高野文彰兄を偲ぶ    昭和37年入部同期生一同

高野との思い出    小栗紀彦(昭和40年度主将)
高野文彰君のこと   近藤喜十郎
「ランドスケープの夢」を開いて!   八木多賀子
亡き髙野文彰さんの思い出   松尾英彦
高野文彰君   梶山泰嗣
高野文彰兄へのメール   黒澤道雄
高野文彰君へ   藤井 毅
高野文彰君を偲ぶ   高橋昭夫
高野文彰兄を偲ぶ   八木澤守正
高野文彰兄の弔いの言葉   加藤正昭(昭和41年度主将)
思いがけない場所ばかりで再会した高野文彰君   宮崎 健(昭和38年卒)

 

高野文彰兄ご遺族からのご挨拶


お世話になった皆様へ

十勝晴れが続く2021年8月31日、高野文彰が旅立ちました。

中国に生まれ、米沢で育ち、北海道で学び、アメリカで覚醒し、1975年東京で高野ランドスケーププランニングを立ち上げました。

1990年に北海道へ移住し、 十勝の地で皆様に支えられながら、ランドスケープを愛し、馬に情熱を捧げ、夢を語り、世界を舞台に駆け巡りました。

2019年より病に立ち向かい、亡くなる当日の朝までは身の回りのことをいつも通りにこなし、 1週間の入院生活から自宅に戻る準備をしている矢先のことでした。家族に見守られながら、痛みもなくゆっくりと眠るような最期を迎えました。

凛々しく潔い日々の姿に未だ、旅立ってしまったとは思えず、今もどこか遠い土地でランドスケープを熱く語っているように思えてなりません。

幸せな人生を生ききった高野文彰を皆様との思い出とともにいつまでもご記憶くだされば幸いです。

コロナ禍により、直接ご挨拶の機会を設けることができず、残念でなりません。書面を持ってのご挨拶をお許しください。

皆様に見守っていただき、私からも感謝申し上げます。

このご時世ゆえ、どうかご自愛ください。

高野悠子
家族一同


高野文彰兄01


高野文彰兄02


高野文彰兄03   高野文彰兄04

"高野文彰君とヴィクトワール号"                 “森の語り部:中央は高野文彰君”
同期の河合晴夫画伯による追悼作品               同期の藤井毅画伯による追悼作品

     

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高野との思い出

小栗紀彦(昭和40年度主将)

高野と十勝で過ごした日々は本当に楽しかった。出張が無い限り六時半からの朝練。現役の学生に対するような厳しい指導にも、文句も言わずよく頑張ってくれたと思う。その努力が若い選手たちに混ざって全日本障害馬術中障害飛越競技大会に北海道代表として活躍した結果に結びついた。

「小栗が俺を馬術家にしてくれたから今度は俺が小栗を陶芸家にする。」と彼の友人の北海道ホテルの社長に橋渡しをしてくれ、ショップでの作品の展示販売の道をつけてくれたのも彼である。会社の催しがある際はいつも万年の会場へ招待してくれ、あれこれと楽しませてくれた思い出がたくさんある。

また千年の森のオープンの際には自分の全ての集大成の代表作だと誇らしげに語っていたのが昨日のようだ。2020年3月、念願のランドスケープの夢が出版されたからとニコニコと小脇に抱えて旭川の家を訪れてくれたのが彼との最後になってしまった。

彼の早すぎる逝去が残念でならない。


高野文彰兄05

十勝毎日新聞記事
(2005年10月14日)

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高野文彰君のこと

近藤喜十郎

高野君のすごいところは、在学中に公務員試験を受けて合格してしまったこと、卒業して米国に留学し、早くから将来を見据えて目標に向って着実に進んでいたことです。

どの大会だったかは忘れてしまったが高野君が勝って、皆に胴上げされている写真を覚えている。様々な試合で北大馬術部の大きな戦力として活躍してくれました。

昭和37年入部者は沢山いて、部班運動も10分位(?)だったように思う。八木先輩は我々にとっては怖い存在で、ポプラ並木の側の馬場で緊張しながら乗り、土塁(バンケット)の向こう側に自分が入ると気をゆるめほっとしたのを思い出します。

高野君のテキーラとかカルバドスに何度も乗せてもらったが、馬のつくり方・育て方がとてもやさしいなと感心したものです。

奥さんに対してもやさしく、丁寧に対していたと思う。

音更に僕の子供達を連れて遊びに行ったことがあったがその時、カレーライスを彼が作ってご馳走してくれ、それがとても美味しかったことを思い出す。多彩な人だなと感心したものです。

東京から音更の小学校に拠点を移し地元にとけ込みながら、世界の高野ランドスケープに発展させていった同期の仲間、高野君を心から讃えます。

以上

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「ランドスケープの夢」を開いて!

