ポプラ並木のそばに北大馬術部があったころ

宮崎 健(昭和38年卒)

追記:

馬術部75周年誌の原稿をということです。在学の頃にたしか25周年か30周年かの記念誌の編集に携わりましたから、馬術部らしくとんでもなく馬齢をかさねたことになります。 新聞記者としての人生を歩んできたので、職業が習い性となり、現在か将来のことにしか興味を持たないで過ごしてきました。大して憶えていることとてないので、アルバムをさがしてきました。 何十年ぶりに開いたら、写真と共にいろいろなことを思い出しました。文章でだらだら書くより写真説明をしたほうが分かりやすいと思います。

ポプラ並木の荷馬車

平成16年の台風で北大のポプラ並木が壊滅的な打撃を受けたことは報道で知りました。馬術部OBも募金活動に協力しました。倒木でチェンバロを作るとか、家具をつくるとか聞き皆さんの思い入れの強さを感じましたが、馬術部はそのポプラ並木のすぐそばにありました。ポプラに馬をつないだり、並木の青草を刈ったりした、馴染み深い場所です。

この写真は夏の合宿だと思うのですが作業風景です。「朝清」の手綱を取っているのは私ですが、八木、大木君など下級生が判別できますから昭和36、7年の夏でしょう。当時からポプラ並木の寿命が来ていることは言われていて、荷馬車の近くに古木の切り株と幼木を植樹したあとが写っていることから、すでに保存運動があったものと見えます。今度の台風で倒れたのがこのときの幼木でなければいいのですが。

ページトップへ

ところで、ポプラ並木が何のためにあるのか当時からナゾでした。防風林としては南北にあり、あまり役立ちそうにもないし、構内にたくさんあるエルム(ハルニレ)でなくなんでポプラなのか。しかし、受験雑誌の北大紹介の項や観光パンフレットにはみな取り上げられ、中学校の教科書に当時載っていた「クラーク博士とボーイズ・ビー・アンビシャス」のくだりもたしかポプラ並木のイラストでした。夏のシーズンには、それこそ観光客が列を成して押し寄せました。私の当直のときでしたが、女性の前でいい格好をしようとした若い男が、並木につないであった馬の後ろからいきなり尻を叩き、腹に蹴りを入れられる事件もありました。

冬のパドック

ポプラ並木から右手を撮影した冬の風景です。馬術部のパドックが写っていますが、補修や管理はすべて部員の仕事でした。左の大きな木造の建物は農場の農機庫です。夏の合宿はこの2階に寝泊りしていたのですが、洗濯が大変でパンツを前、後ろと2日間はき自慢したら、特に名を秘す某先輩が「バカ、まだ裏表はける」といいました。おかげでその後遺症にながらく悩まされました。さきの写真にも写っている部員が買ってきた「なんとかチンキ」を筆にひたして、塗ってくれるのですが、その痛いこと。団扇であおいでしのぐのですが、鞍ずれができた両足の内側に張り付いた下着を甘皮ごと剥がす痛みと双璧でした。

生垣の右手が農学部で、写真の正面方向にもう移転したでしょうが、「雪は天からの手紙である」で有名な中谷宇吉郎博士(このころまだ教鞭をとられていた)の低温科学研究所がありました。

ページトップへ


部室

これが我が北大馬術部の部室です。ほう、立派な建物だ、と思う人のために正確に説明しておきます。入り口は建物にぽっかり開いた黒い長方形。ドアもなし。入るとすぐ土間。右手に冬だとジャガイモとリンゴがむき出しで積み上げてありました。農場で飼育しているロバとか豚とかのエサですが、部員もよくお相伴にあずかったものです。塩はたくさんあるので冬は男爵イモ、秋はトウモロコシで空腹をしのいだことが懐かしく思い出されます。 右手の窓が農場の職員の詰め所。左手の窓ひとつが馬術部の部室。ダルマストーブが中央にあり、詰め所サイドに2段の蚕棚式ベッドがあり、夜勤者2名が当番で詰めました。左にサイロが見えますがすでに本来のようには使われていませんでした。


ドア内側

これが部室のドアの内側。おせじにもきれいとは言いがたい名札と長靴がある光景です。今見ると懐かしい「朝清」「北翠」「北嶺」「北凉」の馬匹の名が見えます。このころ飼育馬は8頭ほどです。アングルが上向いているのは、部室を撮影したのではなく、35年に事故死したため写真とメッキした蹄鉄で飾った「北慓」の記念額を飾ってあるところを写したためです。部員にアンケートを取って上位になった映画の上映会を読売ホールなどで開催していたのですが、そのランクなども黒板から読み取れます。

 

