追悼 大場善明先輩 

北海道大学馬術部後援会会長 市川瑞彦

大場さんの突然の訃報に接し大変驚きましたが、それと同時に、このところやや疎遠であったことが悔やまれました。調べてみると、2022年2月14日付けのメールが最後のやりとりとなりましたが、そこには1日で「1メートル33センチ」も積もった「札幌豪雪」について述べられ、豪雪で札幌の小学校が全部休みになった小学校時代の想い出が記されていました。それに加えて、“このところ情報収集能力も一段と衰え「馬術部」情報も少なく、すっかり身の回りに疎くなってしまいました”と弱気な記述があり気になりました。

それに先立つメールでは8月にヘルニア手術で入院し、「コロナ感染下で多くの事前検査が必要でした」との記述があったので、いまになって思えば、この時の検査結果で新たな病気が見つかり、それが致命的になった可能性もあるのではと推測しています。

現役時代の大場さん

我々同期が入部したとき大場さんは3年生の主将で、初歩から指導を受けたという関係でした。私にとって大場さんは、それ以来の「頭の上がらない人」で、そう公言もしてきました。「頭の上がらない」というのは、先輩―後輩の関係のみによるわけではなく、後で具体的に述べるように、彼の北大馬術部や馬術に対する献身に対してであり、それを支える広い情報収集力、綿密な計画力、着実な実行力に対してでした。

大場さんといえば、馬は「北嶺」でしょう。ところが、北嶺は乗りやすい馬ではなかったと思います。き甲が高く、背は凹んだ体型で後肢が発達しており、反撞が大きく、その歩く様はマリリン・モンローを彷彿させるところから「モンローウォーク」と言われました。

その故に、夏の合宿の時鐙上げ練習で軽速歩をさせられたときに、最も多くの部員を落馬させた馬ではないかと思います。また、機嫌が悪いとき、疲れているとき、特に発情期には、反抗されると首の力も強く厄介でした。6段飛越競技のスタート時には馬もわかっているので、行く気になって逸って立ち上がらんばかりになります。そんな時、ハミを外さず、なおかつ馬の緊張を持続させてハミを受け、行きたがる馬とスタートのタイミングを合わせるのが難しかった記憶があります。

北嶺は、北大馬術部繋養の自馬での中でもっとも輝かしい戦績を残した馬と言ってもいい名馬で、すでに大久保(S31)、宮沢(S32)、樋口(S34)、生田(S34)、山本(S34)といった諸先輩方が全日本馬術大会または国体で入賞されていましたが、優勝の栄誉には恵まれていませんでした。

この課題は、昭和34年前主将森本悌次さんが6段飛越で170cmを完飛して念願の国体優勝を果たし、ブレイクスルーされました。しかし、もう一つの課題が残っていました。それは中障害での優勝(入賞)がないことでした(それまでの6回の国体・全日本の入賞の中で、大久保(S31)さんの大障害を除いてすべて6段飛越での入賞)。これには北嶺の体型も関係するのでしょうか、高さの障害は行く気があれば能力を発揮しましたが、幅障害はどうも苦手だったことが関係しているように思われました。

大場善明氏

昭和34年7月20日
東北・北海道学生大会

そこで、大場さんは「中障害優勝」を目指すという目標を明確に設定し、その目標に向かって、ハミの試行錯誤、苦手な右内方姿勢の改善、幅障害飛越に必要な推進など、中障害での優勝を目指して緻密な計画を立て、調教・練習をおこない、遂に昭和35年熊本国体で念願の「中障害優勝」を達成されたのです(この間のいきさつについては、「北大馬術部30年史」の「国体自馬中障に優勝するまで ―北嶺号と共に―」に詳述されています)。

私には、短めの鐙で、前傾姿勢で、鞭をもった大場さんの騎乗姿、飛越時に顔をやや左に傾ける飛越姿勢が目に浮かんできます。なお、この国体期間中に民泊した先が学校の校長先生のお宅で、そこの娘さんが後の奥様であるのはよく知られていますが、この辺のいきさつを直接詳しくお聞きする機会は永久に失われてしまいました。

大場さんに引率されて我々1年目部員がニセコに山スキーに行ったのも、オフシーズンの懐かしいイベントでした。泊ったのはニセコ中腹にある五色温泉の向かいにあった「国鉄山の家」(国鉄はいまのJR)で、これは大場さんと「札鉄馬術部」とのコネで泊まれたのだと思います。大場さんは北海道の乗馬界の皆さんからも「大場君、大場君」と言われてかわいがられており、そのご利益だと思います。1泊して次の日に北斜面を標高300メートルぐらい深雪を滑り降りたりした後、頂上を超えてニセコ比羅夫(いまのグランヒラフ)に降りたと記憶しています。このツアーにはアクシデントもありましたが、私よりほかの人が書くのが適当かと思いますので、ここでは触れません。