八木多賀子

高野さんのお仕事の集大成が詰め込まれている素晴らしい御本です。亡くなる何日か前にサインをして頂きました。具合が悪い状態でしたでしょうに電話でお願いしたら快く「いいよ」快諾して下さり、感謝しております(以前に “今度、お会いする時にサインしてね” との約束が伸び伸びになっておりました)。

高野さんが造られた何カ所かの公園に行っているので、少し紹介させて頂きます。そして気になる公園も。 行った順に書いてみました。

007(本の紹介番号)国営昭和記念公園こどもの森・・・東京都立川市
   ~テーマは非日常的な遊びの空間体験~

15年くらい前でしょうか、東京での会議の後、どこか見学にと行ったところです。この本をみて高野さんが造られたのかと知りびっくり。広くて変わっているところだなという印象でした。「霧の森」など面白そう!と写真でみて思います。細かいところは忘れていました。

009 国営滝野スズラン丘陵公園・・・北海道札幌市南区と清田区との境

主人の眠っている滝野霊園の手前(私の家からみると)にあり、孫が小さい時、遊びに行きました。有料公園の先駆けだったようです。あり塚の塔(生き物の巣がテーマの遊び場)・ありの巣トンネル・空中鳥のデッキ・虹の巣ドームのネット・ビーバーダムなど面白そうな遊び場がいっぱいあって一日いてもあきないところです。

孫と行ったあと妹夫婦と行き、馬(ドサンコかな?)に乗ってきました。ひき馬で。お昼を食べていたら、元日本ハムファイターズのヒルマン監督が奥様と食事をしていてミーハーぶりを発揮して一緒に写真を撮らせて頂きました。喜んでいるうちに私の右目がおかしくなり、急いで帰り病院へ。レーザーで処置してもらい事なきを得ました。そのような思い出もある公園です。

002 マレーシアシャーアラム中央公園

写真を見てみましたらL字型の池がどーんとあり、娘と一緒に行った公園に似ていて「あそこだー」と思ったけどちょっと違うなと。行ったところはクアラルンプール市内でした。私が行った海外はハワイとマレーシアしかないのでまさかまさか高野さんが造られたところとは・・・と奇跡!と勝手に喜んでしまいました(笑)。

まだ事務所スタッフが3人の頃に手掛けられた大プロジェクトだったようです。マレーシアのお偉いさんが高野さんをすっかり気に入って廻ってきたお仕事のようです。彼の人徳だなぁと思います。

001 十勝千年の森(1996-2008)・・・北海道清水町

私達は人類と地球と未来ということを考えながら歩んでいけるように「千年の森」と命名したそうです。西洋の知識「エコロジー」と東洋の智慧「風水」の二つの手法で土地の力を読むと考えられました。「森にはなにも持ち込まない、森からはなにも持ち出さない。」

この十勝千年の森の延長線上で「北海道を庭のような美しい島にしたい」という思いで

     2004年  ガーデンアイランド北海道を発足
  2009年  ガーデン街道
  2012年  十勝で初のガーデンショー
  2015年  上川町で北海道ガーデンショー2015大雪を開催(上野ファームも協賛)

上川町は人口4,000人の町でスキージャンプの高梨沙羅さんの出身地でもあり、庭づくりでの町の活性化にチャレンジしております。ここには娘と一緒に行くことができました。世界のあちこちから応募によるデザイナーガーデンが3つ、なかなか面白かったです。


A. Dress GARDEN  牧野研造(ジャンプ台と人魚を連想させる庭)
B. Journey of Life リム・イン・チョンゲ
 
C. 森の木琴 (上川の間伐材で作った大きな木琴)

コンペティションガーデン(宴の庭)が6つあり、女性3人を含む6名の作品が出展。三國シェフのレストランがあり、展望台・ショップもある国際的なものでした。

016 宮ノ丘幼稚園・・・北海道札幌市西区

ここは行きたいと思いながらまだ行けておりません。今年の夏には必ず行こうと娘と約束しています。

ポニーがいたり、小川(水)を取り込んだり、スキーをしたり大きな自然の中で子供達がのびのびと動きまわっています。二代目園長さんはエンデュランスの選手だった方で2007年の全日本チャンピオン。高野さんとは馬友達としてウマが合う方でした。


私は学生時代の馬術部での同期の方々との思い出はきれいに忘れてしまっていて、卒業後何年か経って同期会が開かれ、高野さんが一番先にニコニコして出て来て下さり、とても懐かしかったです。何年かして十勝の高野さんのお宅に皆で押しかけ、馬場で馬に乗ったり、ジンギスカンを食べたり、ピアノを弾いたり・・・そして神田日勝美術館にも寄ったなー。然別の菅野温泉にも行きました。また何年か後、別海の高橋さんの近くに行き野付半島とかに行きました。おかげで楽しい想い出が沢山できました。

「ランドスケープの夢」を通して、高野さんが「自然をどんなに愛されていたか」が少しわかる気がします。どのような公園にしたいのか、インスピレーションが天下るのでしょうね。

霊界でも地球温暖化を阻止すべく、知恵を後継者に送ってあげて下さい。

        この世で出会えて幸せでした。ありがとう!!

以上

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亡き髙野文彰さんの思い出

松尾英彦

心の通じ合った親友の髙野文彰さんが急逝したとの報に接し、ご遺族の方の悲しみはもちろんのことですが、私も未だに悲しみで心の整理がつきません。

不思議なことに私と同じ時期に同じ病に罹患してからは週に一度くらいは電話でお互いに連絡を取り合いながら、前立腺がんの本を幾冊も紹介していただき、また私が受診しておる虎ノ門病院を一緒に伺い治療方針を相談しましょうと努力を重ねてきたのに、一足先に逝ってしまわれたのには悲しみがあまりにも大き過ぎます。時々髙野さんの電話での声が思い出され、懐かしさに胸が痛みます。

馬術部同期の中で一番気が合い、上京時には馬術部大先輩の加藤元さんを二人でお伺いし、公園関係の仕事の講師役で上京時は乗馬で足のケガのため奥さんの介助を受けて松葉杖を付きながら講師役を務められた事なども今は懐かしく悲しい思い出となりました。