ポスター

左は同じ頃の部室の黒板。資金をひねり出すためダンスパーティーや映画の上映会を頻繁に開きました。ルイ・アームストロングの「サッチモ世界を廻る」とエリザベス・テーラーとモンゴメリー・クリフトの「愛情の花咲く樹」の2本立てで70円とあります。クラーク会館の食堂の定食が50円くらいですか、当時の物価が分かります。映画のチケットには「一人30枚」のノルマが課せられていて黒板には部員の名前と売り上げ状況の一覧が張り出されています

 

ページトップへ


よくアルバイトをしました。札幌競馬場の誘導馬、コースの中のコンクリート製の塹壕にこもって着順の「クビ」とか「1馬身」とかの看板を上げる仕事、場内整理・・・当時からアルバイトに精を出しなかなか帰省できませんでした。札幌市内の道路の溝掃除なんていうバイトもありましたね。

下の写真正面は自馬がいる馬術部の馬房。右手がポプラ並木になります。後ろは手稲、藻岩山の方向で、白い斜面は大倉山シャンツエがあるところのようにも思いますが記憶は定かではありません。このころ馬術部は冬になるとスキー部になりました。当時日本のスキー指導方法が大転換しつつあるときで、パラレルだオーストリア式だとかまびすしいものでした。このあとトニー・ザイラーが蔵王にやってきましたがわざわざ見に行ったくらいです。オリンピックの勝者の国のスキー術に草木もなびいた時代です。馬術もイタリア式、ドイツ式、イギリス式とめまぐるしかったですが、現在世界一になっているアメリカは見向きもされなかったです。

ついでながらこのあと札幌オリンピック(1972)では、北大卒というので「里帰りさせてやる」と言われ、カメラマンらと取材チームを組み派遣されました。大倉山シャンツエで演じられた日本のジャンプ陣の金銀銅独占の現場にも、ジャネット・リンのすってんころりにも居合わせたのですが、ほとんどプレスセンターと競技場に缶詰めでポプラ並木の馬術部には行かずじまいでした。帰京したらその足で、五輪用の防寒具のまま浅間山荘事件の現場に駆けつけ、ライフルの恐怖と厳寒に震えながら風呂にも入れぬ生活です。さらに連合赤軍の鬼気迫る総括リンチ殺人事件取材と続きました。日本がどうかしていた時代のことは 自分のホームページに書きました

冬の馬房

馬房の2階は干草置き場になっています。夏場みんなの作業で積み上げたのが詰まっています。残り少なくなる頃春がやってきます。冬暖かいのでよくアベックが入り込んできました(階段はないのだが)。タバコを喫われると火薬庫にいるようなものなので、当直のときは夜間特に見回りを厳重にして追い出しましたが、今考えると野暮だったなあとも。

馬術部に入って初めて馬に触ったくちなので、馬が冬毛に生え変わることも知りませんでした。馬術部で春に生まれた仔馬もいたのですが(北春の子だったか)、やがて親子を分けるときが来ます。仔馬を求めて馬房の壁を蹴り破るくらい激しくあばれる母馬をみて涙を流したこともあります。

ページトップへ


馬術部の脇をSLが走っていたのをご存知でしょうか。「うそだろう」といわれる時代になりましたが下に証拠写真を挙げておきます。秋口、石炭を運んでくるのですが、国鉄の桑園駅の方から北大だけのために引込み線があり、下のようにポプラ並木入り口に踏切がありました。踏切といっても無人で普段は引込み線とも気づかないくらいです。後ろ姿の男性は小中高一緒の親友で、札幌に遊びにきたので案内している時の写真にたまたま踏切が写っていました。

余談ですが、夏休みはこの男(慶応)と東大生の親友2人が私の下宿に転がり込んで高校生だったこの家の娘にピアノや勉強を教えて長逗留していました。その間私は関西に帰省するという構図です。2年ほど続きました。写真の方はコーネル大から世界銀行に就職、日本人初の局長などしてから帰国、いま早稲田の大学院大学教授をしています。片方は東大を退官していま関西の私大の学長です。今も時々飲みますが「馬臭かった」とか「下宿のお母さんにお金借りてやっと帰った」とか酒の肴はあの頃の話です。

線路

ところで、この線路ですが、踏切から馬場の横を通って、第2農場の方に行きます。どこまで鉄路があったか覚えていないのですが、国鉄の作業員が連結器の上で赤旗を振り、例の汽笛を鳴らしながら「D51」(デゴイチ)がバックで入ってきたときは仰天しました。線路があるのは知っていても、普段試合のときなど線路の上にテントを張って大会本部にしていたくらいなので、廃線だろうと思っていたのです。

写真では貨車はこのときすでに4両ほどになっていますが、以前は編成がもっと長かったといいますから学内での石炭使用量が相当あったのでしょう。もう一枚は馬場内から撮影した煙を上げるSLです。バックはポプラ並木ですから位置関係がわかると思います。汽車が来たというので、部室にカメラ(シックス判)を取りに戻り、引き返してきたので、タイミングがずれていますが、桑園駅に戻るところです。

