第2話 バロン西と愛馬ウラヌス物語


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昭和7年(1932)のロサンゼルス・オリンピックの最終日、愛馬ウラヌスを駆って「馬術大賞典障害飛越個人競技」で優勝した西竹一(にし・たけいち)選手。世界の名だたる騎手を抑えての金メダルは、日本の馬術界のみならずスポーツ界にとって、今に至るも空前にして絶後の快挙でした。その後映画にも描かれましたが、硫黄島の戦いで戦死する悲劇とともに、馬に乗る者なら知っておかねばならない人生だと思います。

 
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「大賞典障害飛越」で優勝したバロン西と愛馬ウラヌス号

 

栄光の日は昭和7年(1932)8月14日でした。この日ロサンゼルスは快晴。西竹一中尉が出場したのは第10回オリンピック・ロサンゼルス大会の閉会式会場で開催される最終種目であり、かつ「五輪の華」とたたえられる「大賞典障害飛越競技」(Grand Prix des Nations グランプリ・デ・ナシオン)でした。馬術競技の中でも最も高度で、最も華やかなものとされ、その名誉にふさわしく、オリンピックの掉尾を飾る競技としてメインスタジアムで行われるのが恒例です。この競技(国別と個人の2つで争う)の勝者こそ真のオリンピック勝者という意味合いを持ち、特に敬意が払われている競技です。

 
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第10回オリンピック・ロサンゼルス大会

 

陸上競技の興奮がまださめやらぬ会場は十万を越える観衆で埋まっていました。オリンピックの最後の最後に開催される「馬術大賞典障害飛越競技」に参加したのはアメリカをはじめ4カ国、11組の人馬。コースはスタジアムを縦横に使っての全長1,050メートルに最高1.6メートルの大小19もの障碍(柵及び水濠)が並べられ、屈指の難度に配列されていたため大荒れの試合展開となります。

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 試合経過

(*障害と障碍  正しくは「障碍」ですが「碍」が常用漢字表にないため現在は「障害」表記が主。以下は当時の記事なので「障碍」とします)

午後2時30分、競技が始まりました。

1番はメキシコのボカネグラ大尉。2個の障碍を落とし、第8障碍で3回も拒止し失格。

2番は地元アメリカのウォフォード中尉。彼も4個の障碍を落とし、第8障碍で人馬とも転倒し、第10障碍で3回拒止し失格。

3番は日本の今村安少佐。期待に反し、4個の障碍を落とし、第10障碍で3拒止された上に落馬し失格。

4番はスウェーデンのフォン・ローゼン中尉。彼も4個の障碍を落としたが、初めて全コースを走破し、減点16でゴール、大観衆から喝采が起こりました。

5番はメキシコのメジャ少佐。彼は第2障碍で早くも3回の拒止に会いあえなく失格。

6番は再び地元アメリカのブラッドフォード大尉。6個の障碍を落とす等の過失を犯したが、ともかく全コースを走破し、24点の減点。

7番はわが吉田重友少佐のはずでしたが、その前の練習中に負傷して地元の病院に入院中で棄権。

8番はスウェーデンのフランケー中尉。彼は優勝の呼び声高かったのですが、2個の障碍を落とし、第10障碍で3回の拒止に会い、ついに涙を呑んで失格してしまいました。

この時点で団体戦が成立しなくなりました。一国3名の選手による合計点第1位の国には特別に「Grand Prix des Nations」(グランプリ・デ・ナシオン=大賞典優勝国)という名誉が与えられることになっていますが、各国そろって失格者が出たことから、団体戦としては成立しなくなりました。つまり、この時点で「優勝国」はなくなり、あとは「個人優勝」の争いだけとなりました。

9番はメキシコのオルチッツ大尉。彼も落下や拒止で失格。

10番はアメリカの監督チェンバレン少佐。アメリカ選手中最も期待された騎手で、葦毛のショーガールを駆使、スタンドの期待を一身に受けて、飛越するたびに万雷の拍手と喊声が起こりました。第5障碍を落とし、第6と第13障碍で水濠に肢を踏み入れるなど若干の過失により12点の減点となったものの、素晴らしい成績でゴールイン、誰の眼にももはや彼が優勝の栄冠を得たと映りました。後に残るのはスウェーデンのハルベルグ大尉と日本の西中尉の2人だけですが、どちらも前評判では格落ちとされていたからです。

このとき、日本選手団監督の遊佐大佐は、オリンピック史上初の日本人審判として審査台上にいました。彼は祈るように西中尉の一挙手一投足を見守っていました。

西中尉がウラヌスに乗って会場に現われました。「天王星」をあらわす名前、ウラヌスをもらったほどの巨体に観衆からは感嘆のざわめきが起こります。西中尉は落ち着いた駈歩(かけあし)で競技場を一週、ついでタイムスタートの合図の旗がさっと下ろされました。

第1障碍は歩調整斉(せいせい=整いそろっていること)、流れる様に飛びました。第2障碍以降も、ウラヌス独特の大きな歩調で力強く飛びました。あくまでも正確な騎坐、巧妙な指導、堂にいった飛越です。第6障碍の幅5㍍の水濠で僅かに後肢を水中に落としたものの、難関の第8障碍のバンケットは苦もなく突破しました。

いよいよ第10障碍。スウェーデンのフランケー中尉が3回拒止で涙を呑んで失格した難関で、ユーカリの枝を積み重ねた上に更に横木が置かれているというもの。ウラヌスはその異様に驚いたか、左へ切るようにして止まった。その瞬間会場からはあきらめのどよめきが起こった。だが、西中尉は素早く反転すると、馬首を再び障碍に向け、今度は思いきり高く上に飛ばしました。成功!ウラヌスは腰を右にひねり横木との間に十分な余裕を残して越えました。


 
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1.6メートルの障碍を飛越する西中尉とウラヌス号

 

 
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上の写真を元に後日、日本人画家が描いた絵
 

残りの障碍をすべて飛越してゴールインすると、観衆は総立ちとなり万雷の拍手が湧き起こりました。減点8。見事1位に立ちました。

最後12番のスウェーデンのハルベルグ大尉は完走はしたものの、障碍の落下と拒止が多く、タイムオーバーで50点の減点でした。

熱戦が終わりました。完走は11選手中僅か5選手。慎重な審査のあと「第1位日本・西中尉。減点8」と公式発表されました。この瞬間、観衆は万雷の拍手で優勝を讃えます。狂喜した同胞は「万歳」「万歳」の絶叫です。

西中尉は審査台上の遊佐監督の許へ走り寄りました。遊佐大佐は太った体をかがめ、大きな手を差し延べて西中尉と固い固い握手をしました。「おめでとう」。二人の目には光るものがありました。