コロナ禍が一段落したら上京の機会もあるのでその時は在京の皆さんと軽く杯を交わしましょうとの話も懐かしい会話でした。

遺作となってしまいましたが、ランドスケープの夢の作品の中で『ランドスケープの夢は、心安らぐ美しい風景と文化をつなぐ多様で生命的な世界であります』この言葉がとても気に入って、時々豪華な本を眺めており、22年には同期会で道内の公園めぐりのガイド役をしていただくのも楽しみにしておりました。

与えられた運命とは言え、病の罹患時にガンの標準療法をむしろ避けて食生活のみで治療に専念したのはそれなりに納得の治療方法と思いますが、同じ病の私はとても気になり同じ轍を踏まない様気をつけます。 コロナ禍が落ち着きましたら、同期の皆さんと一緒に墓前に参り、一足早く先に逝った故山村勝さん・故加藤孝志さんと同じく 『都ぞ弥生』 で惜別を告げたいと思います。


  

高野文彰兄11  高野文彰兄12

【高野ランドスケーププランニングの業績】
沖縄海洋博覧会記念公園 海の中道海浜公園 国営昭和記念公園 静岡県富士山こどもの国
みちのく杜の湖畔公園 国営常陸海浜公園 国営木曽三川公園 国営滝川すずらん丘陵公園
幕張新都心住宅地事業 世田谷区公園緑地整備 富士急ハイランドリフレッシュ計画 蔵王月山地域複合リゾート
道立中標津公園 モイワの森 然別湖畔温泉ホテル 札幌市旭山記念公園
旭川市北彩都ガーデン 苫小牧植苗プロジェクト 釧路市動物園 十勝千年の森
その他多数の公園等の計画・設計
マレーシア、フランス、カタール、中国、ラオス等の国々の公共施設の設計・現場監理多数
日本造園学会デザイン部門賞、日本公園緑地協会賞など受賞

以上

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高野文彰君

梶山泰嗣

君の計報が届いてから、もう1年半にもなるのですね。ほやほやの1年生のときから、もう少しで暦が還る歳月を重ねた付き合い、さて、何を書こうかな。

こういうときに悪行の数々をと思うのは私の悪い癖ですが、どう想いを巡らせても浮かんでこないのです。そこで君に驚かされたことを記します。

一つは、東京で立ち上げた造園設計会社を引き払い、音更の廃校となった分教場に移転したことでした。ご家族は勿論、社員ともどもですから、よくまあ付いてきてくれたと、本当に驚かされたものです。風雪に耐えたそのままの教室が設計室、職員室が事務室だったことを想い出します。

優勝カップで飲み干す
ビールの格別な味わい

二つ目は、還暦を過ぎても国体出場に向けて精進していたことです。馬場馬術なら兎も角、障害ですからびっくりです。でも、会社移転の時から思い描いていたのでしょう。牧草を育て、馬場を作り、最高の障害血統馬を競り落として調教、と計画通りの進捗、まあ 「見事」 の一言です。

三つめの驚きが、君が単なる馬キチではなく国内第一人者であると共に世界を舞台に活躍する著名な造園士であったこと。ランドスケープなどとは無縁な私は、自然を最大限生かした国内外の名園を手掛けていたことなど全く知らなかったのでした。

私たち同期の次の集まりは、旭川で君の手懸けた公園を案内してもらう予定だったのですが、出来なくなりました。残念です。

さようなら


高野文彰兄01

野付ライディングファームでの大合宿写真

前列左より: 八木澤夫人,大場夫人,梶山家三女,高野文彰,八木多賀子,小栗夫人,
  梶山夫人+梶山家孫娘
中列左より: 八木澤守正,黒澤道雄,河合晴夫,小栗紀彦,高橋昭夫,梶山泰嗣,藤井毅,
  近藤喜十郎,大場善明先輩
後列 : 梶山家三女のご主人(赤いシャツ)

同期生近況

昭和37年馬術部同期生(昭和41年卒)の紹介(カッコ内は現役時代の部内の役職)
小栗紀彦
(主将):
帯広畜産大学馬学講座の教授退官後は,浦河のホースマンアカデミーの教官を務めていたが,脳梗塞を患い引退後は陶芸家の仲間入り。旭川在住。
近藤喜十郎
(主務):
英国マンチェスター大学で社会学士,ノッティンガム大学で理学士の学位を取得し,英国馬術協会の国際馬術インストラクターの資格を取得。北大馬術部の指導部の一員として現役を指導。
高橋昭夫
(飼育):
別海町の獣医師として,絶大な信頼を得て診療を続けている。高野兄の繋養馬のテキーラもヴィクトワールも診察した。高野兄のための競技馬として “タカノホマレ” を生産・育成して提供したが,戦績を遺すことができず残念。
黒澤道雄
(会計):
工学部機械学科卒業後に日本鋼管,藤倉電線,凸版印刷各社の技師を勤め退職後は郷里の静岡県磐田市で学習塾を経営,テニスと野球を楽しんでいる。
八木多賀子
(女子):
昭和40年6月の馬事公苑における第1回全日本女子学生馬術大会で馬場馬術競技6位ながら障害の減点で総合16位の戦績。文学部哲学科卒業後は,2年上級の八木正巳兄(昭和38年度主将)と結婚,旧姓と変らず。良妻賢母。北海道乗馬連盟理事でエンデュランス競技を導入した八木正巳兄が2005年8月に急逝の後も,馬術部同期会には積極的に参加。
八木澤守正
(主務):
協和発酵工業と財団法人日本抗生物質学術協議会に勤務後,慶應義塾大学薬学部教授を経て現在は北里大学大村智記念研究所の客員教授を勤め,新型コロナウイルス感染症の治療薬関連の業務を続けている。
松尾英彦
(水産):
日魯漁業の社員としてスペイン領のカナリア諸島駐在を歴任,退職後は国家資格キャリアコンサルタントを取得し,産業カウンセラーのニューキャリア―社に勤務。生涯現役を目指して勤務継続中。
梶山泰嗣
(水産):
日魯漁業で大型漁船の船長を勤めた後に地上勤務となり,人事管理に苦労した後に定年退職。競馬もお酒もほどほどに,軽妙洒脱な余生を楽しんでいる。
藤井毅
(中途退部):
農学部林産学科卒業後はつくば市の農水省林業試験場に勤務。退官後は,趣味の木版画制作と薔薇作りに専念。高野文彰兄を偲ぶ作品三点を寄稿。
河合晴夫
(中途退部):
法学部卒業後は静岡県庁に勤務。厚生省への出向など重職を歴任し,退職後は県の高齢者施設の管理者を勤めた。同郷で高校同窓の黒澤道雄兄とテニスや野球を楽しんでいる。趣味の油絵で高野文彰兄を偲ぶ作品一点を寄稿。
[追加 1名]
加藤正昭
(昭和41年度
主将):
1年後輩の世代の主将。工学部衛生工学科を卒業後,帯広の実家の「加藤家具店」を経営。帯広に移住してきた1年先輩の小栗紀彦兄と帯広郊外の音更町に移住してきた高野文彰兄との交流が続いていた。