SL01
 
SL02
 

SLの汽笛は馬術部にいても聞こえました。もっと遠く北32条でも聞こえたものです。この時代、飛行機など高くて乗れなくて、学生は青函連絡船でした。上野まで23時間くらいだったか、低く響く汽笛の音が聞こえると望郷の念にとらわれたものです。就職して千歳まで一っ飛びした時、あまりの距離感のなさに連絡船に乗りたくなりました。当時、青森駅で乗船名簿を書いていると、何か異国に渡る気分でした。今でも「摩周丸」「大雪丸」「羊蹄丸」とすらすら船名が出てきます。津軽海峡の上で風呂に入れたものです。

卒業の前年の夏ですがスクーターで根室・納沙布岬から鹿児島・佐多岬まで日本縦断旅行をしました。馬でやりたかったのですが、すでに馬はもちろん、自転車、クルマ、徒歩みな先人がいて残っているのはスクーターだけだったのです。表向きはクラーク会館に寄付をしてくれた千葉県の我孫子中学に学長の感謝状、北海道知事から鹿児島県知事へのメッセージを届けるというものでした。これに富士重工、三菱石油、武田薬品、毎日新聞のスポンサーがつきました。

私ともう一人の教養の時の同級生で創設した北大探検部の事業として企画したもので、他に京大と一緒にアフリカの類人猿研究、江差沖の無人島に海上保安本部の船で送り届けてもらい10日後に迎えに来てもらうまで自給自足生活など、まあ血の気の多い青春でした。説明は省きますがこの縦断旅行で新聞記者になろうと決意しました。けれど秋口に札幌に戻ったらマスコミの試験はほぼ終了していて、残るのは入社した新聞社ともう一社だけでした。

当時、青函トンネルは北海道側の吉岡から青森側の竜飛岬(たっぴみさき)まで先進導坑という試掘トンネルを掘っていたのですが、上の日本縦断旅行を面白がってくれた国鉄が、調査船でスクーターごと竜飛まで運んでくれました。津軽半島で青森までの道順を聞いたものの訛りがすごくて結局どっち向いて走ればいいか分からずじまい。太宰治のことなど眼中になく通り過ぎました。卒業後現在に至るも船はもちろん、その後開通したトンネルで渡ったこともなく、利用は空ばかり。「津軽海峡冬景色」を歌うとき昔日にもどるくらいです。

ページトップへ


この頃、秋になると馬車に石炭を積んで、尻にボロ受けのドンゴロスの布をあてがってポコポコ歩く石炭運搬の馬運車(これもアルバムに写真が残っている)を学内外でよく見かけました。馬術部の馬が外乗かなにかの折、この馬運車に追いかけられたことがあります。作業中に突然その気になったようで、乗っていた部員は挟まれたら大変と必死で逃げたそうです。

北海道のサラリーマンだけ石炭手当てをもらっていた時代です。民家の暖房は石炭とかコークスが多く、学生の小部屋用に「ブルーフレーム」とか「パーフェクション」とか名前もなつかしいですが石油ストーブが普及し始めていました。煙は出る、炭ガラは舞うでワイシャツの襟が一日で真っ黒になりました。春先舞い上がる馬糞とほこりがすでに公害(この言葉はなかった)として問題になっていました。

下宿は歌志内炭鉱の役員の家でしたが、こちらは現物支給。家の横に石炭小屋がありました。この家(北32条西4丁目)の北隣は牧場で、2階の自室から屋根伝いで下を通る馬に飛び乗ることが出来ました。 この下宿を世話してくれたのが当時の町村金五知事夫人です。下宿を変わる必要に迫られていて道庁の近くの知事公舎を通りかかったのですが、大きな家なのでここなら置いてくれるかと、飛び込みました。

物知らずの学生に「お役所のものなので、ここではお世話できないんですよ」と丁寧に断られ、代わりに札幌市の総務部長に紹介状を書いてくれました。後に市長になった板垣武四氏です。彼がまた「ここに行きなさい」といったところが当時札幌のはずれ(牧場があるくらいだから)北32条の知り合いだったのです。札幌雪まつりをつくり、地下鉄を開通させ、札幌オリンピックを開催、政令指定都市になりと時代を20年先取りしたと言われる名市長ですが、五輪の時に取材の合間に元下宿のご主人を訪ねたら、炭坑の知識を生かして板垣市長の下で地下鉄工事の指揮をしていました。

いま、東京の日本記者クラブで町村信孝外務大臣会見があると(すでに「前」やがて「元」になるのだろうが)すすんで出席しますが、あのとき応対していただいたご母堂のことを思い出しながら聞いています。だらしない外務官僚と違って中国や韓国に言いたいことをはっきり言う姿勢に好感を持ち、陰ながら応援しています。あの時のピンとした姿勢の母上の姿とダブります。