場内のアナウンスが優勝者の名前を高らかに告げます。「ファースト・ルーテナント(first lieutenant)・バロン・タケイチ・ニシ」 。再びウラヌスに跨った西中尉は、2位のチェンバレン少佐と3位のローゼン中尉を従えて表彰台に立ちました。大日章旗がメインポールに上がり、満場起立するなか500人の大バンドが奏でる「君が代」がメインスタジアムに響きわたりました。

新聞記者がつめかけると、英語が堪能な西中尉は一言「ウィ・ウォン(We Won)」と語りました。自分と愛馬ウラヌスの「We」でしたが、日本の記者はそれが読めず「我々日本は勝った」と打電しました。

たちまち世界の英雄、「バロン(baron 男爵)・ニシ」の名が駆け巡りました。ロスの市長は彼に名誉市民の称号を贈り、ロス郊外に建設する競馬場の起工式にも招かれ最上段に坐らされ、競馬会長から終身名誉会員の推薦状と感謝状が贈られるなど歓迎攻めにあいました。

 
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ロス市長から授与された名誉市民証

 

 
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ロサンゼルスタイムズに写真つきで大きく掲載されたバロン西とウラヌス
 

日本の馬術チーム総監督大島又彦陸軍中将は8月16日、次のように語っています。

「日章旗はスタンド上のメインマストに翩翻(へんぽん)と翻(ひるがえ)り、君が代の奏楽は十万の観衆をして襟を正さしめ、祖国にもまたこの歓声が聞こえたらんと思えば、覚えず暗涙(思わず流す涙)を呑んだ次第である。

同胞人はもちろん外人等も祝意を表し、応接に暇(いとま)あらず、スウェーデン将校は米国によくぞ勝ってくれたと自分が勝たなかったことを忘れて大喜びで、日本選手を胴上げしたり。またメキシコ将校も同様、アメリカを負かしてくれたとて大満悦、如何に彼らが米国に反感を有しあるかを想像され一興に値す」

 

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バロン西の飛越姿など珍しい動画

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西竹一(バロン西)ロサンゼルス五輪・馬術 (1932年)



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  凱 旋

優勝から8日後の8月22日午後、西中尉は盛大な見送りを受けて他の競技の日本選手とともに、日本郵船の「秩父丸」でロサンゼルスのサンペトロ港を出航しました。奇しくもこの船は西中尉が3年前、ウラヌス号を見るためににヨーロッパへ渡ったときの船です。9月8日、横浜港に着くと、水泳選手等と共に特別仕立ての"凱旋?列車"で東京入りをします。

東京駅頭は歓迎の旗の波で埋まり、万歳の叫びと万雷の拍手に包まれていました。大日章旗を捧持する西中尉を先頭に、遊佐幸平監督以下、全員用意された馬にまたがり、東京駅頭から宮城前広場を縫って二重橋前まで騎乗大パレードを行いました。そこで皇居奉拝を終えると、今度は自動車に分乗し、代々木の明治神宮に参拝。

午後には東京会館で文部大臣及び体育協会主催の歓迎会があり、さらに日比谷新音楽堂での東京市の歓迎会と続きました。

行く先々で西中尉は記者の質問攻めにあいました。彼はいつもまず第一にウラヌスの功を上げました。優勝直後「ウィ・ウォン We Won」(我々は勝った)と二人称で言ったあの気持ちを繰り返しました。そして「次の機会には是非日本産馬でやってみたい」と付け加えました。勝ったとはいえ外国産馬である事を彼は残念に思っていたのです。

夜になると、青年団、在郷軍人会、町内会の人々600余名が、ラッパ隊を先頭に提灯行列をして麻布の西邸の中まで繰り込んで来ました。西中尉は夫人、子供と共に玄関に出て提灯を掲げて万歳に答えました。


 
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以上は当時の新聞記事から再現したものですが、如何に日本国民が狂喜したかが伝わってきます。というのも日本にとってロサンゼルス大会は特別な意味を持った大会でした。

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  ロサンゼルス・オリンピックと馬術代表について

第10回ロサンゼルス・オリンピック大会は昭和7年(1932)7月30日開会、バロン西が勝利した8月14日まで開催されました。この年は、前年に満州事変、2か月前には5・15事件、そして日本では東北飢饉が起きている最中の大変な時期でした。内外ともにキナくさいなか、日本は前年、東京市会で1940年に第12回オリンピック競技大会を開催する招致決議案を満場一致で決議しています。11回はベルリンが決まっていたので、東京大会に向けて勢いをつけるべく、ロサンゼルス大会には主催国アメリカに次ぐ大デレゲーションを組んで参加したのです。

ロサンゼルス五輪は37の国と地域から1,333名の選手が参加。日本からは平沼亮三団長以下192名(役員61名,男子115名,女子16名)が参加、旗手は織田幹雄選手が務めました。実施された競技数は16競技で117種目が行われ、日本代表選手団は金メダル7個、銀メダル7個、銅メダル4個を獲得して大いに気勢があがった大会でした。


 
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アメリカに次ぐ大デレゲーションで入場行進する日本選手団
 

余談ですが、このとき早大競艇部員として参加したのが作家の田中英光で、走り高跳びの女子選手に恋をした経緯をもとにした『オリンポスの果実』という作品で文壇にデビューしました。太宰治に心酔し師事し共産党に入党して社会派らしい作品で無頼派作家と称されますが、私生活の破綻から酒に溺れ、太宰の墓前で衝撃的な自殺を遂げています。

ところで、馬術競技の代表選手は全員軍人でした。馬術は一般に普及しているスポーツではなく、各国とも陸軍の騎兵が主導する競技で、このため参加選手も全員が軍人でした。「城戸選手と久軍号」のくだりでも紹介しましたが日本代表メンバーは以下のように、全員が千葉県・習志野にあった陸軍騎兵学校の将校です。(陸軍騎兵学校については別項をごらんください)

  監督   騎兵大佐   遊佐幸平    
  総合   騎兵中佐   城戸俊三   久軍号
  総合   騎兵大尉   山本盛重   錦郷号
  総合   砲兵大尉   奈良太郎   孫神号
  大障害   騎兵少佐   今村 安   ソンネボーイ号
  大障害   騎兵大尉   吉田重友   ファレーズ号
  大障害   騎兵中尉   西 竹一   ウラヌス号

 

 
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ロス五輪から凱旋する秩父丸船上の馬術選手団。
(左から)西中尉、吉田大尉、今村少佐、奈良大尉、山本大尉、
カイゼル髭がよく似合う遊佐大佐。
一人だけ写っていないので城戸俊三中佐の撮影か。
 