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高野文彰兄へのメール

黒澤道雄

貴兄が、そちらに旅立ってから早や2回目の新年を迎えてしまいました。

そちらでは、同期の山村兄、加藤兄、高橋兄の奥さん、2年先輩の八木正巳さん、そして八木澤兄の奥さん、河合兄の奥さんと賑やかに談笑されているかと思っています。

我々同期の皆さんとのメールのやり取りも、貴兄が旅立ってから少なくなってしまい寂しい想いをしていました。そこで、そちらからはこちらの世界はお見通しの事と想像して、今回のこの機会を利用して貴兄にメールを差し上げます。 貴兄が北大馬術部を卒業してからの馬術競技歴のハイライトというべき、静岡県掛川市で開催された全日本障害馬術大会で5位入賞という快挙を当時の直接の立ち合い者として振り返り、貴兄の栄誉を再び称えたいと思います。当時やり取りをしていたメーリングリストを抜粋する形で伝えます。

それでは、2005年9月の全日本障害馬術大会の『実況中継』に入ります。



高野兄からの『輸送熱で試合に出られないかもしれない』というメールでドラマがスタートしました。

【件名】輸送熱を出してしまいました

皆様 ヴィクトワールは輸送熱で調子が悪く出場が危ぶまれています。熱が一時40度を超え今は38度台で少し下がりましたが心配です。折角応援に来ていただいても勇姿をお見せする事が出来ないかもしれませんが、その時は悪しからずお願いします。 [以下略]
 高野文彰


【件名】ご安心ください

皆さん 高野兄からのメールで心配されたでしょうが、ヴィクトワール号の熱も大分下がり大丈夫のようです。本日のフレンドシップ競技で見事『満点』の出来でした。安定した飛越ぶりは見事なものでした。 [以下略]
 黒澤道雄


【件名】惜しかったです!

皆さん いよいよ高野兄の試合が本日スタートしました。本当に惜しいことに、14番目の障害の1落下のみの減点4でのゴールでした。減点ゼロが57頭中25頭でしたので、順位としては28位でした。でも、熱を出して点滴処置を経ての、この見事な結果は称賛に値する立派なものであったと思っています。  [中略]
本日の試合を終え、東京から応援に駆けつけてくれた八木澤夫妻や地元の河合夫妻、黒澤夫妻と共に、明日と明後日の高野選手の健闘を期待すべく鰻屋さんで英気を養いました。 [以下略]
 黒澤道雄


【件名】決勝進出を果たす!

皆さん 高野選手は中障害飛越Dで堂々の決勝戦への進出を果たしました!高野・ヴィクトワール号は本日も華麗に障害をこなしていきましてノーミスで見事ゴールしました。  [中略]
明日の決勝戦は標準のルールで行われますので、チャンスは充分あります。 高野兄、入賞目指してガンバ!  
 黒澤道雄


【件名】やったぜ 5位入賞!

皆さん 我らの高野選手は決勝戦で堂々の5位入賞を成し遂げました!決勝に残った39頭のうち、無失点馬は12頭でジャンプオフになりました。ジャンプオフでも高野選手は落ち着いて飛越し、優勝者とは2.3秒、3位とは1.4秒差で5位に入りました。ひいき目無しで全選手のなかで一番の安定した華麗な(加齢ではなく)飛越ぶりでした。学生時代の癖もなくなっていて、小栗コーチの名指導と本人の努力の賜物と感心しました。

61歳での5位入賞は新記録ではないかと思っています。赤いブレザーを着ての走行で還暦のパワーをもらったのでしょう。当地に到着後ヴィクトワール号が熱を出し、出場そのものが危ぶまれていた状況での入賞を果たした高野選手の喜びも大きかったと思っています。

そして、亡くなる前日に高野兄に全日の出場を薦めた八木先輩に対して、この入賞が何よりの供養になるかとも思っています。  [以下略]

   高野文彰兄とヴィクトワール号
全日本障害馬術大会 Part II
中障害飛越競技D 5位入賞
2005年9月(つま恋乗馬クラブ)

 

【件名】高野兄おめでとうございます

高野兄 すごいものですね、ひたすら感心しております。まだまだ挑戦を続けること、鍛えぬいた身体が戦いを欲しているのかと別世界の人のように感じております。

黒澤兄 連日のレポートありがとうございました。家族中でメールが届くのを楽しみにしていました。1報で惜しい、2報で希望、3報でやった、シナリオ通りの運びではなかったでしょうか。写真も、選手以上に盛り上がっている応援団の意気込みが伝わり、いい雰囲気でした。料理の写真にビールの王冠8個が写っていたのは八木澤兄あたりのアイデアかと察し笑わせて戴きました。小生がヴィクトワールの顔を褒めますと、次女は高野さん恰好いいわと若干噛み合いませんが楽しい時を過ごさせてもらいました。  梶山泰嗣


【件名】みんなの想いを乗せて!

