東園基文氏を偲んで

東園基文氏

東園基文(ひがしその・もとふみ)氏は平成19年4月12日午前2時45分、肺炎のため96歳で亡くなられた。葬儀は神社本庁と東園家の合同葬として5月18日(金)午後1時から東京・青山葬儀所で行われた。

神社本庁から発表された経歴をみると、改めて「竹の園生」の内側で過ごされた方という印象が強い。しかし、 北大馬術部OBにとっては、あのえもいわれぬノーブルな笑顔と、ご家族一体となって馬術部OBとその家族にジンギスカンや飲み物の心配りをされていたこまやかな優しさが忘れられない。

神社本庁の発表文では「昭和9年北海道帝国大学農学部卒、同12年1月東宮傅育(ふいく)官」ではじまるが、昭和7 年度の北大馬術部主将。このころは創部間もないころでまだ誕生して2人目の主将だが、すでに全国大会で大活躍して いる様子は馬術部ホームページの「沿革」や「成績・戦績」のコーナーを開いてもらえば随所に「東園基文」の名前が見つ かるはずだ。

旧姓は「伊達」。明治44年1月28日、伊達政宗の血を引く伊達邦宗伯爵(旧仙台藩主)の三男として生まれ、のち富山県知事、貴族院議員などを務めた東園基光子爵の相続人となった。

東宮傅育官になった年には陸軍騎兵少尉に任じられているから馬術部での生活が役立ったと思われる。 15年には皇后宮事務官になり貞明(ていめい)皇后(大正天皇の皇后)に仕えた。 宮中の祭祀を厳格に守ったことで知られる方だ。

佐和子夫人は旧宮家の北白川家から降嫁された。北白川宮成久王の第二王女で明治天皇の孫にあたる。3男2女に恵まれた。

人見絹枝は昭和3年(1928年)のアムステルダムオリンピックに19歳で女子でただ一人参加、予選8位だったものの、奮起して決勝でドイツ選手との大接戦の末、僅差で銀メダルを取り日本人女性初のオリンピックメダリストになった。

これより、2年前の8月には第2回国際女子競技大会(イェーテボリ)に出場、走り幅跳びで世界記録で優勝、立ち幅跳びでも優勝、円盤投げで2位、100ヤード走3位、60メートル走、250メートル走で6位という鉄人的活躍をしている。帰国後皇族に招かれたときの様子を当時の新聞が「人見嬢の光栄」という見出しで報じている。

「ご参集の方々は閑院宮載仁親王殿下をはじめ同若宮妃、東伏見妃、伏見宮妃、同若宮妃、東久邇宮妃、北白川美年子女王、同佐和子女王、李王妃、徳恵妃、山階宮大妃の十一殿下。日の丸の旗がスルスルと中央の優勝マストに掲げられたのを見たとき覚えず嬉し涙にくれた心中を物語るに至り妃宮、姫宮方には特に感激に堪へられぬ御面持に拝せられ御用取扱の老女等のハンカチに涙打ち拭うのさへ見えた」(大正15年12月10日大毎社報)

この記事で「佐和子女王」とあるのが東園基文夫人。春になるとよく馬事公苑で馬術部東京OB会の観桜会が開かれたが、東園会長のご配慮で宮内庁大膳課から頂戴した大変おいしいラム肉のジンギスカンを取り分けていただいたり、子どもたちにジュースの配慮をされていたやさしい姿を思い浮かべる。皇太子妃選びの時になるとよく名前が出てくる女子学習院同窓会「常磐会」の会長をされたが2001年に亡くなられている。

東園基文氏は、終戦の時には侍従として皇太子殿下(今上天皇)のおそばにあり昭和史の断片に立ち会った。その時の様子は、戦時中は学習院軍事教官兼御用掛だった人が書き残している。

八月十五日、正午に陛下の重大放送があるというので、午前の授業が終わると、学習院の生徒は、南間ホテルの二階の廊下に集まって拝聴した(このころ奥日光の湯元に疎開中)。しかし、ガーガーと雑音がはいって、さっぱり聞きとれなかったので、先生が内容を確かめたうえで、あまり生徒を刺激しないよう婉曲に説明して聞かせた。

殿下はお立場上、別室でお聞きになられたほうがよかろうということになり、ホテルの二階の御座所に帰られ、穂積東宮大夫、石川主任傅育官、門倉、山田、東園、村井、黒木、栄木の各侍従が侍立して、一同直立して、御座所備え付けのラジオで聞かれた。このラジオは雑音もはいらず、明瞭に聞きとることができた。終戦のご放送であることがわかったとき、侍従たちの間から、嗚咽の声がもれてきた。

ラジオの前にきちんと正座して聞いておられた殿下は、急に目を閉じ、頭を深く垂れ身動きもせずじーっとお聞きになっておられたが、しっかり握りしめられた両手はかすかにふるえ、目がしらには涙があふれ光っていた。

やがて穂積東宮大夫が、殿下のそばに座り、戦争に負けて終戦となったが、日本国が滅びたのではない。日本はこの敗戦のあらゆる困難を克服して、再びその存立を確実にし、繁栄をとり戻さなければならない。この日本再建の時代に際会された殿下のご責任と、ご任務は、まことに重大である。いたずらに悲嘆にくれることなく、専心ご勉学にはげまれますよう、というようなことをお話しされた。

殿下は黙って、いちいちうなずいておられた。東園基文侍従の話によると、殿下はその日の日記に、堅いご決意のほどをしるされていたとのことである。(月刊「WiLL」06年1月号「明仁天皇の大東亜戦争/高杉善治・小池松次」から)。