馬を運ぶのにアメリカまで貨物船が仕立てられ、馬の世話をするため多くの兵卒が付き従いました。国を挙げての参加だったのです。出場馬は1か月近い船旅の後、大会2か月前の5月28日ロサンゼルスに各国中一番乗りで到着しています。

国威をかけて力をいれたものの日本の優勝は誰も予想していませんでした。たまたま試合当日、馬術競技の後に行われる閉会式中継のため会場にいた日本人報道関係者により、大ニュースとして日本に伝えられたのです。

 
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本人が気に入っていたのかサインして贈るときはウラヌスと高々と飛越するこの写真だった
 

ウラヌス号を駆って金メダルをとった当時の記録映像は現在、横浜・根岸森林公園内の馬の博物館で常時公開されていますが、今に至るも日本が馬術競技でメダルを獲得した唯一の記録です。

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  西竹一はこの時代に破天荒な日本人だった

日本選手の優勝は誰も予想していませんでしたが、西竹一本人はロサンゼルスで大いに目立っていました。なにしろ、アメリカ人は自国にはない爵位を持つ者にあこがれるところがあります。昔も今もです。そういうなかで、男爵(Baron=バロン)の称号を持ち、英語を流暢に話し、約175センチの体におしゃれな髪型をし、なおかつ当時のアメリカでも珍しいラジオ付のスポーツカー、パッカード・コンバーチブル(12気筒)を現地で購入、これに金色の塗装を施し、毎日これに乗って馬場やパーティ会場に行くというひときわ目立つ行動を見せていた男を「バロン・ニシ」と呼んで話題にしました。

またロサンゼルス・オリンピックの時、日本の馬術競技チームは数か月前にロス入りして、リヴィエラ・カントリー・クラブのポロ・グラウンドで練習を開始しています。ここでも西竹一は各国の選手団(といっても全員軍人)と積極的に交流しています。残されている写真を見てもまったく見劣りしていません。

 
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各国の選手と並んでも見劣りしない西竹一

ここは現在、日本人が買収していますが、全米プロ、全米オープンなどのPGAツアーが開催されることで有名なゴルフ場で、ハリウッドスターや各界の著名人が会員になっていて、何年待ってもメンバーの空きがないところです。


 
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リヴィエラ・カントリー・クラブでエルメスの長靴を履いた西竹一
 

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現在のリヴィエラ・カントリー・クラブ。名門中の名門だ。
 

伊達男は髪型も帝国軍人のような坊主頭などではなく、当時の流行であるヴァレンチノ風にぴったりなでつけていました。また、自分だけおしゃれするのではなく、この時の日本のオリンピック馬術団全員のために自費でタキシードを注文して、皆を引き連れて夜な夜なパーティに出かけています。


余談です。わずかに残されている写真を元に憧れのバロン西がいかにおしゃれだったかを分析した女性がいます。無粋な筆者の手には負えないので「ネイビーブルーに恋をして」というブログを拝借しますが、こうです。

「西中尉(当時)の軍服は特別仕立てです。腰を極端に絞り、ジョッパーズという乗馬ズボンの腿部分は大きく広がった独特のデザイン。襟はハイカラー。軍帽も自分好みにデザインしています。横に大きく張り出したトップ(他の将校と写っている写真ではバロンだけ軍帽が大きい)短く垂直なひさし。これを世に『西式軍帽』と言ったそうです。もちろん軍服の仕立てもヨーロッパでの特別誂えでした。ブーツ、鞭、馬具は全てフランスはエルメス製です」

この方がわざわざ描いた絵もあるので上に紹介しましたが、そういわれるとほかの写真を見てもバロン西のシルエットがそばの軍服姿と違っています。


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「ネイビーブルーに恋をして」に描かれたバロン西の軍服のデッサン画
 

こんな伊達男を社交界や映画の町ハリウッドの女性が目をつけないわけがありません。彼の方も夜な夜な宿舎を抜け出し、酒とバラの日々を送っていました。時のアメリカ映画スター、ダグラス・フェアバンクスとメアリー・ピックフォード夫妻との交友も話題となりました。

ダグラス・フェアバンクスは当時、剣戟王と呼ばれて銀幕に君臨していました。メアリー・ピックフォードはカナダ出身の女優ですが「アメリカの恋人」と呼ばれ、ともにハリウッドを代表するスターでした。

オリンピックの2年前、彼は世界最高の名馬を求めてイタリアまで6か月の休暇を貰って旅行しました。ウラヌスと出会った旅ですが、この時インド洋経由ではなく、横浜港から3年前に就航したばかりの日本郵船の豪華貨客船「浅間丸」(1万6975トン)で太平洋を渡り、ロスからは大陸横断鉄道でニューヨークに出て、そこから大西洋航路の船でヨーロッパに渡ったのですが、その船中で夫妻と知り合いました。

二人はたちまち意気投合、エレガントなフランス航路の一等船客用甲板を借り切って、そこに二人してロープを張り、素っ裸でターザンごっこをして遊んだといいます。

その後も二人は生涯の親友といえる深い付き合いをしました。例えば夫妻が誘われて日本に来ることになったとき、浅間丸と同型の「秩父丸」(1万7498トン)で来日したのですが、西はわざわざ同乗しています。この時の秩父丸甲板での記念写真が残っています。日本では夫妻を自宅に泊めて歓待して連日連夜、豪遊し、横浜までも繰り出して遊んでいます。

 
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秩父丸船上でダグラスとふざける写真
が残っている
 
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当時の大スター、ダグラス・フェアバンクス。
 
 

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メアリー・ピックフォード
 

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浅間丸
 

これだけきめ細やかな配慮をする人なのに、武子夫人にはロサンゼルス・オリンピックで滞在中一度だけ葉書を書いていますが、文面は「オレはもてているよ。アバヨ」とだけありました。この時代の日本人の男性は皆こんなものでしょうが。

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ロス五輪で米国から武子夫人宛てに書かれた手紙
=北海道本別町の「本別町歴史民俗資料館 」所蔵

 

オリンピックで金メダルに輝いたあと、パーティの連続でした。自他こもごも主催のどんちゃん騒ぎです。一段落して、西竹一は帰国する日本選手団と一緒にいったんはロスを出航したものの、この船がサンフランシスコに寄港してそこで2泊する時間を利用して、シスコからロスまで飛行機でとんぼ返りをしてお別れパーティの続きをして、またシスコに戻ったというから豪気なものです。

