大場さんは悲惨な 「三船殉難事件」の目撃者 

宮崎 健(昭和38年卒)

大場善明さんと馬術部の話は諸先輩 諸兄が詳述しているので私は別な思い出話を書くことにします。

ともに新聞社勤めで本社も東京・大手町で隣同士でしたが異動ですれ違いが多く、どちらかの社屋で会うということはなく、やり取りはもっぱらアナログの手紙でしたが、後にインターネットができてからはメールでした。毎年数十本はやり取りしたものですが、大場さんのメールアドレスは終始一貫「hokureigo@‥」で変わることはありませんでした。大場さんの「北嶺号」へ思い入れの強さを実感したものです。

私は新聞記者時代に電子版の新聞を一から立ち上げたことがあります。今はオンラインで新聞を読む時代ですが、当時は紙オンリーだったのでデジタルというものをゼロから勉強しました。

その技術があったので「ついでに」自分のホーム・ページ「八ケ岳の東から」と、「北大馬術部ホーム・ページ」の2つを作りました。この2つについてはほとんど宣伝もしなかったのに、大場さんは隅々まで目を通してくれていて、つど感想をメールで送ってくれました。

その中で北海道の片田舎、増毛(留萌の近くの寒村)から出た世界的なシェフ・三國清三について書いた下りがあり、そこでこの増毛は「三船殉難事件」の現場であり、ソ連の蛮行を忘れてはならない、と書いた。

この項は2023年2月、つまりロシアのウクライナ侵攻からちょうど一年というときに書いているのだが、同じことが戦後すぐに起きていたわけだ(事件についてはメールで詳述されているので省略)。書いてすぐ2012年2月に大場さんから即メールが届いた。冒頭にある「石狩挽歌」「時代おくれ」というのはその動画をHPに貼り付けてあるからだ。



「石狩挽歌」「時代おくれ」のメロディーを口ずさみながら北の海を思い出していました。雄冬の冬は、人跡未踏、鳥も通わぬ、陸の孤島でした。「留萌」 「増毛」に、私は、たぶん一生忘れられない記憶があります。太平洋戦争終戦直後の昭和20年8月22日、留萌沖での「三船殉難事件」です。日本軍無条件降伏 後、樺太からの引揚船「小笠原丸」「第二新興丸」「泰東丸」がソ連潜水艦の魚雷攻撃により、留萌沖で沈められ1,708名の犠牲者が出た事件です。

当時、私は札幌の幌北小学校3年生。母に連れられて夏休みを増毛の知人宅で過ごしました。私たちが増毛に到着する2日ほど前、上記の遭難事件が起きてい ました。その日、海辺のすべての家の柱時計が、ソ連潜水艦の発射した魚雷の爆発音で「午前4時20分」で停まっていたと言います。

夜が明けて明るくなったころ、救命ボートにしがみついた遭難者の姿を見て、海辺では大変な騒ぎとなりました。浜の漁師たちは、引揚船の遭難者を見て「避難民」を聞き違えて、「シナミン」(支那人)との噂で大変でした。私たちが「増毛」に着いたお昼頃にも、「小笠原丸」遭難者の遺体が海岸に打ち上げられる光景に足がすくみました。

今でも忘れられないのは、生後1年にも満たない赤ちゃんを背負い紐で結び、救命ボートでこと切れていた母子の姿でした。赤ちゃんのまるまる太った指が、 魚に食いちぎられ爪から先が見当たりませんでした。この光景は、たぶん、一生忘れないでしょう。今も増毛海岸には「小笠原丸遭難碑」が残っているそうで す。

この「小笠原丸遭難事件」は、最近、元横綱 大鵬幸喜氏の手記でも読みました。終戦後、樺太からの婦女子、老人1,500人を載せた「小笠原丸」に、納谷幸喜 (大鵬)母子もいました。船は樺太・大泊→北海道・稚内→小樽の予定でした。稚内では引揚列車が大混雑で、半分だけ下船、残りは小樽へ向かうことになっ たのですが、増毛沖で、ソ連潜水艦の魚雷攻撃を受けたとのこと。もしこの時、納谷母子が稚内で下船していなかったら、日本相撲史に「横綱大鵬」の名前 はなかったわけです。

ロシアの外務大臣が北方領土について、いまだに「この現実を知れ」と強言する。ソ連時代からロシア時代に至るもこの国には不信しかない。この思いは一生変わらないだろう。( 大場善明 拝 )


三船殉難事件

小笠原丸殉難碑

増毛町営墓地にある
「小笠原丸殉難碑」

ソ連、ロシア時代を通じてクレムリン政府は未だに認めようとしないが、その後公開された戦闘記録などから、ソ連軍による犯行であることが明白になっている。ソ連軍の攻撃から一般人を避難させるため、大津敏男樺太庁長官は婦女子や老人を優先的に本土に送還させるため大泊港に回航させた3船に分乗させ、本土に引き揚げさせようとした。この三隻が狙われた。当時ソ連は樺太に続き北海道北部を占領するため狙撃部隊2個師団による留萌への上陸作戦計画を立てていた。このため上陸地点の探索中、通りかかった3船を攻撃したものと見られる。

