鎌田正人氏を悼む (2008.5.9)

北大馬術部後援会 会長 市川 瑞彦

鎌田さん

2007年9月 鹿追での
全日本エンデュランス馬術大会
で審判長を努められた時
の鎌田正人さん

鎌田正人氏(S28.29主将、元道馬連副会長、本会副会長)が、平成20年5月2日早朝、肺がんによる急性肺炎のため逝去されました。享年76歳でした。通夜は3日午後6時30分から、告別式は4日午前9時30分から、 浦河町の乗誓寺において、喪主鎌田正嗣氏(ご長男)により執り行われました。供花が50ほども並ぶ盛大な葬儀でした。


 鎌田正人氏略歴

・1951(S26)年4月 北海道大学入学、北大馬術部入部
馬術部主将として「S29札幌国体」出場
・1955(S30)年3月 農学部畜産学科卒業
・1957(S32)年4月 北大獣医学部学士入学
・1958(S33)年10月 全日本(中京)総合馬術優勝(洋考号)
・1959(S34)年3月 北大獣医学部獣医学科卒業、家業の鎌田牧場勤務
・1963(S38)年11月 全日本(山口)中障碍(甲)優勝(セントベル号)
・2000(H12)年 日本馬術連盟功労者賞受賞
 

この間 北海道乗馬連盟理事、同副会長などを歴任した。
告別式

告別式でのスナップ(H20.5.4)
北大馬術部及び後援会からの供花の前で。
左から小林(寺江)則子(S39)、
正富宏之(S30)、市川瑞彦(S38)。
 

ご本人から伺ったところによりますと、心臓に持病をおもちだったそうですが、その治療過程で昨年9月ごろ肺に影が見つかり経過観察してきたところ、病理検査でがんであることがわかり、昨年11月頃、勤医協中央病院(札幌)に入院、その後今年1月より北海道がんセンター(札幌)で抗がん剤及び放射線治療を行ってこられました。肺がんが脳、骨盤に転移し、それをガンマ線や抗がん剤で治療を続けられたとのことです。

私が鎌田さんの病気について知ったのは、4月10日道馬連理事会の席でした。12日の北大馬術部「75年史」編集委員会の後、斉藤善一前会長とお見舞いに伺いました。その時の病状は、肺炎をおこし、酸素吸入をしたが、それも収まって一週間後には退院の予定ということでした。退院は1週間ほど遅れましたが、4月27日の道馬連総会にはお見えになり最後まで参加され、翌日には退院して浦河に帰ると話されておりました。告別式でのお聞きしたところでは、浦河に戻られて勤医協浦河診療所でホスピスケアを受けられる予定のところ、退院して4日目に急性肺炎を再び発症し、帰らぬ人になってしまわれました。

1週間前に元気な姿を拝見していただけに、信じられない思いでした。告別式の席でそのことを喪主でご長男の正嗣さんにお話しますと、「最後の力をふりしぼって参加したのだと思います」と言っておられました。鎌田さんの馬術(界)に対する強い使命感が伝わってきます。思い返しますと、前年9月の道馬連の理事会の帰りにご一緒したときには、検査入院中で病院を抜け出してきた、とさりげなく言われていましたし、今年1月の理事会にも病院からのようでした。詳しく伺いたかったのですが、あまり話したくない様子で、聞けずじまいになってしまいました。ご本人の話と照合しますと、入院中にもかかわらず、道馬連の会議には出席されていたことになります。