個人的な想い出としては、日高の付属牧場に純血アラブの「水堂」(のちの北翔)を引き取りに出かけたことも思い出されます。当時馬運車はまだそう普及していなくて、大場さんが工学部のトラックを休日に運転手さん付きで借りる手配をしていただいたと思います。トラックの荷台に木枠を組んでそれに水堂を結んで乗せ、大場さんが助手席、私が荷台に乗り帰途につきましたが、途中運転手さんが急ハンドルを切ったため、水堂が横転してしまいました。私は慌てて飛び降りましたが、なんと水堂はそのままじっとしているではないか。ゆっくり縄をほどいて馬を起こし事なきを得ました。この時に限らず、調教の様子を見に来られた半沢部長と話をしているときなどは、水堂は手綱をもたなくても30分もそのままじっとしているような馬だったのも印象的です。

定年後の大場さん

読売新聞に入社後は、交流は2度くらいの北海道支社勤務時代に多少あったと思いますが、大場さんも忙しかったせいで、あまりありませんでした。定年後の東京OB会の幹事長・会長としての活動と貢献については他の方が触れられるでしょうからここでは述べませんが、特筆したいのは活動・思いの範囲はもっと広く馬術部、後援会のことにもあまねく及んでいたことです。

時間があればカメラをもって大会を見に行き、趣味のカメラで写真をとって現役部員に提供したり、馬術の現況把握をされたりしました。また、北大馬術部のホームページは、当時OBの倉本(大谷)暢子さんの個人的な貢献で維持管理されていましたが、それを後援会として充実させていくことにも消極的な私を繰り返し説得し、今日の充実した内容になったことにも貢献されました。その他、馬術部の財政危機の折などの支援などいろいろ思い出されますが、 一つだけ「75年史」発行への貢献について少し詳しく述べたいと思います。

大場さんは現役時代に編集委員の吉田さん(S36)の後を引継いで「30年史」の編集委員を務め、完成された経験がありましたので、後続の年史が発行されないことを残念に思っていたと思います。「75年史」の編集後記の私の文章と一部重複しますが、大場さんの貢献について触れたいと思います。「30年史」発行から50年近く年史が発行されなかったのは、諸般の事情から「されなかった」のではなく、「できなかった」というのが妥当でした。そのため、「記憶の壁」と「記録の壁」は高く厚くなり、我々OB全体はその「つけをまわされた」のです。

大場さんの平成11年度の部報記事「胡馬北風」によりますと、すでに「75年史」発行の10年前の平成11年に“ところで、2000年は北大馬術部創立70周年になる”と私が電話で言ったとある。また、斎藤善一編集委員長の「75年史」「巻頭言」によると、“平成14年頃であるが、ノーザンホースパークの審判棟で、故八木正巳氏君(市川君も同席していたと思うが)が北大馬術部も、そろそろ創立75年になるので何かの記念行事をすることを申し出てくれた。私は直ちに75年史を発行しては如何と応じた。”とあります。しかし、いずれも私の記憶にはない。もっとも、自分の記憶に対して私は信頼をおいていないので、いずれも正しいのだろう。きっと直感的にこれは大変な作業になるとわかっていたので、考えないようにしていたのかもしれない。

いま振り返って考えると、大場さんは、10年前から折に触れて「75年史」発行の促進を主張され続けてこられたことになります。そして、繋養馬、戦績、年表など注意力と根気のいる地味な仕事を自分ひとりで先進的に進められ、その具体的行動を通じて、有形無形に我々を文字通り叱咤と激励をされました。編集委員長の斎藤善一元部長は当時大きな脳腫瘍を患って施設におられましたが、「75年史」発行祝賀会には車椅子で参加され、生前に辛うじて間に合わせることができました。大場さんがいなければ、いつ出来上がったかわからなかったと言っても過言ではないでしょう。編集委員になってほしいという私たちの要請には応じてはくれませんでした。きっと「お前たちで責任をもってやれ」ということだったのでしょう。

ところで、今年は馬術部創立93年にあたり、2030年には「創立100年」を迎えます。それまで、あと7年しかないことに気づきます。年史でカバーする年数は「75年史」の45年に比べ、25年と短いとはいえ、再び「記憶の壁」と「記録の壁」は我々の前に立ちはだかるだろう。しかし、もう大場さんを当てにするわけにはいかない。

大場さんは後輩の私に、常に丁寧な言葉遣いをされ、技術的な面でもいろいろ批判はあったと思いますが、意見は述べても押し付けることはありませんでした。さきに大場さんからいただいた最後のメールに触れましたが、そのひとつ前のメールには、北大馬術部の年間の成績をすべて整理された資料とともに、問題点と改善の方法についての質問が記されていました。

また、留守中にご自宅に電話した時、大場さんの奥様と少し話をする機会がありましたが、その時に「馬(馬術部だったかも)のことになると気が違ったようになるのですから」と言われたのを印象深く思い出されます。これらを考えるとき、大場さんの貢献は、広い情報収集力、綿密な計画力、着実な実行力に裏打ちされた献身であったと思う次第です。これまでのご貢献に心から謝意を表すると共に、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

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