愛馬ウラヌスも大金をポンとはたいて自費で購入したものだし、日本人離れした豪快な金の使い方と持ち前の社交性で、アメリカ人の日本人観をすっかり変えたといわれています。後年、彼が硫黄島で玉砕したとき米軍は投降を呼びかけていますが(なかったという説もある)、単に馬術優勝者というばかりでなく、アメリカ人の多くが彼の名前を知っていて、その豪放磊落な性格を愛していたからということもあるのです。

彼の人生は当時の日本人としてはもちろんのこと、軍人としても破天荒なものでした。莫大な遺産を派手に使い、喧嘩っ早いが、皇族からハリウッドスターまで実に広く交際しました。しかし、この性格が陸軍の中でうとまれ、団体の6位が最高に終わった昭和11年(1936)のベルリン五輪のあとは左遷につぐ左遷で、ついには昭和19年、戦車第26連隊長として赴任した硫黄島で戦死するにいたります。


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西竹一の略歴

「バロン・ニシ」こと西竹一は、1902年(明治35年)7月12日、西徳二郎男爵の三男として東京麻布に生まれました。
父、徳二郎(1847年9月4日 - 1912年3月13日)は、薩摩藩出身の下級武士でしたが、明治維新後に選ばれてロシア・ペテルブルグ大に留学、卒業後は外交官となり、明治政府ではロシア公使、駐清公使を拝命、この間、中央アジアの調査、探検を行った人物です。外務大臣や枢密顧問官を務め、外交に功績あったとして爵位(男爵)を授与されました。

駐清公使時代には義和団事件処理に当たり、その際、清朝の西太后からの信頼厚く、シナ茶の専売権を与えられ、これがために巨万の富を手にしました。

竹一の母は正妻ではなかったものの、晩年の子だけに父にかわいがられました。正妻との間に生まれた長男、次男の二人が早世したので「竹のようにまっすぐ健やかに育ってほしい」という思いもいれて、長男のように「竹一」と命名されました。

明治45年3月17日、父親である男爵・西徳二郎の葬儀が青山斎場で神式で行われましたが、その参列者をみると、首相・西園寺公望公爵以下、山県有朋、松方正義、桂太郎、井上馨、大山巌、板垣退助、斎藤実、原敬、牧野伸顕、東郷平八郎、乃木希典という明治の元勲がそろった錚々たる顔振れです。

この大葬儀の喪主が当時10歳の竹一少年で、父の死と同時に莫大な財産と爵位を相続しました。麻布櫻田町の自宅とその周辺1万坪(3万3000平方メートル)という広大な土地と50軒の貸家、熱海と鎌倉の別荘、莫大な各種株券という巨大な財産を引き継ぎました。

後に西家の財産が一般公開された時に250万円という数字が出たことがあります。大正末期に俗に百万長者という言葉が喧伝されましたが、当時は1ドルが2円50銭くらいですから、米貨にして100万ドル、2500万円です。現在の貨幣価値ではマンション1軒程度ですが、当時は月給100円で高給取りとされた時代の2500万円ですから百万長者数十人分にあたる相当な資産家であったことは間違いありません。

学習院幼稚舎から初等科、府立一中(現日比谷高校)へ進学。この時の同期に、小林秀雄(評論家)や迫水久常(のち内閣書記官長、参議院議員、郵政大臣)らがいます。跡取りとして父親の跡を継ぎ、外交官になるであろうと思われていたのが、在学中に、突如陸軍幼年学校に入ると言い出して転籍し、その後軍人への道をまっしぐら。

幼年学校の3年の時、馬と出会い、馬術にのめりこみます。陸軍幼年学校から陸軍騎兵学校へ進み、ここで遊佐幸平はじめ馬術の先達から馬術の基礎をみっちり教え込まれました。大正11年、西は世田谷の騎兵第一連隊付き生徒になります。馬術家・バロン西の誕生でした。ちなみにここは北大馬術部の現役諸君が毎年のように「全日」(全日本学生馬術大会)で試合に訪れている現在の馬事公苑です。

性格は至って鷹揚、天真爛漫、サッパリして明るかったと生前に交流のあった人たちはみな証言しています。彼は莫大な資産を趣味に注ぎこみました。14、5歳の頃にはカメラに凝り、自宅に暗室を作っています。次には空気銃をいじり始めているほどです。

陸軍軍人になってからも髪は七三に分け、バイク(ハーレーダビッドソン)、モーターボート、自動車など当時の日本では考えられなかった高級品を買い込み、スピードとスリルに打ち込む生活を続けています。自動車も少尉候補生の頃、すでにアメリカ・リバティー社製を乗り回し、その後もクライスラー、リンカーンとのオープンカーという派手さです。

大正13年10月、22歳で西は陸軍騎兵少尉に任官。同年12月27日、川村伯爵家の令嬢・武子と結婚。写真でも分かる評判の美人との間に長女、淑子、長男、泰徳、次女、広子の一男二女をもうけています。

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少尉のとき川村伯爵家の令嬢と結婚
 
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武子夫人とのあいだに一男二女に恵まれた
 

西家は櫻田町一帯の広大な地所を所有していました。六本木から西麻布にかけての広大なもので、現在の住所表示でいうと港区西麻布、芝田村町から西新橋と表記が変わったあたり一帯です。本邸は現在の麻布のテレビ朝日そばにありました。千葉の習志野の騎兵連隊から戻ったとき麻布に洋風なモダンな新居を建てて移り住みましたが、空いた櫻田町の本邸は当時英国大使から帰ってきた吉田茂が借りて住んでいました。

この新居には上述のダグラス・フェアバンクス夫妻はじめ多くの外国人が出入りして、外国将校団や外交官の姿もありました。その豪快な遊びっぷりの一端が残されています。

毎夜のように銀座のバーに通い、赤坂、新橋の料亭で芸者をあげてのパーティはしょっちゅう。時には親友の毛利男爵や伊達男爵といった気鋭の若手将校たちと制服のまま横浜本牧まで遠征し、飲み、かつ遊んだといいます。

深夜、銀座・築地川に繋留してあるジョンソン社製の高速モーターボート、その名も「ウラヌスⅠ世号」、「ウラヌスⅡ世号」に銀座のホステスを乗せて、東京湾をすっ飛ばしました。喧嘩もしばしばで、酔っても強くて大抵、4~5人相手にやり合っても負けなかったという豪傑ぶり。外で遊んだ後は麻布の自宅に戻って、二次会、三次会。全員ぶっ倒れるまでホームパーティーが続いたといいます。

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ウラヌス号との出会い

ウラヌス号との出会いは、ロス五輪に共に出場した恩師である今村安少佐がイタリア留学の折に、イタリア人も乗りこなせないという、とんでもない馬に出会ったことに始まります。この馬のことを知ると、西中尉はすぐさまイタリアに出向きます。昭和5年(1930)3月、この馬と会います。

