クラーク先生と馬術部、そして Boys, be Ambitious

大場 善明(昭和37年卒)

「B.B.A」は、クラーク先生が帰国に際し、島松駅逓まで見送りに集まった札幌農学校一期生や教職員に、馬上から別離の言葉として呼びかけた遺訓として、世界中で記憶されている「言葉」です。それは明治10年(1877)4月16日のことでした。

その訓示の光景が「レリーフ」(梁川剛一作)として北大サークル会館にも飾られています。馬術部の部史沿革では、「北大馬術部の誕生」を大正13年(1924)10月「北海道帝国大学乗馬会創立委員会」としていますが、それよりもはるか以前、40~50年も前から北大生と「馬」とのかかわりを示した歴史的な出来事であったことに気がつきます。

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サークル会館 レリーフ

当時の札幌農学校には、サークルとして、学習文化活動団体「学芸会」と体育会系団体「遊戯会」があったとされている。最高学府を目指した教育機関にしては、現在の感覚では実に微笑ましい名称に思われます。このサークル会館の「クラーク先生との別離」レリーフを眺めていると、札幌農学校にもすでに「騎乗遊戯班」、あるいは「乗馬遊戯隊」が存在していたのではと思うのです。帝大乗馬会創立委員会よりも「48年前」に遡ります。クラーク先生が札幌農学校開校時、マサチュセッツから教頭として招かれたころには、札幌の琴似村には開拓使「屯田兵」の宿舎もあり、東本願寺大谷派の「奉仕隊」が市内の道路整備、開墾にも従事したという。当時北国の交通機関として「馬」が最も重要な意味を持ち、特に冬季、雪の中での生活手段には不可欠だったことは明らかです。そんな時代の明治政府が国策として近代農業開発のため馬事思想を取り入れ、「札幌農学校」に正課として「乗馬実習」の記録があり、北大の文化遺産「モデルバーン」もその証しとして保存されている。

したがって札幌農学校にも“馬術部”があったとしてもおかしくないし、時にはクラーク先生自ら“馬術部長”の授業をされたのかも知れない、と私は思っているのだが。

クラーク先生は、厳冬の雪解けを待ち春爛漫の中での訣別を期待して、「4月16日」を帰国の日に選んだものと思われます。島松までの路傍には水芭蕉が咲き乱れ、鈴蘭もその香りの準備を始めていると想像したかも知れません。この別離の日の情景を「北大歴史散歩」(岩沢健蔵著)では次のように述べています。

「その日「4月16日」は月曜日だったが、一期生たちは事前に調所(ずしょ)校長に全員で見送りの許可を求め、学校は全校休業となっていた。クラークは八ヶ月の札幌農学校での勤務を終え、札幌創成川畔の開拓使旧本陣前(註:現在の大通公園「テレビ塔」北側付近?)に全員が騎馬姿で勢揃いし「記念写真」(註:「アメリカに帰ったクラーク博士のその後」に、その写真が収録)を撮った。札幌から千歳、室蘭、七重を経て、数日後に函館から長崎行きの船に乗る予定となっていた。山肌を削った切り通しを抜け樹林の間を縫い、ゆるやかな上り下りをくり返した。クラークと彼を見送る札幌農学校一期生たちの騎馬集団には野外騎乗の華やかさもなく、黙々と千歳へ向かっていた。この日の気象台記録を調べて見ると札幌の最高気温は8.9度のまだ寒い日だった。みな黒い重いマントを着用しそれが馬上の風にはためいた。雪まじりの泥濘が彼らのマントの裾や馬の背に飛び散る。馬たちの多くは農耕馬の寄せ集めと思われ、足並みも乱れがちだった。」

クラークと同時に札幌農学校へ着任し、クラーク帰国後は後任として教頭代理となったウイリアム・ホイラー教授もこの見送りの騎馬集団に加わっていた。後にその様子を母宛の書簡の中で、「その日、彼らの乗っていた馬は札幌の卑しい血統の馬だった」と書き送っている。この島松までの騎乗に集まった馬は、専用の乗馬ばかりでなく、たぶん農耕作業にも従事した大人しい北海道在来種「和種」(どさんこ)も含まれていたのだろう(註:前項「アメリカに帰ったクラーク博士のその後」の写真参照。サークル会館の梁川剛一「レリーフ」では「どさんこ」の耳にしてはやや大きめだが、どれも精悍で立派な馬に描かれている)。

