城戸俊三略歴
"城戸神話"の誤りを正す。「まず 美談ありき」でつくられた(2018/1)
「城戸俊三と久運号」について親戚筋の方から本人談が伝えられた(2022/6)
多くの場合、西竹一と愛馬ウラヌスの話から入るのですが、ここでは城戸俊三と久軍号の話から紹介したいと思います。バロン・西の英雄譚に隠れて目立たなくなっているという判官びいきもありますが、城戸俊三のエピソードには、その後の国際馬術連盟憲章やすべての国際馬術競技規則の中心にすえられている「愛馬精神」の発露があるからです。このサイトを読まれる方は日ごろ馬術に親しんでいる方々が多いでしょう。鞍上にあるとき、城戸俊三のことを片時も忘れてはいけないと思います。
この時の馬術の日本代表は次のようなメンバーでした。
監督 | 騎兵大佐 | 遊佐幸平 | |
総合 | 騎兵中佐 | 城戸俊三 | 久軍号 |
総合 | 騎兵大尉 | 山本盛重 | 錦郷号 |
総合 | 砲兵大尉 | 奈良太郎 | 孫神号 |
大障害 | 騎兵少佐 | 今村 安 | ソンネボーイ号 |
大障害 | 騎兵大尉 | 吉田重友 | ファレーズ号 |
大障害 | 騎兵中尉 | 西 竹一 | ウラヌス号 |
監督の「遊佐幸平」は戦前戦後を通じて、あらゆる馬術教本にこの人の名前があり、"馬術の神様"と言える人です。また全員が軍人なのは、この時代、陸軍の枢要な構成を騎兵が占め、日本の馬術界を千葉県習志野にあった陸軍騎兵学校がリードしていたからです。この学校と「遊佐幸平」のことは別項にまとめます。
遊佐幸平監督以下選手の一行は、出場馬と相前後して昭和7年5月28日、「秩父丸」で各国中一番乗りでロサンゼルスに到着しました。2週間余の太平洋横断の長旅の上、馬匹輸送のため別便の貨物船を仕立てなければなリませんでした。選手団は7人ですが、馬丁として貨物船でも現地の厩舎でも寝起きをともにしながら付き添う兵卒もいたので大人数でした。このオリンピックは日本が国の威信をかけた遠征だったのです。
馬術競技の日本代表チームの主将も務めていた城戸俊三選手が愛馬「久軍」(きゅうぐん)とともに出場した種目、総合馬術競技耐久決勝戦は、山野を22マイル(32.29km)走るものでした。途中のコースには50個の障害が設置され、これを飛越しながら全力疾走するという非常にハードなもので、とりわけ馬の持久力が勝敗を左右しました。
鞍上の城戸選手は、落ち着いていました。全コースのほとんどを順調に走り終え、あと1障害と1.94㌔㍍の距離を残すだけの所まで来ていました。全コースの99%を走行したこの時点で、かなりの上位順位が予想された、まさにそのときアクシデントが起きました。
観客は、その時、眼前の信じられない光景に息を呑みました。城戸選手は突然「久軍号」から飛び下りたのです。彼は愛馬と一緒に歩きながらたてがみをたたいて労をたたえていました。栄光を目前にしながらの棄権でした。
馬齢19歳という「久軍号」は、この時全身から汗が吹き出し、鼻孔は開ききっていました。すでに全力を出し切っていたものの、なおもかすかに残る力で次のジャンプへ向けての前進気勢を見せていました。ムチを当てれば、最後の力を振り絞って障害に挑んだことでしょう。
ですが、このまま障害を飛び越えさせれば死んでしまうという城戸選手の咄嗟の判断で下馬したのです。その時、「久軍号」は、主人の心を知ってか、城戸選手の肩に鼻を埋めて、まるで「ごめんなさい」と謝りながら泣いているようであったといいます。
静かに退場する人馬の姿を見た数名の審判員は、思わずもらい泣きしたそうです。当時のロサンゼルス(羅府)で発行された邦字新聞「羅府新報」の見出しには、「熱涙を呑んで 城戸少佐 馬を救う 最後の障害で棄権」と書かれています。