戦後の22年5月「宮内府事務官兼侍従兼東宮侍従」に就任、今度は皇子傅育掛として常陸宮殿下に奉仕する。のち東園氏の米寿を祝う会が明治記念館で催された時に常陸宮ご夫妻が出席されたのはこの縁からだ。 掌典長(昭和52年6月~平成3年4月)の時には昭和から平成の代替わりに伴う大嘗祭(だいじょうさい)などの儀式にかかわった。また平成2年には秋篠宮文仁親王の結婚の儀を取り仕切った。 そのときの新聞報道にはこうある。

礼宮、紀子さま結婚の儀 皇居内で古式ゆかしく

天皇家の二男、礼宮文仁親王殿下(24)と学習院大教授川嶋辰彦氏の長女で同大大学院生、紀子さま(23)の「結婚の儀」が、29日午前10時すぎから皇居・宮中三殿の賢所(かしこどころ)で古式ゆかしく行われた。天皇家のお子さまのご結婚は常陸宮さま以来26年ぶり。式後、礼宮さまは「秋篠宮(あきしののみや)」の宮号を贈られ、新宮家を創立された。秋篠宮家の誕生で、八宮家となる。

「結婚の儀」には賢所の左右の幄舎(あくしゃ)にはモーニング姿の皇太子さまや、紀宮さまはじめ皇族方、海部首相ら三権の長、それにタイのシリントン王女や川嶋家親族など154人が並んだ。垂纓(すいえい)の冠に黒の束帯姿の礼宮さまと、大垂髪(おおすべらかし)に十二単(じゅうにひとえ)をまとった紀子さまは午前10時8分、東側の回廊を渡って賢所の外陣(げじん)に入られ正座。

まず礼宮さまが手にした笏(しゃく)を顔の高さに掲げて立ち上がったあと再び座り、腰を90度に曲げて拝礼する「起拝」を2度繰り返され、桧扇(ひおうぎ)を手にした紀子さまも、それに合わせ正座のままひれ伏された。

続いて、礼宮さまがふところから墨書きの告文(こくぶん)を取り出し、「これから相むつみ、相親しみ、永遠に変わらないことをお誓い申し上げます」という趣旨のことを大和言葉で読み上げられた。それが終わると、瓶子(へいじ=とっくり)に入った神酒が、東園基文掌典長の手で礼宮さまの白素焼きの杯に注がれた。礼宮さまが飲みほされたあと、紀子さまも別の杯で神酒をほされ、そろって神前に深々と頭を下げてご結婚が成立。「結婚の儀」は11分で終了した。(1990年6月29日? 読売新聞)

東園基文氏は貞明皇后、皇太子、常陸宮、秋篠宮と実に4人の皇族のお世話をしたことになる。昭和から平成にいたる皇室の歴史に深く関わり、多くの場面で歴史の証人となった方でもあった。掌典長をつとめたあと日本全国約8万社の神社を包括し、日本最大の宗教法人といわれる神社本庁を束ねる統理(平成10年6月~13年6月。その後顧問)をつとめられた。この間、伊勢神宮崇敬会会長(平成10年~18年)も。昭和57年従三位勲二等瑞宝章受賞。

平成19年1月開かれた恒例の北大馬術部東京OB会の新年会では、全員で励ましやお礼の言葉を寄せ書きをした色紙をお届けしたばかりだった。

貴船神社

ご自分で言われることはなかったので失念していたが大変な名筆だった。たとえば、京都の貴船神社から依頼されて筆をとられたものが同神社に掛け軸として残っている。

色あせず残る紅葉をぬさとして あかき心に神をたのまむ

貞明皇后に仕えられたことは上述したが、大正13年(1924)、皇后が同神社を参拝された時詠まれたお歌だ。(※ぬさ=神に祈る時の供物、あかき心=清らかな心)

また 「北大馬術部創立四十年記念写真集」(昭和49年)には、第六代馬術部長、半澤道郎先生の退官にあたり巻頭に褒め称える一文を寄せられている。いずれを拝見しても人柄を写して流麗、闊達。
今となって心残りなのは「北海道大学馬術部」の揮毫をいただいておけばよかったということだ。

写真集
 

◇ ◇ ◇

5月18日、東京・青山葬儀所での葬儀にはかつて侍従をされた常陸宮ご夫妻はじめ、島津久永氏ご夫妻(昭和天皇の第五皇女、貴子さんご夫妻)などの皇室関係者も出席され、1500人以上になった参列者は臨時テントでも納まりきれず斎場を半周するほどあふれ、生前の幅広い活躍をしのばせるものだった。

 


葬儀は神道で執り行われ、祭壇には両陛下からの御下賜品、各宮家からの供花、勲記が並んだ。

神社本庁や宮内庁を代表しての弔辞では、誰もが「北海道帝国大学農学部に学ばれ、北大馬術部では第三回全日本学生馬術選手権に優勝された文武両道の偉業」の文言が異口同音に入っていたのが印象的だった。


 

馬術部からは「北海道大学馬術部」「北海道大学馬術部後援会」「北海道大学馬術部東京OB会」の3つの供花を捧げた。東園家ご長男で喪主の基政氏のお計らいで、参列者席前部に席を用意していただき、樋口正明・東京OB会会長が馬術部を代表して玉串を捧げた。なお、東京OB会からは樋口会長のほか、吉見一郎(S11)、千田哲生(S31)、大場善明(S37)、宮崎健(S38)、八木澤守正(S41)諸氏が参列した。




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