入学した時は60年安保の学生運動のさなかで、風当たりが強く出身の大阪では「学生のクセに」とか言われていました。北大は唐牛健太郎(かろうじ・けんたろう)という全学連委員長を出していた手前、がんばらねばならない雰囲気があり、大デモ隊を繰り出し、札幌中央警察署に突入するなどしていたのですが、学生には優しく、また学生を大事にしてくれる街でした。 恵迪寮から円山公園まで花見の部隊が「都ぞ弥生」を歌いながら練り歩く最後尾にリヤカーが引かれていたのですが、それに市民から酒やつまみがたくさんプレゼントされていました。「学生さん」とさんづけだったのは私の知る限り金沢と札幌だけでした。ちなみに唐牛委員長とは同級です。と言っても一度も会ったことがなく、向こうもフランス語を取っていたので自動的に4組にドッペってきただけなのですが。

大学の前を走る市電の終点が北27条でした。32条の下宿まで残り5条を歩くのですが、吹雪のときなど遭難するのではないかというくらいでした。猛烈な雪嵐で顔の左半分は感覚がなくなる。ホワイトアウト現象で方角が分からなくなる。そうなると、下宿まであと20メートルといえども遭難してもおかしくないほどです。

ページトップへ


合宿風景

夏の合宿の食事風景です。堀川、市川、志水、童顔の千葉(祐記)の各氏が識別できます。 炊事当番になったことがありますが、これだけの頭数に対しておかずの予算がスズメの涙。全員分の予算が 一食300円くらいだったか、肉などめったに買えなかったです。「シソ味噌」というのでしょうか、焼きミソをシソの葉でくるんで5本ほど串刺しになったのがありますが、あれが串でわけられなくて、ばらして1個ずつでした。ご飯一膳を計画的に食べないとおかず不足になりました。今でも旅先でこれに出会うことがありますが、この写真の光景が切なく思い出されます。ただ素晴らしくおいしいアイスクリームと分離するぐらい濃い牛乳は何度か出ました。どういう経路で来たものか知りようもありませんが、早く食べ終わった者からあたる、といわれて、今でもその後遺症、早食いであきれられています。フランス料理だろうが中華だろうが私だけいつも食べ終わって手持ち無沙汰なのです。

合宿で食べていたのはもちろん「道米(どうまい)」です。入学してすぐママチャリで千歳までサイクリングしたとき、下宿でおにぎりを作ってくれましたが、海苔でがんじがらめに巻いてありました。ふつうの白いおにぎりだと、口に運ぶまでに分解してしまうからです。

当時は「道米」というのはパサパサで「まずい米」の代表ですが、今ではコシヒカリなどと同じくブランド米のイメージのようです。平成元年に登場した「きらら397」のおかげです。北海道立上川農業試験場で育種された「上育397号」の系統番号をもらったこの品種は、あっという間に首都圏を席捲しました。汁気の多い食材と組み合わせてもふやけないという利点で牛丼チェーンなどの外食産業は今ではほとんどこれだといいます。

北海道の農畜産物はみな素晴らしくおいしいのですが、当時の例外がこの「道米」と「牛肉」でした。自由化された現在と違い、戦後の食管法では質より量でした。評判の悪い「道米」は東北地方のブランド米と混ぜ合わせて、わざわざまずくしてまで首都圏で流通させていた時代です。下宿もクラーク会館の食堂も道内で口にするのは100%「道米」ですが、だれも文句は言いませんでした。写真の時代、部員全員、米粒一つ残さず食べていたものです。

また、牛肉がまずいのは、道内で流通していたものは、乳牛のオスをつぶした肉がほとんどだったからです。豚肉のような色をして、ミルクっぽい味がしました。家庭教師先や両親が仲人した縁で呼んでくれる札幌高裁の判事の家などで「すき焼きをご馳走する」といわれると、大変な厚意であるのが分かるだけに、断るわけにいかず、ひたすらげんなりしたものです。なにしろ、この肉と米の両方が出てくるのですから。
実際、札幌から離れても数年間すき焼きを口にしなかったほどです。

鍋の底が真っ黒なのを見ると炊事は薪を燃やしてたのでしょうか。ガス、電気などあるわけもなく、文字通りキャンプファイアーの毎日です。 合宿の予定表が残っています。

午前4時30分   起床。マラソン。
  5時 手入れ。他のものは厩舎清掃。
  5時30分 乗馬。
  7時30分 練習終了。
  8時 朝食。
  9時 作業開始。パドック修理など。
 12時 昼食。
  1時 作業。寝ワラ運びなど。
  3時 手入れ。
  3時30分 乗馬。
  5時30分 練習終了。
  6時 フライ。
  8時 青草投与。
  9時 消灯。