城戸は後にこう語っています。「自分は馬の使い方が下手だとつくづく感じた。久軍には気の毒なことをした」。
当時の英字紙
愛馬精神に徹した城戸選手の行為を讃えて、2年後にアメリカ人道協会は2枚の記念碑を銅版で鋳造しました。1枚は1934年にカリフォルニア州のルビドウ山にある「友情の橋」に取り付けられ、もう1枚はリバーサイド・ミッションインという教会が保管しました。
銅版にはこう刻まれています。横書きの英文の横には縦書きの日本語で「情は武士の道」と武士道精神の真髄が書かれています。
この時、城戸選手が使用していた鞍は、競技の翌日、日本馬術チームを親切に世話してくれたルイス・ゴスネー・カッスル夫人に記念に贈られました。ずっと後、第18回東京オリンピック(1964年・昭和39年)の時、アメリカの関係者の好意により、当時のライシャワー駐日大使の手から、日本オリンピック委員会・竹田恆徳委員長(当時)にリバーサイド・ミッションインに保管されていた銅版とともに贈呈されました。馬術のよってたつ精神を具現する鞍と銅版は、現在、秩父宮スポーツ博物館に展示されています。
城戸俊三は明治22年(1889)7月4日、宮城県生まれ。陸軍士官学校卒の騎兵将校で、ロス五輪では馬術日本チームの主将。その後、陸軍騎兵学校に戻り、教官として馬術を教え、昭和9年宮内省に入省、昭和天皇や皇太子明仁(あきひと)殿下(今上陛下)の乗馬指導にあたっている。戦後は、皇居内・東御苑にあったパレス乗馬倶楽部(現在はない)で教官を務め、また長く日本馬術連盟常務理事として馬術振興に尽力した。
また、日本中央競馬会と、常陸宮華子妃殿下の父、津軽義孝氏等のバックアップで岩手県遠野市で乗用馬の生産と育成が始められた事業に大変力をそそいだ。この地をオリンピック総合馬術チームの訓練及び競技施設として発展させる夢をもっていたようだ。現在、遠野で実現しているこの事業には、我が北大馬術部のOBで東京オリンピック馬術競技代表だった千葉幹夫氏が東京から移り住んで、馬種改良に取り組んでおられる。
また、靖国神社に写真のような馬の銅像が建っているが、この建立に力を注いだのも城戸俊三。明治初期から昭和20年8月15日の終戦に至るまで、幾多の戦火で徴用されたおよそ100万頭の馬が戦場に斃れたといわれる。物言わぬ彼らの犠牲を悼んで、戦後、記念碑建立の話が持ち上がった。
生涯に千数百点もの馬像の制作を手掛けた彫塑家、伊藤国男氏(明治23年~昭和45年)が私財を傾け、この鎮魂の像を制作したものの、最後になって台座に費やす資金がなくなり、数年間建立が見送られ放置されていた。
これを聞いた城戸俊三が、旧軍人や馬主に呼びかけ、昭和32年4月に戦歿馬慰霊像奉献協賛会を結成、浄財を募り、翌年の4月7日に建立除幕式を行い、靖国神社に奉納した。現在も毎年4月7日の「愛馬の日」に《戦歿馬慰霊祭》が同神社で行われる。
昭和61年(1986)10月3日死去。97歳。
2018年1月、波多野幾也氏(プロフィールは後述)から北大馬術部にメールをいただいた。正式記録のPDFも添付された概要は次のようなことだった。
上のような指摘を理解するためには、「総合馬術」というものを知らなければならないので、概略、復習をしておく。
正式記録のPDF冒頭にあるように、総合馬術は英語で「Eventing」という。
競技は3日間かけて(為に Three Day Eventsとも)、同一人馬により行われ、初日に馬場馬術競技(Dressage Stage 調教審査)、2日目にクロスカントリー(Cross country stage 耐久審査)、3日目に障害飛越競技(Show jumping Stage 余力審査)が行われ、3日間の合計減点の少なさが競われる。