大柄で荒々しい奔馬はイタリア陸軍の騎兵中尉が所有していましたが、あまりのじゃじゃ馬ぶりをもてあましていました。見たとたん、私が探していた馬はこれだ!と、一目で惚れ込みました。しかし陸軍からは予算が下りず、かなりの高額ながらポンと自費で購入しました。支払った金額は500ドル=当時のレートで2000円ほど。15円で家一軒借りられた時代です。


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バロン西と愛馬ウラヌス号
 

さっそくウラヌス号と共にヨーロッパ各地の馬術大会に参加し、数々の好成績を残しています。この馬ならいけると自信を深め日本に連れ帰りました。

イタリア産とも、フランス生れのアングロノルマン種の巨大な騙馬とも語られるこの馬は体高181センチもある、まれにみる大きな馬でした。額には星印があり、このため「天王星」を指す「ウラヌス」と名づけられました。素晴らしい馬ではあったものの気性が激しく、なかなか西の言うとおりに調教できなかったといいます。それでもロス五輪の2年前というこの時期、西はこのウラヌスと共に、ヨーロッパ各地で好成績を残していることをみても能力の高い馬であったことは確かです。

ヨーロッパから帰った西中尉は、原隊の東京・世田谷の騎兵第一連隊に戻り、「ウラヌス号」は千葉県習志野の騎兵学校に預けられました。その間40キロ。西中尉は毎日調教と練習に通いました。

「ウラヌス号」の一番の欠点は、競技中しばしば簡単な障碍棒を前脚に引っ掛けて落とすという悪い癖です。本来障碍物を飛び越えるときに馬は前肢を折って飛び越えますが、ウラヌスは前肢を伸ばした格好で飛ぶのです。この姿勢で障害物に引っかかると人馬転はまぬがれません。人も馬も相当な勇気がいった飛越スタイルでした。

このため、オリンピックの出場馬としてもう一頭、「愛蘭土号」(アイルランド)が用意されていました。でも、こちらも欠点がありました。障碍の数が増えるに従い眼の色を変えて興奮し、フウフウいうのです。西中尉はこの二頭を、それぞれの特性に合わせて熱心に調教しました。

こうした中、オリンピックに向けた国内一次予選が昭和6年4月28日、習志野原と中山競馬場との間の一般道路を使って行われ、ついで10月に騎兵学校で二次予選が行われ、それぞれ出場将校と騎乗馬が決まりました。2頭ともパスしたものの「愛蘭土号」が直前に怪我をしたためウラヌス号が本番に向けロスに行くことになりました。

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破天荒な馬術のエピソード

西は、馬術に専念するために陸軍騎兵学校に入学しましたが、当時、既に1メートル75センチの身長と70キロの体重があり、柔道、剣道の有段者でした。特に腰幅が人並みはずれて広く、足が長く、脚力が非常に強いという、馬に乗るには理想的な体型をしていました。

バロン西の有名な写真に、オープンカーを楽々と飛越している写真があります。それは一見楽々のようですが、いったん馬がその脚を引っ掛けたら人馬転倒という大変なことになる非常に危険な荒技です。なにより高価なクライスラーのオープンカーがダメになることも考えられます。しかし万事派手好みで、ショーアップの大好きな西は、よくこの演出をしました。勿論それには十二分の自信と技能がなければ出来ることではないのですが。

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バロン西が好んで披露したのが高級車クライスラーを飛越する姿
 

彼の馬術に関するエピソードは数限りなくあります。騎兵学校の学生の頃、彼はフランス産の名馬アイリッシュ・ボーイに騎乗して2メートル10センチという信じ難い飛越記録を残しています。その頃、2メートル以上を飛越した騎手は世界に10人もいないといわれていたくらいです。この時も、西はちゃっかり仲間の学生にカメラを持たせて自分の劇的な瞬間を記録させています。

その頃(昭和初頭)、習志野の陸軍騎兵学校には日本を代表するような馬術の名手である教官達がキラ星のごとくいました。馬術課長・遊佐幸平中佐は、後にロス五輪の馬術選手団監督になった名物男で、フランスのソーミュール騎兵学校に留学した人物です。

ソーミュール騎兵学校は「L'Ecole de Saumur」(レコール・ド・ソミュール)と云われ、1763年、フランス王ルイ15世がフランス騎兵隊の再編成を命じ仏中部ソーミュールの地(女性にはココ・シャネルの生地として有名でしょう)に士官学校をつくらせたのがはじまりです。ここには閑院宮が留学したのを始め、日露戦争で騎兵を縦横に使ってロシア軍を破り「騎兵の父」と呼ばれる秋山好古などたくさんの日本人が学んだところです。

ついでながら、我が北大馬術部の先輩で東京オリンピックの馬術日本代表だった千葉幹夫氏もソーミュールに留学してフランス式馬術を身につけた方です。

日本の陸軍は普仏戦争でフランスが負けたので、それまでの仏陸軍方式をやめてドイツ式にしたのですが、騎兵だけは秋山好古の意見を入れてフランス式を堅持しました。だから、日本の馬術も仏式が主流で今なお馬具や騎乗に関する用語に多くのフランス語が残っている理由です。

陸軍騎兵学校の話に戻りますが、山本寛少佐も同じソーミュールからイタリアのピネローロ騎兵学校に留学した人ですし、後年愛馬精神を称えられた城戸俊三もここに留学しています。その他の教官も今村安大尉、吉田重友大尉、印南清大尉と多士済々の顔ぶれであり、今でも伝説的な日本馬術の歴史的名手といえる人材が揃っていました。

そしてこの人たちが皆、西竹一の上官であり先輩であり教官でした。一番若く気ままで無鉄砲な男がこうしたよき理解者を得て上達していきます。飛越において特に彼の素晴らしい資質が発揮されました。西は大腿部の力が特に強いのを利用して騎座の姿勢のまま馬をグングンと推進させる積極的な騎乗法を編み出したのです。当時は全く我流の乗り方ですが、今ではこれが主流になっているほどです。

ドイツ式、フランス式、イタリア式と乗馬法が分かれるなかで、西竹一は自分の流儀を生み出していました。親しく馬術を教えられた清浦保正氏は後年その騎乗ぶりをこう語っています。(サイト「ツボヤキ日記 」から 清浦氏の経歴などは不詳))

「とにかく西さんの飛越は、天下一品。疑いもなく天才でしたね。特に馬の首を正面にある障碍にグングンとせり立てて行くワザは実に見事でした。ハミが長くてね。手綱を思い切り短く持って、飛越の瞬間なぞまるで馬の首にまたがっているように見えるほど前に乗り出していましたからね。あれじゃ普通なら着地の時に放りだされちまうんですがね。西さんは強力な脚力があったのでああいう乗り方ができたんですね。それもあの大きなウラヌスに乗って完成した術なんですね」