皆様 夢のような1週間でした。輸送熱で出場すら危ぶまれていた状態を考えると走行ごとに成長してゆくヴィクトワールに驚きの連続でした。1日目のフレンドシップは体調も考え5個ぐらいを軽く飛んで様子を見ました。2日目の標準障害は最終障害を落下して28位、時間は早くて落下しなければ7位くらいだったでしょうか、流石全日本・・25頭がゼロでした。3日目のスピハンははやる心を抑え急な回転は一切せず、標準と同じリズムで満点の走行を試みました。減点ゼロでしたので少し順位を上げて22位で予選を終えました。最終日は57頭参加した中から39頭が選ばれ決勝に臨みました。落ち着いた走行で減点ゼロ、いよいよ12頭によるジャンプオフです。ここまで来られたので満足という気持と、もう一勝負、今の段階で無理なくできるぎりぎりの走行により5位で終わることが出来ました。

他界される前日に『高野、全日本に出ないか?』と八木さんからの電話があって始まった今回の全日本は八木さんはじめ、多くの人の想いを乗せ、それに後押しされエネルギーとなって飛越できた様に思えます。毎朝練習を見てくれた小栗の馬術に対する理論と情熱、河合、黒澤、八木澤夫妻の連日の応援と励まし、美味しい鰻、イギリスに戻る前に練習を見に来てくれて.アドバイスをくれた近藤、激励のメール・電話をいただいた皆様、留守を守ってくれた奥方・悠子さん、カルバドス君、本当にありがとうございました。

無事に愛馬が十勝についてくれることを祈って。  高野文彰




高野文彰兄  こうして18年前の貴兄の活躍を振り返っても、昨日のように蘇ってきます。我々も、必ずそちらに行きます。その時には、また賑やかに昔話に花を咲かせたいと楽しみにしています。

以上

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高野文彰君へ

藤井 毅

卒業後10年、壇上に「ランドスケープの夢」を語る新進造園家の雄姿があった。多少前髪が顎鬚に移っているが、満面笑顔で手を振る高野がいた。近況や夢を語り合う時、すでに「千年の森」の種を宿していたように想う。若い、夢追い人。

つくば研究学園都市公園応募コンペに高野プロジェクト現地アドバイザーとして参加し、巧みな高野流調査手法を学んだ。やさしく丁寧に話しかけ、忌憚のない想いを引き出し、柔軟かつ貪欲に吸収し、コンセンサスを急がず、僅かなコンセプトに留め、機が熟すのを待って、ダイナミックに集約し、高野プランに纏め上げる。見事、魔法使い。

高野の活躍に刺激されて、春夏バラ時に自宅で藤井妻夫共催の 「大人のためのお話会・童話木版画小品展」を始めた。そのロゴマーク 「森の語り部」 梟に高野の顔を無断拝借している。高野設計の羽成公園で我が子、孫をはじめ、多くのつくばっ子が遊び育っている。「お話会・版画展」 の20周年記念に 「ランドスケープ(子供版)」 の講演をお願いした。高野のユニークな風貌、行動、作品が参加者母子に大いに受け、子供達にはティンバーフレーム、ファファドーム、そして乗馬姿がお気に入りだった。やさしい、万年少年。

記念講演のお礼に夫婦で十勝音更町を訪れた。奥様と愛馬とあの笑顔に迎えられ、妻は初めての乗馬に誘われ、夫は高野作品巡りに導かれた。自馬と作品を我が子のように慈しむ高野夫妻の姿に清清しさと豊かさを感じた。ご長男結婚式の父親の真っ赤な乗馬服には吃驚した。妻は早速ストリーテーリングリストにロシヤ昔話 「まほうの馬」 を加え、夫は妻の 「語る話」を木版画 に仕上げた。懐かしい、律義者。

幾つかの高野作品と完成報告会に臨むたびに、人と自然を見詰め、夢を語らい、仲間を拡げ、想いを積み上げ、夢を形づくり、美酒に酔う高野チームの在り様を彷彿させる。たとえ数多くの苦悩、失敗、挫折が隠されているにせよ。そして、イベント末尾には必ず乗馬姿のショットが添えられていた。お調子者されど大物。

もしかして、クラーク博士の教えを最も実践した男かもしれない
君は天国、俺は地獄、もう二度と会えない、されど夢で何度も会える


まほうの馬(ロシア童話より)
   
北の森から(十勝千年の森の思い出)

以上

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高野文彰君を偲ぶ

高橋昭夫

高野兄 様々なことでお世話になった。ありがとうございました。

貴兄が十勝に転居してきて事務所を構え、北海道の人になってからは、北海道での同期・同郷人が増えた! と頼もしく思えていたのに、急に寂しさを感じている。

思い出はたくさんあり、お世話いただいたことへの感謝の意を伝えたいことはたくさんあるが、貴兄が世話してくれた “ヤマボウシ” のことを特に思い出している。

我が妻が亡くなったとき,同期の皆さんから御香典をいただく羽目になり、そのとき俺は 「困ったなぁ、受け取りたくない気持ちなんだ…」 と貴兄に相談した。 貴兄は、「ならば、樹木を植えよう! 樹の成長とともに年月の経過を知り、亡くした人を思い出せるよ!…」 と提案してくれた。早速、貴兄の後に従って、帯広市にある樹木園に行った。そこで、貴兄が選定してくれたのが “ヤマボウシ” という樹木だった。

