。

 
遊佐幸平02
皇居東御苑で昭和天皇のお相手をしたころの遊佐幸平

 

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遊佐幸平は「馬術の神様」と云われるだけあって、馬を見る眼は鋭く、大家の描いた絵画とて嘘は見逃さなかった。馬の歩法にありえない描写をした狩野探幽や横山大観の絵を前に、

「もちろん、絵には気韻とか生動ということがあって写実ばかりではゆかぬ点もあろう。しかし研究に徹した人は、写実即写意たることが可能であろうと思う。自然と正反対のことを描いて、これが写意であるという必要もないように思う。ドラ・クロアやドガ、セェリーエ、メソニェーとか、また古いところでイタリアの有名なウェンシーなどの絵にも、ウソは決して無い」

と言ってのけた。

遊佐幸平がエンデュランス競技(長距離耐久レース)で勝利した、2日間で480キロを走破した記録は空前絶後のものだ。

エンデュランス競技は、1人の騎乗者が同一馬に乗り1日80キロないし160キロを走るものだ。もっとも有名なレースにはアメリカ西部シェラネバタ山脈の岩地を24時間で160キロ走るテヴィスカップがある。また5日間で400キロを走るオーストラリアのシャザーダ・レースがある。レース中、レース後に馬体保護の観点から獣医の厳重な馬体チェックがあり、跛行などがあればただちに失格になる。

この過酷なレースが日本でも行われていた。騎兵学校教官時の遊佐幸平もアラブ系の雑種、「早形」とともに参加して優勝している。

そのコースたるや東京をスタート、高崎(群馬)ー軽井沢(長野)ー和田峠(同)-諏訪(同)ー甲府(山梨)ー笹子峠(同)ー小仏峠(神奈川)ー八王子(東京)を経てふたたび東京に戻るというもの。中山道を行き甲州街道を経て戻ってくるコースで、途中には幾つもの難所の峠がある480キロの長距離だ。これを2日半で走破した。これほどハードな長距離レースは今後とも考えられないが、このレース後の余力検査で人馬とも無故障で元気だったという。

戦後、遊佐幸平は皇居の宮内庁主馬班や代々木の中野正剛の自宅近くにあった東方会馬場で馬に乗っていた。

中野正剛は政治結社、東方会を主宰していた言論人で、終戦前東條英機首相を批判して自決したが、隻脚ながら大変な馬好きで邸内に四十間に十五間の埒馬場(らちばば)を作り、近所に家を探してきて遊佐幸平に住んでもらうとともに、宮内省主馬寮から人材を派遣してもらい丸抱えにして、乗馬に熱中した。片足で障碍飛越や代々木の原で襲歩をこなすほどになり、昭和16年の興亜馬事大会やに天覧馬術に出場するほどだった。

戦後の日本の馬術界は学生馬術出身者が主で、騎兵学校で鍛えら世界の一流どころと五分に渡り合えた騎兵学校出身選手のレベルとは大きくかけ離れていた。こうしたことから、

「現在の日本馬術の実力を端的に申し上げると世界の一流からはかけ離れ、オリンピック競技に至っては、参加することに意義があると申しても過言ではないでしょう。第10回ロサンゼルスオリンピック最終日に10万を越えるメーンスタジアムの観衆を前に夏空に翻った日章旗の栄光からは、遥か遠く歴史のかなたになっております。西君、私を・・・日本を助けてくれ・・・」

と嘆いたという。

 
遊佐幸平04
晩年の乗馬姿

 

しかし遊佐幸平は馬術のレベルアップに力を尽くす。戦後の日本はせいぜい障碍飛越だけに出場するのみだったが、純馬術、総合馬術と全種目に選手を送り出し、日本の馬術競技全般の力をあげることに力を入れた。

昭和41年11月25日83歳で亡くなったが、その追悼式は東京五輪で純馬術会場となった世田谷の馬事公苑の覆(おおい)馬場で行われた。純馬術の正装である赤の乗馬服姿のオリンピック選手が両脇に立つなか粛々と執り行われた。東京五輪から2年後の秋のことだった。


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