同じく民間人としての数少ない弟子であった牧田清志氏(わが国で自閉症を最初に紹介した慶応医学部の教授。ジャズ評論家でもあった)は、

「ウラヌスは大きな馬だったなあ。僕は当時慶応の予科生だったけど、人の手を借りなければあの馬には乗れませんでしたよ。西さんの教え方は厳しかった。非常に難しい障碍のセットを考案してね、それを越せるまでは絶対に許してくれなかったなあ」

さらに牧田清志氏は人柄と馬術について語る。

「西さんは豪快な人柄だけど、実は大変にデリケートな人でね、だけどそういったところを決して人に見せないという人でしたね。まあ、馬術を理解していただかなくては西竹一の馬術そのものもなかなか理解できないと思いますが、当時のイタリア式馬術をもとに西さん独自の流儀を生み出した素晴らしい馬術家でしたよ。スタイルも精神も大変にお洒落な方でね。フランスのエルメスの馬具、エルメス特注のブーツを履いてね。拍車もフランスや英国のや、総て特別製でしたよ。一見なんの苦もないようなことだけれど、実は大変難しいことを、さりげなくやってしまうという、ダンディズムを体現していた方ですな」

バロン西23
エルメスに特注したブーツ。
東京・千駄ヶ谷にある秩父宮記念スポーツ博物館所蔵。
 

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ベルリン五輪では6位と失速

ロス五輪の優勝者は当然次を期待されます。次というのは1936年のベルリン五輪です。

1933年にアドルフ・ヒトラー率いるナチスがドイツの政権を奪取し、アーリア民族の優秀性とヒトラーの権力を誇示するプロパガンダの場として大いに利用された大会として記憶されます。ベルリン・オリンピック大会組織委員会総裁はヒトラーで、オリンピック史上初めての聖火リレーが行われました。また大会直後の同年11月には陸軍の強い後押しにより日独防共協定が締結されるなど日本がドイツに傾斜しつつあるという中での大会でもありました。

この大会はレニ・リーフェンシュタール女史が監督した大会の記録映画が1938年のベニス映画祭で金賞を受賞したこと。陸上・三段跳びで、田島直人選手が優勝し、日本人がこの種目3連覇を果たしたこと。日本代表として出場した朝鮮出身の孫基禎選手がマラソンで優勝したこと。陸上・棒高跳びで、激闘の末、西田修平選手と大江季雄選手が2、3位に入賞、帰国後、2人は銀と銅のメダルを2つに切ってつなぎ合わせ「友情のメダル」にしたエピソード。水泳・女子200メートル平泳ぎで前畑秀子選手が日本人女性初の金メダリストとなり、またこの競技をラジオ中継したNHK・河西三省アナウンサーの「前畑がんばれ!」の絶叫が伝説となるなどなにかと話題が多かった大会でした。

ベルリン五輪に西竹一はふたたび愛馬、ウラヌスとともにこのベルリン五輪に出場しました。メンバーは前回と大幅に入れ替わっていました。役員として出場した遊佐幸平、騎兵大尉に昇進していた西竹一以外みな初参加でした。

結果はあまりよい出来ではありませんでした。期待された西竹一はアスコット号で出た総合馬術個人で12位、ウラヌス号で出た障害飛越個人が20位、同じくウラヌス号と出た障碍飛越団体が6位。それどころか、西が意外にも競技中落馬し棄権しました。主催国のドイツの選手に金メダルを譲るために西が計ったのではないか、という噂が流れたほどの不振でした。馬に乗ったことがある者なら馬の能力とその場の状況に左右される馬術競技の難しさが分かりますから、そんなことはありえないと言えますが当時はまことしやかにささやかれました。

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騎兵の時代終わる

このオリンピックの後、西竹一は本業の軍務にもどります。しかし、騎兵の時代は終焉を迎えつつありました。日清・日露戦争では兵員と物資の輸送、騎兵による突撃などことごとく軍馬に頼りました。例えば乃木希典将軍が攻略した旅順の203高地では重い大砲を運び上げるのに重用され、馬の力がなかったら落とせなかったといわれます。

しかし昭和初年ころから、近代戦での軍馬の役割が低下しました。動力をガソリンエンジンに頼る車両の開発が進みました。西竹一がいる騎兵学校でも装甲車や水陸両用車、軽戦車などの開発とともに騎兵にも機甲部隊に関する教育と実技が実施されるようになっていきます。

1937年(昭和12年)の支那事変後は、陸軍では馬術学生の募集は停止され、機甲教育機関へと移行していきます。騎兵は削減され、代わって戦車連隊が設置されていきます。昭和16年には、ついに騎兵科は歩兵科の流れを汲む戦車兵と統合されて機甲兵となり、兵種としての騎兵は消滅、それまでの騎兵の多くは戦車部隊の要員になりました。

こうした時代の流れで西竹一も馬から戦車へ乗り換えることを余儀なくされていきます。しかしこの時どんどん左遷といってよいほど冷遇を受けます。ロス五輪後は金メダリストとして厚い待遇を受け、習志野騎兵第16連隊への配属、同じく習志野の陸軍騎兵学校教官への栄転までは順調でしたが、その後は下り坂といっていい処遇で、遠くへ遠くへと飛ばされていきます。


バロン西28
騎兵学校教官時代の西竹一
 

不振な成績に終わったベルリン・オリンピック後はそれが顕著で、東京オリンピック(戦争で中止)を4年後に控えた1936年にチチハル騎兵第1連隊、陸軍軍馬補充部十勝支部へ、さらにはその後には北満州の牡丹江戦車第26連隊長へと配属になります。


バロン西31
陸軍軍馬補充部十勝支部の官舎に立つ西竹一少佐。
西のために新築されたもので、戦後民間人の所有となり、
2010年まで現存していた建物。
 

なお、軍馬補充所十勝支部があった北海道中川郡本別町には「本別町歴史民俗資料館 」があり、ここにはウラヌスの鬣(たてがみ)や上述のロス五輪で現地から武子夫人に宛てた手紙などが展示されている。

遺族から多数の遺品が提供され現在ではバロン西に関しては一番そろった資料館となっている。

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バロン西も時代の流れで馬から戦車へ乗り換えることを余儀なくされた

 