その樹の苗木、二株を買ってもらい、我が家に持ち帰って植えた。

その苗木は2メートル足らずの幼木だったが順調に成長した。数年にして、花を咲かせ実をも持つようにもなった。今では、樹木全体として我が家の屋根にかぶさるように大きくなっている。

“ヤマボウシ” は6月に蕾をつけ始める。そこから、ゆっくりゆっくりと小さな花を咲かせ、そしてまた、ゆっくりゆっくりと花を10センチ大まで大きくしていく。夏の終わりには、2~3センチ大の実をつけ、ゆっくりゆっくりと成熟させていく。このように、“ヤマボウシ” という樹は、蕾が生じてから花が満開になり、やがて花が萎れて実をむすぶ、その実が成熟する……、この時間がすごく長い。この長いながい時間を、春から晩秋まで、毎日、見るのも楽しい。

妻の命日が6月なのだが、ちょうど “ヤマボウシ” が蕾を準備し始める時期でもある。なので、そこからずうっと晩秋まで、“ヤマボウシ” を愛でるときと、亡き妻を思うときとが同時進行なのである。そして、冬は、“ヤマボウシ” の実を食いに遠くからやって来るヒヨドリを歓迎するときである。

“ヤマボウシ” の生長とともに、「もう17年も経ったのか……」などと静かに感慨に耽る。

“ヤマボウシ” という記念樹を持って得られた自らの心境の変わりようにも何かを感ずる。おだやかな、こういう時間を持てたことは幸せなことだ。

これは、貴兄の提案によって得られたものだ。

17年前の提案に感謝の意をお伝えしたい。ほんとうに、ありがとうございました。

以上

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高野文彰兄を偲ぶ

八木澤守正

高野文彰兄とは60年間にわたる馬術を基とした交友でしたが、親しさを増したのは馬術部2年目の5月に資金集めのダンスパーティを中島スポーツセンターで催した時でした。「東京よりきたる! 堀内孝夫とフリーメン友情ワンマンショー」と銘打って1,000名以上が入場できるホールで行われたダンスパーティで、激しいロックの曲に乗って最初にフロアーに飛び出してツイストを踊り始めたのが高野文彰、山村勝、加藤孝志の同期の面々と私でした。その一か月前からの猛烈な特訓が功を奏しました。

それに続けて、盟友となったのは夏休みの東京での武者修行の一週間でした。夜行列車が上野駅に到着する前に馬装に着替えて、先ずは早朝の目白の学習院大学馬場で誉桜、藤桜、秀桜、墨桜、嶺桜などの関東学生の名馬に騎乗させて貰い、その後は私の実家で合宿をしながら明治大学、法政大学、中央大学、青山学院大学の馬術部を巡って関東馬に騎乗する機会がありました。

その折の最大のイベントは、アバロン乗馬学校で武宮正旺校長の審判の下に、明治大学と法政大学の二年目部員と三校の対抗戦を行ったことでした。後に日本馬術界で名を馳せた明治大学の広田健司君も相手となりました。我が北大チームでは小栗兄が抜群の成績でしたが、高野兄と近藤喜十郎兄はそれなりの成績、私は法政大学の青毛の悍馬「法勝号」に引っ掛けられて馬場を何周も駆け回っただけで見事に失権でした。

忘れがたいのは4年目の夏に名古屋の森林公園で行われた国立七大学馬術大会(七帝戦)であり、決勝を翌日に控えての宿舎で隣室の金城学院大学筝曲部のお嬢様方と懇談の場面がありました。翌日の応援の約束を結びましたが、その折の交渉役は高野兄であったか、近藤喜十郎兄であったかは定かではありませんが、小栗紀彦主将は大事を控えた前日の浮かれ気分を大いに反省しておりました。幸い優勝を勝ち取り、大きな「東久邇の宮盃」を携えて東京に立ち寄り、東京OB会が催して下さった祝勝会で優勝盃から飲んだビールの味は忘れることができません。

留学したジョージア大学のフットボールチーム
“ブルドッグス”のシール(犬の名前は UGA)
[高野兄の帰国時のお土産]

高野兄は農学部農学科園芸学教室に進み、国家公務員上級職試験で造園職に見事合格しましたが農林省には入省せずに民間のコンサルタント会社(日本技術開発)に入社し、3年後には米国ジョージア大学の環境デザイン学の大学院に留学し修士課程を修了しました。

この修了作品が米国造園学会の最優秀表彰を受けており、既に将来のランドスケーププランニングでの成功が約束されていました。その後、1973年~1975年の間にピッツバーグのランドスケープ設計事務所Simons & Simons で実務を学び、1975年に帰国して高野ランドスケーププランニングを設立しました。

話は飛びますが、1980年頃、高野兄はバクダッド空港のランドスケープの仕事が一段落した折に町田乗馬センターを訪れてくれて、私が「長栄号」という栗毛馬で障害を飛んでいるのを見てくれました。その時のウエイトは80kg近かったと思いますが、帰国の飛行機の中で心臓が苦しいような気がしたので、乗馬により体重を減らしたいと言っていました。それが、後に音更の自宅に牧草地付きの馬場と厩舎を備えて、自馬を2頭も繋養する乗馬家に変身する契機になったのだと思います。