ページトップへ


下はほとんど同じ場所からみた馬術部の活動舞台です。広いように見えますが2つ目の窓の部室と遠くの左に見える馬房くらいで、あとは農場のものです。サイロはすでに使われなくなっていて燕麦(えんばく)とか塩とか雑多な用具の倉庫でしたね。

サイロ

バックにポプラ並木が見えます。そのほか小屋が写っていますが何に使われていたか記憶にありません。特別な思い出がある方があれば教えてください。

馬橇

馬橇の手綱を取る市川君です。さっそうとしていますが、違って、この直前、朝清に引かせて皆で馬糞運びをしていたのですが、例によって朝清が突然引っ掛けて第2農場の方へ遁走したのです。手綱を持っていた責任上、はるばる追いかけ、どうにか落ち着かせて、馬房の方に戻ってきたところです。照れくさそうなのはそのためですが、朝清はどこに逃げても「自宅」には喜んで戻ってくる馬でした。

一応、中半血の騸馬(せんば)。北大日高牧場の産で、札幌に来てからは農場で農耕馬として使われていた馬ですが、どういうわけか障碍飛越を得意とし、進んで飛ぶのでいつか乗馬用に出世した経歴の持ち主。ところが気分が乗らないと、鞍の上に人を乗せたまま青草食べに遠征したり、途中で馬房に逃げ帰ったり、エピソードは数え切れないほどあります。背中が広く、乗ると、股裂きの刑を受けているような感じでした。

練習中意地悪な先輩が「あぶみ上げ」の号令を出すと朝清と北嶺に当たった部員は大変でした。 反撞がきつく乗っているのがむずかしい。落馬するのはたいていどちらかの馬に当たった部員でした。東京OB会の大場善明先輩のメールアドレスが「hokureigo@・・」とあるのを見て、ああそうだった、今も思い入れがある馬なんだと思ったことでした。

ページトップへ

ポプラ

これまた懐かしい場所です。ポプラ並木をまっすぐ行った左手にある第二農場の牧草地です。 ポプラが何本あったのか、こんなに大きかったかすべて忘却の彼方ですが、ここの牧草を刈り取ったものが我が馬術部の干草で、1番草から3番草くらいまで何度か収穫できました。7帝戦などの打ち上げジンギスカンもここでした。前夜当番が、なれぬ手つきで、あの汚い部室のテーブルの上で解体した羊を食べるのですが、固い肉でした。後年、馬事公苑で東京OB会の花見がよく開かれましたが、義宮(現在の常陸宮 )の侍従とか宮内庁の掌典長とかされていた東園基文会長(当時)の顔で宮内庁御料牧場から来るマトンを食べたとき、そのあまりの落差に驚いたものです。我が家の娘たちは東園夫人に取り分けていただくなどしてましたが、明治天皇のお孫さんで皇太子妃選びなどで出てくる学習院の常盤会(皇族や華族の同窓会)会長だとはついぞ知らなかったでしょう。


馬術部とは関係ありませんがこのころの「札幌雪まつり」のメイン会場です。「第13回」とあります。いま何十回をかぞえるのか知りませんが、パルテノン神殿とギリシャ彫刻が見えるもののスケールの大きさが違います。でもまつりの原点がまだあります。市民参加が多くてこのとき私も「クラーク像」を彫った覚えがあるのです。クラスで出たのか馬術部有志だったのか判然としませんが今なら一等地、拓銀の近くで展示されていました。

雪祭り

ページトップへ

 

若き乗馬姿

恥ずかしいのでやめようと思いましたが、今回この原稿のためにアルバムを広げて一番の収穫でした。2005年1月出産した長女や次女、家内まで「始めてみた。こんなにスマートだったのね」と面目を施した写真です。これまたポプラ並木ですが、なにかにつけここが中心でした。 馬に乗らなくなって20年以上たちます。馬事公苑でいつも開かれていた花見とジンギスカンの前に千葉幹夫先輩が苑長だったのでそのお世話で乗馬会が開かれました。花見時で苑内にはたくさんの花見客がいました。私が乗ろうとしたら「ウッソー」と声が上がりました。こんな大きく重い男が乗るなんて馬がかわいそうだというブーイングです。私が断念したのはそのときからです。

昨年テネシーに行きました。馬産地だけに案内してくれた牧場主の老婦人のお宅には彼女がパッサージュをしている大きな写真が飾られていました。「部員をみな連れてきなさい。トレッキングでも馬術でも必要な頭数をそろえてウチに泊めてあげる」と言ってくれ、2006年また来日した時も「待ってるわよ」と言ってくれたものの、ではお言葉に甘えて、とすぐ行動に移せないところがつらいです。隣の牧場のご主人はジャパンカップに自分の馬を出場させたと自慢していました。