この間少佐、中佐と階級こそ上がっていますが明らかに左遷です。これには彼独特の性格が災いしたとみられます。

派手にアメリカ車を乗り回したり、ブランド品を買ったり、アメリカ社交界に出入りしたりして莫大な遺産を蕩尽する面もさることながら、天皇を極端に神格視する当時の風潮に懐疑的で、宮城遥拝の際にも頭を下げることはなかったなど、当時としては型破りな行動が陸軍内で反感をかったと言われています。

そして最期の地となる、硫黄島へと赴任します。そのときの様子を、元皇族で馬術が好きでバロン西と同じく馬術選手としてオリンピックをめざしたこともある竹田恒徳氏(平成4年5月死去。竹田恒和・現JOC会長の父)が「馬よもやま話」で次のように書いています。恒徳氏は陸軍騎兵学校教官を務め戦時中は大本営参謀として命令を伝達する立場にあり、戦後は日本馬術連盟会長やJOC委員として活躍した方です。

「馬はまったく必要がなくなったとはいえ、西さんは拍車と鞭を最後まで手離さなかったし、愛馬ウラヌス号のたてがみの切れ端を肌身離さずポケットに入れていた。いかに馬を、ウラヌス号を愛しておられたかがよくわかる。
その後、昭和十九年頃であったか、南方へ進攻した日本軍は、破竹の勢いで南太平洋から東南アジアの広大な地域を占領したため、兵力に不足を生じ、北方守備に当たっていた在満部隊をひそかに抽出して、南方に転用せざるをえなくなった。
私はその頃、大本営作戦参謀から、関東軍作戦参謀に転じて、その間の事情をいちばんよく知っていたため、釜山の港町に派遣され、汽車で満州各地から南下してくる転用部隊をつぎつぎと輸送船に乗せて送り出す処理に当たっていた。その転進部隊の行く先をしるした大本営命令書は、私が輸送指揮官に手渡すことになっており、私だけはその転用先を知っていたのであるが、秘密保持上「出港後開封」と上書きされて厳封してある。つまり、船が港を出てから命令書を開封して見るまで、転進部隊は自分たちの行き先は全く知らされないのであった。
そのうち西さんの率いる戦車隊が転進部隊として釜山に到着した。西さんは私に、「自分はどこへ行くのだ?」と何度も聞かれたが、それだけは口が裂けても言えない。私はもどかしさと同時に、おそらくは西中佐の最後の死地となるであろう硫黄島行きの命令書を、偶然とはいえ、もっとも親しい仲である私が明朝手渡さなければならないという、なんとも皮肉なやるせない思いであった。
そうした気持ちをなんとかまぎらわそうと、その夜は私が参謀の身分を隠して泊まっていた木賃宿で、西さんとひっそり別れの酒を酌み交わして夜を明かした。そして翌日未明、出港する船の甲板で厳封した命令書を西さんに手渡したのであるが、ついにこれが今生の別れとなってしまった。」

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硫黄島に死す

西竹一は当初、サイパンの戦いに参戦する予定だったといいます。しかしこの地の部隊は早々と玉砕したため、1944年に戦車戦には不向きであった硫黄島へ赴任することとなったようです。でも行く手を阻まれます。輸送船「日州丸」で横浜を発ち、硫黄島へ向け南下中に、7月17日父島沖にて米潜水艦「コビア」(SS-245)の雷撃を受け戦車ともども輸送船は沈没してしまいます。

生き残った西竹一は8月、戦車補充のため一旦東京に戻りました。このとき、川崎財閥の御曹司で親友であった川崎大次郎の車を借用して東京を駆け回り、その時、馬事公苑で余生を過していたウラヌスに会いに行きました。ウラヌスは西竹一の足音を聞くや大喜びして首を摺り寄せ、最大の愛情表現である愛咬をしてきたといいます。このときウラヌスのたてがみを切り取りポケットに収めました。

翌1945年、西竹一中佐は小笠原兵団(第109師団)直轄部隊の戦車第26連隊の指揮官として硫黄島にやっと上陸をはたしました。ここでも愛用の鞭を手にエルメスの乗馬靴で歩き回っていました。当初は島の丸万集落付近に展開していた戦車連隊司令部は、戦端が開かれる前に東地区に移動しました。戦車で走り回れるような地形ではなかったので、揚陸した日本軍の97式中戦車及び95式軽戦車の一部戦車の砲塔を取り外し、トーチカや砲台代わりに使用するなど工夫して米軍の上陸に備えました。これでアメリカ陸軍のM4シャーマン中戦車と撃滅戦を演じることになります。

この硫黄島での戦闘で西は戦場に遺棄されたアメリカ軍の兵器を積極的に鹵獲(ろかく)し、整備・修理したうえで、それらを使用してアメリカ軍を相手に勇戦したと伝えられています。戦闘末期の撤退戦の中でも、当時ははぐれた兵士を自分の隊員がいる洞窟内に入れることを拒絶する隊長が多かった中で、彼だけは「一緒に戦おう」と受け入れたという逸話も残っています。また映画でも描かれましたが、負傷米兵を尋問ののち、乏しい医薬品で出来るだけの手当てをしたというエピソードも 大野芳著『オリンポスの使徒』(文藝春秋刊 1984年) の中で触れられています。


バロン西30
米軍上陸前に艦砲射撃にさらされる硫黄島。
1945年2月17日の写真だが、この1か月後に戦死した。
 

西竹一の最期については諸説ありはっきりしません。現在、硫黄島の東海岸に「西大佐の碑」があります。碑文には「硫黄島  散りて散らさぬ  もののふの  心の櫻 咲にほう島」と彫られています。この碑の近くでは硫黄の露出や噴気が見られます。天井部分に蒸留された水滴がつき、真水のとれる「銀明水」(本来は富士山頂の浅間神社奥宮の東方に湧き出す霊水のことだが各地の名水をこう呼ぶ。戦場の名水という意)も近くにあり、最後に書かれた日記などから最期の場所となったと推定されるところです。


バロン西29
硫黄島にある「西大佐の碑」
 

3月17日に音信を絶ち、3月21日払暁、兵団司令部への移動のため敵中突破中に機銃掃射を受けてその場で亡くなった。銀明水及び双子岩付近にて副官と共にピストルで自決した。あるいは3月22日、アメリカ軍の火炎放射器で片目をやられながらも、数人の部下らと共に最期の突撃を行い、戦死したなど諸説いりまじっています。

また上述のようにアメリカ陸軍のM4シャーマン戦車を西竹一が鹵獲して再使用していたことからの「伝説」のようですが、接近してくる友軍の戦車だと思って挨拶した海兵隊員がいきなり銃撃を受けた。また戦場で合流したM4シャーマンから至近距離で砲撃を受けた。この戦車は撃破されたが、中に日本兵の死体が発見され、その中の1人が西ではないかと言われたりもしています。