北海道留萌郡小平町鬼鹿海岸には「三船遭難慰霊之碑」があり、同町郷土資料館には泰東丸の遺品が展示されている。日本海が一望できる留萌市礼受町 の千望台には「樺太引揚三船殉難者慰霊碑」が、増毛町の町営墓地には「小笠原丸殉難碑」が建てられている。

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また馬術部ホーム・ページに「ポプラ並木のそばに北大馬術部があったころ」を写真とともに書いたのだが、すぐに返信があり「貴兄の一文、読み返しては馬術部の春夏秋冬、24時間を思い浮かべました。モノクロ写真の何枚かは、私のレオタックス・シャッターに触れたあの感触がまだ残っているような・・・思いでした」と下記のように間違いの指摘と思い出が綴られていた。


     


当時の記憶をたどりながら、貴兄の「写真」順に思い出すことを書きとめてみます。
 
      ①  冒頭の「ポプラ並木の荷馬車」
      この風景は私もはっきりと覚えています。たぶん「S36年 夏合宿」でしょう。(S37年は、私が卒業してましたから)。ただ手綱を取った馬は、朝清号でなく、荷馬車・農耕専用挽馬「八海号」ではなかったかと。「朝清」は荷馬車が不得手で、危険を伴うので禁止されてたと思うのと、朝清の顔つきは、もっと鼻梁が太く、鼻先がまん丸だった印象があります。
    ②  「荷馬車の近くに古木の切り株と幼木を植林」
      まさに観察の通り、S34年の台風で並木のポプラが4~5本倒壊。翌S35年に林学科の学生実習で植林するのを、「馬術部員」として私も苗木を植える手伝いをした記憶があります。
   「並木は、防風林としては南北にあり」
      植林の「方角」としてはおかしいかも知れないけれど、記録としては、やはり「防風林」植樹演習が目的だったようです。なぜ季節風を考慮した「東西」でなかったのか。それは農場畑の真ん中に位置し、「東西」に植林しては「北側」の作物が大きく日陰となり、成育に影響あるからと私は推測してます。
    ④  「自馬がいる馬房」
      画面奥に見える山は、寮歌にもある「藻岩山」です。大倉シャンツェはもっと右側で、写真にある「馬術部厩舎」の陰になっているあたり。白く見えるところは、俗にいう「藻岩・北斜面」と言って、スキー中級~上級者向けのゲレンデ。一度だけせがまれて原重一君と駆け下りたことがある。なかなかスリルがありました。見えている「藻岩山」の反対側(南側)は、貴兄たちも出掛けた「藻岩山市民スキー場」のはずです。
    ⑤  「バックにポプラ並木が見える部室風景」
      「サイロ」は馬術部の馬具庫だった。競技会の旗ざおなどが収納されていた。屋根の上に牧草の醗酵を防ぐ換気塔が見えるのは「牛舎」。ここのコンクリ床には牛を繋ぐスタンチョンが残っていたが、牛はあまり見かけたことがなかった。右半分は、鶏舎、ロバ、ラバ、羊などの実験用家畜に使われていたと思う。ニワトリを絞めた奴が居たそうだが、現場はこのあたりか?(注:この件に関しては宮崎健、清水洋の両名がこのサイトで自供ずみです)。
隣は「農耕馬用の厩舎」で農耕使役馬以外に、いつも並木を抜けて第二放牧場に駆け出す鳥海、幸運、蒙古馬などの寝床になっていた。一番奥に入り口が見えるところは「ボロ捨て場」(いつも馬房掃除で出るボロを載せ、大八車が重かったこと)。電柱の向こう側の小屋全景が、「北大馬術部厩舎」。馬房は全部で「10室」あった。 
    ⑥  「馬橇の手綱を取る市川君」
      市川君が足を踏ん張っている「橇」は、ボロを堆肥場まで運ぶ「作業用の橇」。懐かしいね。
    ⑦  「第13回札幌雪まつり」
      1963年、S38年2月のことか。「一等地の拓銀の近く」をもっと正確に言えば「拓銀本店」のそば。この拓銀もバブルの負債をもろに受けて倒産。北洋銀行に吸収され、ここにあった「本店ビル」も、2006年夏に解体されたという。私たちの学生時代が「拓銀」の絶頂期。当時の学友たちが「拓銀マン」に就職できて胸をそり返したものだ。そういえばポンちゃん(岡田 征至君=昭和38年卒、2019年10月死去)は拓銀マンだった。
 




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