馬具屋で現役諸君にプレゼントしたいと思うものがいろいろありました。けれど買い求めたのは日本では手に入らない太鼓腹用の長いベルトでした。私のでベルト売り場の真ん中くらい。まだまだ上があるから大丈夫だとつい本音を吐いてしまい家内にひんしゅくをかいました。とはいうものの、すばらしい「乗馬教本」を買いましたので後ほど差し上げます。

ページトップへ


卒業記念街乗

これは卒業記念の外乗だと思います。出発前に講堂に勢ぞろいしたところです。8頭いますから当時の部には自馬がこれだけいたのです。真駒内のほうに出かけ、病院にいた市川君を見舞ったように記憶していますが定かではありません。

ちなみに、私たち38年卒業組が在学した4年の間にお世話になった馬は10頭です。

「北春」 (旧林城、中半血。メス。鹿毛)。北大日高牧場産。
「北斗」 (中半血。オス?。鹿毛)
「北楊」  
「北翠」 (メス。栗毛。流星四白。北海道豊平町産。
「北嶺」 (中半血。メス。栗毛。流星)。北海道大樹町産。
「朝清」 (中半血。オス?。栗毛。流星)。北大日高牧場産。
「北楡」 (アノ系。メス。栗毛)浦河産。蹴りクセ、噛みくせ。
「北涼」 (旧第2グレース。中半血。メス。栗毛)北海道河東郡産。
「北翔」  
「北飄」 亡くなった北慓にちなんで名づけられた。

欠けている部分は大場善明氏の作成になる「優駿たちの蹄跡」(北大馬術部繋養馬一覧)でおぎなってください。

ページトップへ


さて、最後はこれを書かないで置くと叱られるであろう「王決優勝」の話。他のところで誰かが書いているでしょうから詳細はそちらに任せてここは裏話などを。 優勝したのは昭和37年12月15日ですが、アルバムには「感涙」とか「感激」とかの書き込みが見えます。凱旋の札幌駅頭には犬の骸骨を杖に刺した北大応援団が出迎え寮歌の嵐。駅前でストームが続きました。市川君と私が駅で記念写真とっているので、療養中だった彼と選手でない私が出迎えに行ったのでしょう。このあと雪印パーラーで歓迎会が開かれました。

読売37/12/19

新聞には19日に掲載されました。読売新聞社会部には生田勝一先輩がいました。私ものちに違う新聞社の社会部にいたので分かりますが社会ダネとしては絶好の話です。知ってれば書いたでしょうが他社は優勝の内側まで取材していなかったのでしょう。写真を見ると市川君のベッド脇にみな集まっているというか集められていますが、40年たった今も付き合っている連中です。 余計なことですが、写真の製版技術と活字の小さいこと、字が詰まっていることに時代を感じます。

このあと、優勝旗を先頭に狸小路にある「竹内呉服店」(今もありますが)とグランドホテル近くの「三楽酒造(現在はメルシャン)札幌支店」に挨拶に押しかけています。どちらにも親戚がいて馬術部に「大枚5万円」(当時は大変な額)をもらっていたのです。 三楽の直営店みたいなススキノの飲み屋「三鈴」のお母さんと娘さんたちには馬術部の前後2,3年の部員は大変お世話になりました。お金がなくても開店前から押しかけ、カレーライスなどごちそうになってました。出世払いということでしたがいまだに出世せず、申し訳のないことです。馬術部員と結婚しないかなあと考えていたヨウコ(葉子だっけか)ちゃんは北大理学部の助手と結婚したと聞くが元気なら65歳!。

こちらが馬齢を重ねたことにただただ驚くばかりだが、今回アルバムを開いてみて、ポプラ並木そばの我が青春がついこの間のようにも思えるのです。
(2005年1月27日記)

 

ページトップへ


追記:

上の原稿は「馬術部75周年誌」用に2005年1月に書いたものですが、記念誌の制作が遅れているようなので一足先にウェブに掲載しました。この機会に一部加筆、また関連項目へのリンクなども行いました。2年の間に、写真に写っている部員が3人も鬼籍に入りました。残された者として彼らのことに触れないで通り過ぎることはできないので、いささかの紙面を拝借して報告とします。

最初に、訂正がてら大場善明先輩のメールを紹介します。

「ポプラ並木のそばに北大馬術部があったころ」を読み返して、馬術部の春夏秋冬、24時間を思い浮かべました。貴兄が選択したモノクロ写真の何枚かは、私のレオタックス・シャッターに触れたあの感触がまだ残っているような・・・思いでした。

当時の記憶をたどりながら、貴兄の「写真」順に思い出すことを書きとめてみます。

①冒頭の「ポプラ並木の荷馬車」写真:
この風景は私もはっきりと覚えています。たぶん「S36年 夏合宿」でしょう。(S37年は、私が卒業してましたから)。ただ手綱を取った馬は、朝清号でなく、荷馬車・農耕専用挽馬「八海号」ではなかったかと。 「朝清」は荷馬車が不得手で、危険を 伴うので禁止されてたと思うのと、朝清の顔つきは、もっと鼻梁が太く、鼻先がまん丸だった印象があります。