場所や日時は判明しないものの。一代の馬術家にして快男児、バロン西は硫黄島の戦闘で最期を遂げたことだけは確かです。満42歳でした。

死後、陸軍大佐に昇進。勲三等旭日中綬章を授章しています。また、長男の西泰徳氏(現・硫黄島協会副会長)が男爵を襲爵しましたが、これは昭和生まれで唯一の授爵者となりました。西竹一本人の墓所は青山霊園にあります。


バロン西21
バロン西が眠る青山墓地にある西家の墓所
 

そして、西の後を追うかの如く、1週間後にウラヌスも東京世田谷の馬事公苑の厩舎で静かに息を引き取りました。その後ウラヌスの墓があった津田沼の陸軍騎兵学校は米軍の爆撃を受け、その時ウラヌスの遺骨は吹き飛んで残されていないということです。


バロン西22
秩父宮スポーツ博物館にあるウラヌスの蹄鉄を四隅に配した優勝額。
上から金メダル、ディプロマ(賞状)、参加メダル。
 

戦後、硫黄島の地下壕からは西竹一愛用のエルメスの乗馬靴につけていた拍車が見つかり、長男・泰徳氏が大切に保管しています。また、死ぬまで離さなかったウラヌスの鬣(たてがみ)が、1990年、アメリカで発見され、こちらは現在、軍馬鎮魂碑のある北海道中川郡本別町の歴史民俗資料館に収められています。

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子息、父の戦死の島で両軍将兵を弔う

硫黄島には戦後、厚生省による遺骨収集団が何度となく訪れ、両軍将兵が参列した日米合同の慰霊式典が開かれている。下の記事は2013年3月13日に行われた第14回の慰霊祭の新聞記事だが、「硫黄島協会、西泰徳会長」とあるのはバロン・西の長男、泰徳氏で前年に副会長から就任した。この時85歳。


 
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硫黄島で合同慰霊式  日米遺族ら270人参列(2013.03.13 )
太平洋戦争末期の激戦地・硫黄島(東京都小笠原村)で、日米合同の慰霊式典が13日午前、開かれた。両国の退役軍人や遺族、政府関係者ら約270人が参列し日米計約2万9千人に上る戦没者を追悼した。両国の友好親善が目的で、戦後50年に当たる1995年に始まり今年14回目。
式典では、遺族らでつくる硫黄島協会の西泰徳会長があいさつし「戦いの記憶を後世に正しく(引き)継いでいこう。固い絆で日米のさらなる友好に尽くしたい」と述べた。米国からは戦闘を経験したスノードン元海兵隊中将が「日米の戦士たちの犠牲に対する尊敬は、薄らぐことがあってはならない」と強調した。
旧日本軍は45年2月に上陸した米軍に徹底抗戦し、約1カ月にわたり激戦が続いた。戦死者は日本側2万1900人、米側6800人にのぼった。(3月14日付 産経新聞=写真も)

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日米合同で開かれた硫黄島慰霊祭

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両軍将兵を前に慰霊の言葉を述べる西泰徳会長
 

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米軍の投降勧告はあったのか

硫黄島の戦いで西竹一大佐率いる戦車第26連隊は隊長ともども玉砕しましたが、この戦闘では攻撃したアメリカ軍が「バロン西、出てきなさい。あなたはロサンゼルスで限りなき名誉を受けた。降伏は恥ではない。我々は勇戦したあなたを尊敬を持って迎える。世界は君を失うにはあまりにも惜しい」と連日呼びかけたが、西大佐は黙ってこれに応じなかったというエピソードが残っています。

クリント・イーストウッド監督の日米合作映画「硫黄島からの手紙」(2006年)でもこのシーンが山場として描かれ、また当時硫黄島に合流していた海軍の南方諸島海軍航空隊所属士官の証言としても伝えられてもいます。当時の米軍の記録映画でも稚拙ながら日本語でハッキリと投降勧告を告げている場面も残っていますが、バロン西に対するものではなく、一般の将兵への放送かもしれません。

こうした、事実だとする証言がある一方で、激戦のさなかにアメリカ軍が、硫黄島守備隊の中にバロン西が参加していると云う事実を事前に知り得る事などありえないというクールな見方から、後世の創作であるとする意見もあります。確かに硫黄島の戦いの壮絶さは米軍の死傷者が日本軍を上回る(米軍死傷者26,000名以上)を出しました。第二次世界大戦中の米海兵隊に与えられた名誉勲章の4分の1以上が、硫黄島上陸部隊の将兵に与えられているほどで、この死闘のなかでバロン西にこだわっている余裕はなかったかもしれません。

ロサンゼルスで各国の馬術選手はリヴィエラ・カントリー・クラブで練習したのですが、その時、西竹一中尉に非常に可愛がられたひとりのアメリカ人青年がいました。サイ・バートレット(Sy Bartlett)といい、当時19歳でした。吉橋戒三著『西とウラヌス 西竹一大佐伝』(私家本 昭和44年)の記述によると、

サイ・バートレットは戦争中、グアムの315爆撃団に所属する空軍大佐としてB29に搭乗していた。その時、日本爆撃の命令を受けた。バロン西の祖国を爆撃することに対して非常に悲しんだが命令なので出撃した。ところが、彼の乗機は被弾し、帰途、硫黄島に不時着、危うく一命をとりとめた。むろんバロン西が、この島で戦死していたことなど知る由もなかった。

戦争が終わり、彼は映画界に入り、ハリウッドでも名の知れた脚本家、プロデューサーとなった。映画好きなら当時の映画のタイトルバックに数多く彼の名を見つけることができる存在だ。バロン西の消息を求めて昭和40年10月に来日した。そして一緒に来日したケーリー・グラントを伴って、西武子未亡人を麻布に訪れ、はじめてことの仔細を知って、大いに嘆いた。

彼は日本で戦死者が祀られていると聞いた靖国神社を訪れて尊敬するバロン西のためにたった一人の慰霊祭を開いた。

「ロサンゼルスに帰りましたら、スペンサー・トレーシー、ロバート・モンゴメリー及びカントリークラブでのあなたの旧友達にこの報告をするつもりです。我が友よ安らかに」と涙とともに弔辞を捧げた。

◇ ◇ ◇

西竹一を主人公に、小説「硫黄島に死す」を著した城山三郎はこう書いています。

《西が歩いた生涯の底に、彼なりに一筋、銀の糸のように張りつめて光っているものを感じる。誤解も誇張も多い人生であったが、自分以外に生き切れない人生を、西は生きてきた》
 

 
バロン西20
 

西竹一(バロン西)ロサンゼルス五輪・馬術 (1932年)



 

(了)


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