告別式での弔辞で披露された鎌田さんの多方面にわたるご活躍の一端を、概略以下に記します。

馬術界では、道馬連の理事を長く勤められ、今年3月まで副会長の職にありました。道馬連主催など各種の馬術大会では、指定席のように馬場馬術の審判長を勤められ、参加選手に常に適切なアドバイスを与えておられ、日本馬術連盟から功労者表彰を受けておられます。また、浦河はまなす国体の折には馬術競技の運営責任者を勤められ、最近はエンデュランス競技の誘致、普及、大会運営に力を注いでおられました。他方面では、浦河町議を3期12年間、勤医協友の会会長などを勤められたほか、獣医師会でも伝染性貧血の治療法に貢献があったとのことです。趣味の囲碁は四段の腕前で、指導の他、天元戦の浦河アエルへの誘致に貢献されたそうです。これらの貢献により、「浦河文化奨励賞」を受けられたとのことです。

鎌田さん

主将時代の鎌田さん
(S28.3.28)
1回目の主将はS27秋から

鎌田さんの現役時代の戦績につきましては、私は鎌田さんの卒部と入れ替り入部しましたので、それを語るのに適当ではありません。同年代の先輩方にお任せしたいと思います。しかし、北大馬術部史上稀有の名選手であったことは、第11回全日本馬術大会(総合馬術(洋孝))での優勝、東京オリンピック候補選手、第16回全日本馬術大会(中障碍(甲)(セントベル))での優勝、を挙げただけで十分おわかりいただけるかと思います。

鎌田さんは、選手としての技量、人間的な魅力と共に、農学部畜産学科を卒業後、さらに学士入学した獣医学部も卒業された経歴から、同期及び後輩から畏敬の念をもって「御大」と呼ばれていたことはよく知られております。

鎌田さん

道大会の複合で優勝した北飄号と鎌田先輩
昭和42年9月9日
「昭和42年度 部報」より

最後に私が直接見たり、経験したりした在りし日の鎌田さんの一面を述べさせていただきます。騎手としてのすごさを思い出す一場面は、昭和42年の国体予選で頼まれて北飄に乗られたときです。当時は35歳ぐらいで、浦河で牧場経営に専念されていて、馬に乗る時間も、ましてや、北大の馬場に足を運び北飄に乗る機会はそんなになかったと思うのです。北飄は前進気勢があり、飛越能力もありましたが、興奮すると手に負えず試合で力を十分出せなかった馬でした。ですが、複合競技の障碍では北飄を大勒で押さえつけて障碍直前に手綱を少し許すという力業で優勝してしまったのです。加えて、中障碍で2位、六段飛越でも優勝され、国体選手に選出されました(これを辞退)。

もうひとつの場面は、鎌田さんにお世話いただいた北神威(ランフォーロ-ズ)が入厩してまもなく様子を見に来られたときです。当時65歳ぐらい。ランフォーロ-ズは現役競走馬時代オープン馬で、力のありそうな久しぶりに期待できる馬でした。未調教ながら、鎌田さんがまたがるとすぐ二蹄跡運動をはじめました。馬の感度もあるのでしょうが、その技量には恐れ入ってしまいました。この馬は屈腱炎もあり、また激しい気性を制御し障碍に集中させることは現役には困難と判断し、離厩となりました。

その他、私の部長時代には、鎌田さんが当時ジョイレースホースに関係されていたことから、良い馬をお世話くださいと無心したものでした。鎌田さんのお力添えで実際入厩した馬が3頭、馬房の空きがなかったりして断った馬を入れると5頭にのぼります。1頭でも立派な競技馬に調教して恩義に報いたいと考えていましたが、ついにそれが間に合わなかったことが残念であり、申し訳なく思います。また、部員への指導もいつも気にかけていただきました。時折ぶらりと朝の馬場に現れることがありました。聞けば朝早く浦河を発ってきたといいます(約180km)。その馬力・体力に驚くと共に、熱意に頭が下がる思いでした。

最近は、「速歩から常歩への移行」を教えたいと言われていました。馬術の理解にとっていまの部員に一番この点が必要と考えられていたのだと思いますが、もう質問することもできなくなってしまいました。北大馬術部・北海道馬術界にとって本当にかけがえのない人を失ってしまったことに気がつきます。いまはただ心からご冥福を祈るばかりです。



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