②「荷馬車の近くに古木の切り株と幼木を植林」:
まさに観察の通り、S34年の台風で並木のポプラが4~5本倒壊。翌S35年に林学科の学生実習で植林するのを、「馬術部員」として私も苗木を植える手伝いをした記憶があります。

③「並木は、防風林としては南北にあり」:
植林の「方角」としてはおかしいかも知れないけれど、記録としては、やはり「防風林」植樹演習が目的だったようです。なぜ季節風を考慮した「東西」でなかったのか。それは農場畑の真ん中に位置し、「東西」に植林しては「北側」の作物が大きく日陰となり、成育に影響あるからと私は推測してます。

④「自馬がいる馬房」写真:
画面奥に見える山は、寮歌にもある「藻岩山」です。大倉シャンツェはもっと右側で、写真にある「馬術部厩舎」の陰になっているあたり。白く見えるところは、俗にいう「藻岩・北斜面」と言って、スキー中級~上級者向けのゲレンデ。一度だけせがまれて原重一君と駆け下りたことがある。なかなかスリルがありました。見えている「藻岩山」の反対側(南側)は、貴兄たちも出掛けた「藻岩山市民スキー場」のはずです。

⑤「バックにポプラ並木が見える部室風景」写真:
「サイロ」は馬術部の馬具庫だった。競技会の旗ざおなどが収納されていた。屋根の上に牧草の醗酵を防ぐ換気塔が見えるのは「牛舎」。ここのコンクリ床には牛を繋ぐスタンチョンが残っていたが、牛はあまり見かけたことがなかった。右半分は、鶏舎、ロバ、ラバ、羊などの実験用家畜に使われていたと思う。ニワトリを絞めた奴が居たそうだが、現場はこのあたりか?(注:この件に関しては宮崎健、清水洋の両名がこのサイトで自供ずみです)

隣は「農耕馬用の厩舎」で農耕使役馬以外に、いつも並木を抜けて第二放牧場に駆け出す鳥海、幸運、蒙古馬などの寝床になっていた。一番奥に入り口が見えるところは「ボロ捨て場」(いつも馬房掃除で出るボロを載せ、大八車が重かったこと)電柱の向こう側の小屋全景が、「北大馬術部厩舎」。馬房は全部で「10室」あった。

⑥「馬橇の手綱を取る市川君」写真:
市川君が足を踏ん張っている「橇」は、ボロを堆肥場まで運ぶ「作業用の橇」。懐かしいね。

⑦「第13回札幌雪まつり」写真:
今年2007年が「第58回」だそうだから、「45年前」になる。1963年、S38年2月のことか。「一等地の拓銀の近く」をもっと正確に言えば「拓銀本店」のそば。この拓銀もバブルの負債をもろに受けて倒産。北洋銀行に吸収され、ここにあった「本店ビル」も昨年、2006年夏に解体されたという。私たちの学生時代が「拓銀」の絶頂期。当時の学友たちが「拓銀マン」に就職できて胸をそり返したものだ。そういえばポンちゃん(岡田 征至君=昭和38年卒)は拓銀マンだった。 

◇ ◇ ◇

我々が最初に訃報に接したのは堀川芳男君でした。上の合宿風景の写真、また市川主将を見舞う読売新聞の記事でともに左端の最前列に写っています。平成17年1月の東京OB会の新年会直前でした。夫人から、「平成16年12月25日亡くなった」旨の連絡を頂き仰天しました。

その年の秋、私がいる八ケ岳の山墅にひょっこりやってきました。彼のお姉さん夫婦が2キロほど下の牧場のそばに教員仲間で建てた山荘があり、彼が自由に使っていたので、よく夫婦でやってきました。すぐ上の八ケ岳の主峰・赤岳や横岳に登るのに、我が家のカーポートにクルマを置いて気軽に登っていたのですが、このときもそうでした。

愛用のセルシオのトランクには常時登山靴とスキー用具が詰め込まれ、思い立ったらすぐというのが彼の流儀です。しかしこの時来客がありました。全日空の元役員だったのですがやけに話がはずみました。長らく東京OB会の会長をされていた東園基文さんの息子さん、基宏氏は学習院大学の馬術部OBですが、よく親子で馬事公苑の観桜会に見えていて我々とは旧知の間柄でしたし、私はその後も全日空常務や全日空商事の社長をされているとき仕事で付き合いもありました。