初日の調教審査では、翌日に実施される総合馬術のメイン競技「クロスカントリー」に向けて騎乗馬がどれほど調教が進んでいるかが審査される。クロスカントリー競技は、自然に近い状態の地形に竹柵、生垣、池、水濠、乾濠など、丸太などの天然素材で作られた飛越する障害物が40以上あり、コースの長さは6Km以上にもなるハードなもの。そして最後の競技が障害飛越。ハードなクロスカントリー競技の翌日、獣医師によるホースインスペクション(Horse Inspection 馬が競技への参加を続けるだけのコンディションにあるかどうかをチェックする)が行われ、そのあと、高さが130cmまでの障害が10~13個設置されたコースを走行し、前日のハードなクロスカントリーを終えて馬の余力がどの程度残っているかが審査される。
そこで、公式記録を見ると、城戸俊三と久軍号は初日の調教審査では212.620(400点満点)で12位である。問題の「美談」は2日目のクロスカントリーで起きたが、34番障害で下馬している。確かに完走まで残り少しで、無念の棄権である。久軍号は全身に汗が噴き出ていた。無理して走らせれば行けたかもしれないが、19歳という馬齢を考えれば死んでしまうかもしれないと城戸は判断したのだろう。陸軍と騎兵学校の名誉という重荷があるにせよ、なおかつ途中で断念したことは、やはり愛馬精神の発露として称えられてしかるべきだと思う。
波多野氏の指摘にある、久軍号は「第二以下の予備馬であったのが、総合で故障馬が続出して足りなくなったので、やむなくかり出された」といういきさつは記録にもなく、ご指摘で初めてわかったことだが、陸軍は馬を運ぶためロサンゼルスまで貨物船を仕立て、なおかつ馬丁を務める多数の兵隊までつけて送り出したのだから、国威を背負っていたのは間違いない。その中で故障馬が多く出て、やむなく予備馬だった久軍号を送り出したわけで、監督の遊佐幸平・大佐の苦衷がよくわかる。
余談だが遊佐幸平氏は戦後も「馬術の神様」として活躍された方で、昭和36年前後、現在の皇居東御苑にあったパレス乗馬倶楽部で当時侍従をされていた東園基文・北大馬術部東京OB会会長の口添えで皇太子殿下(今上天皇)などと一緒に北大馬術部の何人かがご指導いただいたものである
波多野氏のメールには「貴部サイト記述をほぼ使った形で、光村図書が、中学2年生向け英語教材(教員が無償DLして用いる)も生まれています」とあった。
何年か前、出版社から使用したい旨のメールがあり「どうぞ」と答えた覚えがあるが、こういう形で取り上げられていることは知らなかった。
「A True Sporting Spirit」と題した一文には「これ以上彼の馬を傷つけたくないので、金メダルをあきらめました」とある。
当ホームページで「かなり上位の成績が期待された」とは書いたが、「金メダル目前の成績」云々と書いたことはないのだが、確かに城戸の美談を際立たせるために、世上、「金メダルをあきらめての下馬」という思い込みがある。3日間の試合のうち2日目で棄権したのだから、初めからメダルに絡むワケがないことははっきりさせておく必要があると思う。だからと言って城戸の行為の価値が下がるわけでもない。
メールで指摘をいただいた波多野幾也氏は北大馬術部指導部で現在、厩舎管理担当をされている堤秀世氏と知り合いで、「羽多野さんとは昨年那須で行われた調教の勉強会で会いました。諏訪流の鷹匠として本なども書いています。学習院OBで本業は作家、文筆業ですが、動物トレーニングの世界では相当の理論家です。ペンネームは羽多野鷹(よう)で50歳を少し越した方です。馬術歴も長く、小学生の時に小松崎新吉郎氏に学んだとか話を聞いたことがあります。大変真面目な人です」とのこと。