高野兄の馬術部現役時代の戦績は、貸与馬競技では上述の七帝戦の優勝、自馬競技では4年目の11月に馬事公苑における全日本学生馬術大会総合馬術競技に北飄号で出場し、耐久審査で途中失権がありますが、後々まで “学生時代に忘れ物をした” と述べているほど悔しい思いをしています。

その “忘れ物” を音更の自宅の馬場で調教した名馬テキーラとヴィクトワールによる北海道馬術大会、国体馬術競技、全日本障害馬術大会などでの優勝と上位入賞で取り戻したと話していました。北海道馬術大会では10回以上の優勝があり、全日本障害馬術大会では中障害競技で5位入賞、テキーラ号は日本馬術連盟から功労馬表彰を受けています。

さらに話は飛びますが、2019年頃の北大馬術部の存続の危機に対して、高野兄が一肌も二肌も脱いで献身的な応援をされたお蔭で、危機を乗り越え、東京OB会と馬術部後援会の活動が活性化され、現在の北大馬術部の安定した状況があることを述べなければならないと思います。

高野兄の仕事上の本拠地は音更でしたが、東京にも事務所があり、東京勤務の折には馬術部活性化について相談する機会が多くありました。高野兄の呼び掛けに、昭和50年代後半から平成10年代中頃卒部の若手OBが20名近く集まり、組織強化、会費・財源、広報・宣伝の課題検討班に分かれてアイデアを出し合い、一時は部員数が10名にまで落ち込んだ北大馬術部を復活させることに成功しました。高野兄が自社の大型コピー機を駆使して作成し、馬術部に寄贈した “新入部員勧誘ポスター” が功を奏して、現在の部員数にまで復活していると言えるのではないかと思います。


作成した新入部員勧誘のポスターを
持参して療養中の小栗兄に面談
(2019年2月)

北大アンバサダーを勤められた加藤元先輩(昭和31年卒)の篤志を得て、馬術部が緊急に資金を必要とする場合に備えて「加藤元強化基金」を設置する際にも、高野兄は後援会の担当理事として諸般の準備を整えました。年会費が3,000円であった後援会費を、1口3,000円で4口以上に改定して、馬術部に毎年一定金額の補助を行うことが可能としたことも高野兄の業績です。

学生時代の “忘れ物” を取り戻し、現役諸君と馬場で技を競うことに喜びを感じていた我らが同期の高野文彰兄の、早過ぎた逝去を悼み、その業績を偲びます。

 

以上

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高野文彰兄の弔いの言葉

加藤正昭(昭和41年度主将)

高野兄のご逝去に心よりお悔やみ申し上げます。

私の入部は昭和38年。その時の主将は故八木正巳さんでした。

何事も遅い私は新入部員歓迎コンパが終ってからの入部で、面喰らうことばかりでした。

こんなドジな私からすると二年生は雲の上の存在です。そんな中で高野さんには、やさしく接してもらいました。一番先に退部するのではないかと見られていた私が卒部できたのは高野さん小栗さんなどの方々のおかげであったと感謝するばかりです。

その高野さんが一年先輩の野田さんから北飄(ほくびょう)を引き継いだ時は、迷ったことと思います。総合馬か障碍馬か、ドイツ式かイタリア式、口角泡をとばして激論を交わしていたことを思い出します。

高野兄と北飄号(1964年)
北海道馬術大会中障害競技

現役時代の活躍は別にします。

卒業後、高野ランドスケープを創業し音更に転居。自馬を持ち、住まいと一緒の生活をしながら、馬術大会に出場。同社の社⾧として国内のみならず、世界で活躍する姿にただただ尊敬するばかりでした。

そんな高野さんから手術の受けられない「ガン」であることを聞きました。その後はかかりつけの病院と私の会社が近いので奥様共々寄っていただき、壮絶な「ガン」との戦いの様子を伺いました。負けてたまるかという精神力で日本中の病院で様々な療法への挑戦には脱帽でした。

いずれのステージでも持てるエネルギーを余すことなく発揮。そして白いブレザーのよく似合う素敵な高野文彰さんに、心より感謝いたします。安らかにお眠り下さい。

合掌

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思いがけない場所ばかりで再会した高野文彰君

宮崎 健(昭和38年卒)

昭和50年の秋頃だろうか、山形県の赤湯温泉の「御殿守」という旅館の大浴場に浸かっていた。ここは米沢藩主・上杉家の別荘で「赤湯御殿」として伝統を守り400年ほどたつ由緒ある建物である。

もうもうとした湯けむりの中で立ち上がったら真ん前に高野文彰君がいた。互いに「おう!!」と叫んだものである。北大を卒業して10数年たっていた。ともに東京暮らしではあったがそれまで会ったことがなかった。

馬術部のホームページに、ポプラ並木で馬車の手綱を持つ私の後ろに昭和37年入部生がわんさと乗っている写真がある。彼らとは3つ違いだが、なかで高野文彰君と山村勝君は強く印象に残っていた。ともに山形県米沢興譲館高校の卒業生だったからだ。

東京の空襲が激しくなって母の実家がある米沢で疎開生活を送った。終戦の詔勅を聞いたのも小学校入学も米沢だった。そのまま過ごしていたら同じ興譲館を目指したかもしれない。そんな親近感があった。