札幌を出発して約二時間で、島松宿の駅逓「中山久蔵」方(現在は近くに「クラーク奨学記念碑」が建っている)に到着した。一同は各々持参の弁当を開いた後、クラークは近くの林野を散策しながら学生たちに「最後の野外授業」を行ったとされている。

そして訣別のとき、かの有名な金言 “Boys, be Ambitious” を馬上から発し、随行者として堀誠太郎(予科数学教官兼訳官)を伴い馬に一鞭、雪を蹴散らして街道を走り去ったという。このとき見送った農学校の一期生、大島正健(音韻学、言語学者、同志社大などの教授を歴任)は、後日その光景を「懐クラーク先生」と題する七言絶句で表した。

   青年奮起立功名  馬上遺言籠熱誠
   別路春寒島松駅  一鞭直蹴雪泥行

後世この句からの情景を引用して、昭和8年の文部省「小学国語読本」、戦後の昭和22年「国定国語教科書」に取り上げられたり、昭和39年3月16日付け朝日新聞の「天声人語」の記事でも紹介され、昭和55年開隆堂「ニュー・プリンス」英語教科書にも採用されて日本人の常識として広まったものと考えられている。

それではクラーク先生が、馬上から発した正確な文章全文はどのようであったのか。クラーク自身の日誌、書簡からは記録されたものは見つかっていない。クラーク帰国の17年後に、予科生安東幾三郎が大島正健の講演から「ウヰリヤム、クラーク」の一文を学芸会機関誌「恵林」(M27.11.20)に寄稿し、クラークの遺訓を次のように書きとめている。

Boys, be ambitious like this old man.

これが原典となり北海道大学の正史として「北大百年史」にも採用されたという。

また1915年(大正4年)のサンフランシスコ万博のために用意された英文の「北大略史」(大正3.12.1東北帝国大学農科大学編纂)に、クラークの遺訓が紹介されている。

“Boys, be ambitious!”  It has become proverbial in the school.
“Boys, be ambitious!” Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement, nor for that evanescent thing which men call fame. Be ambitious for knowledge,for righteousnness, and for the uplift of your people. Be ambitious for the attainment of all that a man ought to be. This was the message of William Smith Clark.

この文章の執筆者は、ジョージ・ローランド(予科英語教師で宣教師)とされている。後世のクラーク関連書物でも、これをクラークの言葉とされている場合が多いようだ。

戦後の英語教科書、開隆堂「ニュー・プリンス」(昭和55年)には「Then he mounnted his horse,turned them,and shouted,”Boys,be ambitious!”」など、いずれも後世の人が記したものでクラーク自身の残した記述ではない。直接クラークの言葉として文献にある中では、農学校開校式の「 lofty ambitions 」とか、校則制定議論の席上、細かな規則よりも「Be genntleman ! 」の一語に尽きると主張したという。そのような日頃のクラーク思想行動からも、別離での遺訓は、安東幾三郎「恵林」や大島正健「クラーク先生とその弟子」(昭和12年、子息の正満に口述筆記)などの著述にある「 Boys, be ambitious like this old man. 」がその全文とされている。最近、別離の瞬間にクラーク自ら発した言葉としては長過ぎるのではないか、あるいは50歳を少し過ぎたばかりの自分を old manと考えていたかとの疑義もあるようだ。また現在も学長室に残されている新渡戸稲造の揮毫(昭和4年)にも「Boys, Be ambitious.」とだけあり、「like this old man」(このおれのように)の語は含まれていない。以後学内でもクラークの訓言は、「BBA」の三文字で一般的に記憶されたのではないかといわれている。

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北大構内クラーク像
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島松クラーク奨学碑
 

「開学五十周年記念」(大正15年5月)に北大中央ローンを背に建設された初代の「クラーク胸像」は、原像が彫刻家「田嶼碩郎(たじませきろう)」の作。しかし、この最初に建立設置された「初代胸像」の銅像は、戦時中の「戦時物資供出令」で消失したという。現在はその「原像」のみが保存されているとも聞く。現在の中央ローンの胸像は「2代目」で、戦後昭和23年10月の再建で、彫刻家「加藤顕清」の作とのこと。

また、島松の「クラーク奨学碑」に飾られた「クラークの横顔像」は彫刻家「山内壮夫」の作。昭和25年12月に竣工し、除幕式は雪解けを待って昭和26年4月に執り行われた。 北大中央ローンの「クラーク胸像」、島松の「クラーク奨学碑」いずれの像にも台座には、「BOYS BE AMBITIOUS」の三文字のみが刻まれている。
(2006年9月18日記)

 

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