その基宏氏がこの方の部下だったとわかると、堀川君は俄然ひざを乗り出しとうとう山登りをあきらめて我が山墅に泊り込み夜遅くまで飲みながら話し込みました。翌朝、日当たりをさえぎるカラマツの大木を切ろうとしていたところ「一宿一飯の仁義だ」とチェーンソーで手伝ってくれました。今も残る切り株を見ては偲んでいます。

私の娘が東京乗馬倶楽部で馬に乗れるように道筋を付けてくれたのも堀川君でした。N大学馬術部の裏口入学に馬が使われている、とオリンピックの馬術コーチをしている夫婦が訴えられたときは訴状を持ってきて「許せない」と報道するよう私の尻を叩きにきました。一本気なところが人に愛されて、東京ガスの神奈川支店長は私のゴルフ仲間でしたが、堀川君の会社にしか広報の仕事を回さなかったほどです。われわれが北大馬術部の同期生と分かると丸ごと北大ファンになってくれました。

大場善明先輩のメールには「とにかく驚きました。とうとう 昭和37年”学生王座”優勝メンバー、あの”Magnificent 7”が欠けたか。闘将そのものだった。恵迪寮の部屋を訪れると、堀川君が寝ている部員をたたき起こし、深夜の雪道を全員シャツ1枚で、恵迪寮から桑園の競馬場と走った」とありました。

亡くなったのはどうも雪山で遭難したらしいのですが、まだ家族に確認していないので断定はできません。その後馬術部同期生数人で東京・中野の「功運寺」に墓参しました(写真はここに)。戒名が「駒岳・・・」で始まるのと、クルマに登山道具一式を積んでいたことから、彼らしいとは思っています。

その次は八木正巳君でした。馬運車の写真で後ろの方で首を突き出して写っています。平成17年(2005)8月3日出先から札幌に戻る途中交通事故死しました。新聞記事では交通事故になっていますが運転中に持病が悪化したのではないかと聞きました。

上の原稿で、合宿の後遺症に悩まされたとき、ある部員が買ってきた「なんとかチンキ」を筆にひたして、塗ってくれたが、その痛いこと・・・と書きましたが、実はそれが八木正巳君です。あの照れたような薄笑いがトレードマークでしたがその瞬間はマゾの気があるのではと思えたものです。多賀子夫人は馬術部OGです。知る限り、お二人が馬術部内結婚のはしりですが、まあこんな下世話な話、夫人もはじめて聞くと思います。

瀧澤南海雄君もご家族からのメールで知りました。「平成18年(2006)9月14日午後7時45分、瀧澤南海雄は急性間質性肺炎のため64歳の短い人生を閉じました。平成15年3月に北海道立林産試験場を定年退職し、その春より鍼灸師資格取得のため3年間札幌での学生生活を過 ごしました。この5月、旭川で開業の運びとなり、これから第2の人生というところで病魔に襲われてしまいました。こじらせた風邪が回復せず7月3日に旭川厚生病院を受診したところ、間質性肺炎の疑いと診断され、6日に入院。 本人は病状を把握しないまま最期を迎えたと感じております」。由利夫人と二人の息子さんの名前でした。

八木君も写っている最初の馬運車の写真で、馬の耳の間から顔を見せているのが瀧澤南海雄君ですが、私にとってはキノコの師匠でした。自分のホームページで我が山墅の周りに生えるキノコに毒があるかどうか悪戦苦闘しているとき、横田肇君(昭和40年卒)がたまたまサイトを覗いて、その惨状に同情して身近なキノコ博士を紹介してくれたのです。

「私は就職先でキノコの栽培と品種改良を担当していた関係で、全くの素人より、キノコに出会う機会が多かっただけですが、できるだけ先輩のお手伝いします。食べられるものを憶えるより、毒キノコは数がしれているのでこちらを憶える方が早いのです」と教えられ、なるほどと、以後出合ったキノコの下書きを送っては添削していただきました。彼がチェックしたキノコの話はここにあります。

m01_01

そのうち撮影した白鳥の写真つきのメールなどが送られてくるようになりました。それには「びっくりしたのは、私が作曲した『馬術部賛歌』を、後輩たちが全く似ても似つかぬメロディーで歌ったことです。40年の歳月の中で、とてつもなく変形してしまったのですね。楽譜と言うものがあるのに、誰も読まなかった訳で、お前らは物事の真理を検討するのに、文献を当たらないのか、と意見をしてしまいました」とありました。

大場さんからのメールに作曲のエピソードが書かれています。「瀧澤君は本当に多才な男でした。生前ご本人から伺ったら、作詞の三浦清一郎君から依頼され、二つ返事でOK。数日後、どちらが好きか、(A)、(B)から選んで、と洋楽風、和楽風二つのメロディーを差し出したら、三浦君が”どちらも素晴らしい。両方いただく”といったので二つのメロディーを押し込んだのがあの曲だそうです」。

(おわり)

ページトップへ  パドックトップへ