二人が蔵王の麓の温泉で会った訳はこうだ。彼は米沢の実家を訪ねがてら、山形県庁に就職した山村君と会おうと途中に一泊した宿。私はこの頃政治記者をしていて、伯父が上杉鷹山公顕彰会長で「ケネディ大統領が鷹山を称えた小冊子を作ったので、国会議員全員に配布してくれ」と強引に押し付けられ、国会記者会を通じて配った礼を兼ねてこの旅館での叙勲の祝賀会に招かれたというものだった。

平成3年(1991)夏の朝、今度は東京駅新幹線ホームでぱったり出くわした。こちらは新聞社の静岡支局長で週末帰京して月曜の朝静岡へ戻る途中、彼はコンペで勝ち取った「静岡県富士山こどもの国」の総合設計を任され県庁の役人との打ち合わせだった。

このときの知事は斉藤滋与史氏で参議院から知事に転じて2期目。兄の大昭和製紙会長、齊藤了英はゴッホの「ひまわり」など2点を244億円という途方もない金額で競り落としたものの「死んだら2枚の絵とともに焼いて欲しい」と言ったので顰蹙をかった人物だ。

静岡にはわずか1年しか居なかったのだが、知事とは気脈が通じ、月に2回ほどは大昭和が持っているゴルフ場で知事とプレーする仲だった。こどもの国は私の後輩が設計者というのと、場所が知事の地元・富士市だということで特別に目をかけてくれ、こどもの国にはミニゴルフ場はどうかなどととも言ってくれた。総務部長を呼んで適宜進捗状況を新聞発表すること、後から発生する経費増をケチらないことを指示してくれた。

このときの総務部長というのがまた気骨ある男で、後に大阪府の副知事時代、横山ノック知事に仕えていたが「こんなバカとはやってられない」と辞表を叩きつけた人物。後年、総務省事務次官になったとき、こどもの国の礼を含めてプレスセンターで励ます会を開いた。

斎藤知事の後は石川嘉延知事だが、彼には知事選での参謀を依頼された。シンボルカラーを黄色で行け、とアドバイスしたら、その通り4期16年を「黄色いネクタイ」で過ごした。「静岡県富士山こどもの国」は彼の任期途中に開園したのだが、設計者・高野文彰への配慮はしっかり引き継いでくれた。毎年、芝浦の料亭で宴席を設けてくれていて、いつも園の入場者数などデータを持って来てくれたのだが、高野本人は遠く帯広にいるのと年末の会なのでほとんど連絡しなかったのが今頃悔やまれる。

馬術部ホーム・ページに「アメリカに帰ったクラーク博士のその後」がある。クラークは「Boys, be Ambitious」(少年よ大志を抱け)の言葉を残して日本を離れた後、ボストン郊外のアムハーストに帰った。学長をしていた「マサチューセッツ農科大学」はその後「ユニバーシティーオブマサチューセッツ(U MASS)アムハースト校」となった。

ゆかりの北海道大学とは姉妹大学提携を結んで交流を続けていたが、1986年にクラーク博士没後100年の記念式典が行なわれた時に、博士の邸宅があった地に、業績を称える日本風の記念庭園を造る計画が持ち上がった。この記念庭園を設計したのが高野文彰君だった。北海道大学農学部の建物がシルエットになっていて、その写真も掲載されているので一読されたい。

私は小学生の時教科書に載っていった「少年よ大志を抱け!」の言葉に惹かれて北大を目指した一人である。彼もまた同じ志を持った仲間だった、と今、強く思う。

* * *

この項を書くにあたって同期生への連絡などの労を取ってくれた八木澤守正君からメールが届いた。

「宮崎兄が米沢興譲館高校の事を記述されるそうですが、札幌の寄宿舎『米沢興譲館』には恩田正臣兄が県外生ながら居住していて、その恩田兄の「イタリー式馬術」理論に、寮生となった高野文彰兄と山村勝兄(昭和40年度副将;故人)が心酔し、一方、近所の「秋田寮」には、県外生として居住していた堀川芳男兄の「堀川学校:ドイツ流」には寮生となった加藤孝志兄(昭和40年度副将;故人)が心酔して師事したことにも触れて戴けたらと思います。その後の北大馬術部を二分して論議が交わされた「イタリア式馬術vsドイツ式馬術」の大論争が懐かしく思い出されます。」

このころ馬術部は冬場「スキー部」と化していた。やれフランス式だ、いやオーストリア式だ、いやいやスキーはパラレルだ、などとかまびすしい激論を戦わせたものだった。アルペン三冠王のトニーザイラーが来日したときはわざわざ蔵王までその講習会を見に行った。と言っても、高い参加費用は払えないので大平コースの離れた場所から遠くから実技を見るだけだったが。

以上

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高野文彰兄の次女の恵さんからのお礼


皆さま

高野文彰の次女、恵(めぐみ)と申します。

この度は追悼文を寄稿くださり、また、ホームページに掲載していただけたこと、誠にありがとうございました。

追悼文や写真、作品。心暖まる内容に「ホントは俺が読みたい」と超長期出張中の父も言っていると思うので、皆さまのお気持ちを届けられるよう、母が空にむかって心を込めて読み上げています。

追想録内で父の携わった公園など、文章内からサイトに飛べるようリンクを貼っていただけたり、細やかな配慮も感謝いたします。

インターネットのあるご時世、「高野文彰」と名前を入れれば写真や記事、手掛けた公園が見られるので、父を知ってもらえる、思い出してもらえることが出来ます。

そこに皆さんの追想録が加わり、父の新たな側面も知ってもらえることが出来、ありがたいと思うばかりです。

私の知らない若い頃の父、馬術に熱中した姿を知ることが出来て嬉しく思います。母に代わりお礼を申し上げます。

皆さまお身体に気をつけてお過ごしください。

高野 恵

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