◇ ◇ ◇
「先に美談ありき」の城戸俊三と久軍号の訂正、修正を兼ねて以上のような紹介文をアップすることとしました。波多野幾也様、ご指摘並びに資料提供、まことにありがとうございました。
「城戸俊三と久運号」を掲載して十数年たった2022年6月、北大馬術部HPを覗いた城戸の親類という方からこの美談について、本人がどう言っていたかを伝えたいとメールを頂いた。
つくられた美談だ、という話は前項でも伝えたが、公式記録から推定されることで、本人がどう語っていたかについては資料もなく推測にとどまっていた。今回の親戚筋の方によると城戸本人は「あれは3不従順失権した後 下馬して帰って来ただけで、軍人が動物愛護で競技中に下馬はしないよ」と話していたとのこと。
決定的な証言である。以下にその思い出を寄せて頂いた柴田誠氏のメールを交えながら紹介したい。柴田氏はメールにあるように慶応大学馬術部のOBで今も時折騎乗を楽しまれ、北大馬術部OBで先の東京五輪(1964)総合馬術日本代表選手である千葉幹夫さん(2015年12月8日死去)が晩年に渾身の力を入れて運営された岩手県遠野市にある「遠野馬の里」を訪ね、千葉さんのご子息、祥一さんの世話で2歳の騙馬を競り落とし、横浜や朝霞の馬術施設に預託して乗っておられる由。
北海道大学体育会馬術部後援会殿
突然のメールで失礼致します。貴校馬術部HP「城戸俊三」の記事を見つけ、余りに詳しく調べており驚いております。実は小生の母方の祖母の旧姓が城戸で、俊三の従妹になります。母が俊三に非常に可愛がられたと聞いており、1932年のLAオリンピックに横浜から船で馬を運ぶ際、横浜港に見送りに行ったそうです。
小生が小学校の4年生か5年生の国語の教科書に俊三の話が載っており、それを見た母が、渋谷区並木橋の城戸の家に小生を連れて行ってくれたのが、小生が馬に乗る様になったきっかけになりました。希望通り馬術部のある慶應義塾中等部に入る事が出来、それ以来大学まで馬術部に在籍し、4年ではインカレで障害個人5位、馬場個人3位(団体2位)の成績を収める事が出来ました。40歳の時前任の竹田恒和先輩(前JOC会長)の後任で約5年間母校の監督をしておりました。
中学時代パレスで城戸に何度か指導を受けましたが非常に温厚で、指導時でも大きな声を出す事はまず無く、強く記憶に残っているのは障害飛越の初歩の随伴の教え方です。小型の馬でゆっくりとした駆歩の輪乗りでをさせ、手綱を片手で外方に持たせ、内方の手で馬の胸先を駆歩に合せて2回叩きその後体を起こして2歩。それを繰り返して随伴を教える、というものでした。これがある程度できると40㎝程度の障害を輪乗りの線上に作り、直ぐにそれを飛び始め全員ほとんど抵抗なく障害が飛べるようになりました。
インターネットの貴校の記事は非常に詳しく、多分その大部分は正確だと思いますが、本人から直接聞いた話で(多少謙遜かもしれませんが)オリンピックの件では「あれは3不従順失権した後 下馬して帰って来ただけで、軍人が動物愛護で競技中に下馬はしないよ」と申しておりました。(多分これが本当で、それが美化されたのではないかと思います)
個人的には今から約46年前に小生の結婚式に出席してもらい、当時86歳位だと思いますが非常に元気で、酔った勢いからか俺に話しをさせろと言い出し「女房は馬(の調教)と同じで、我慢と、褒めてやらねば上手く行かないものだ」と話をしてくれました。