陸軍騎兵学校について


「二つの物語」インデックスへ

陸軍の各連隊から選抜された甲乙種の尉官級の将校学生が馬術を学ぶための実施学校として設置。通称は「騎兵学校」又は「習志野騎兵学校」と呼ばれる。

 
陸軍騎兵学校01
陸軍騎兵学校

 

 学校の沿革


  1888年(明治21年) 東京麹町(後に目黒に移営)に陸軍乗馬学校として設置。
  1898年(明治31年) 陸軍騎兵実施学校と名称を改名。
  1916年(大正5年) 習志野原(千葉県二宮町薬園台)に移転。 現在の住所では千葉県船橋市薬円台で陸上自衛隊第一空挺団駐屯地。
  1917年(大正6年) 陸軍騎兵学校と名称を改名。
  1936年(昭和11年) 校内に陸軍戦車学校(後千葉陸軍戦車学校)が発足。
    同年12月 陸軍戦車学校が千葉県千葉市穴川に移転。

昭和初年になると、近代戦での軍馬の役割が低下したのに伴い、騎兵学校では装甲車や水陸両用車、軽戦車などの試験や機甲部隊に関する教育が実施されるようになった。支那事変後は、馬術学生の募集は停止され、機甲教育機関へと移行した。

1945年(昭和20年) 本土決戦に備え兵庫県青野原に移転する計画もあったが、終戦を迎え解散 。

陸軍士官学校と同様、卒業式や終業式は天皇や皇族、陸軍首脳部が臨席して行われた。大正以降は、馬術教育が盛んに行われ、多くのオリンピック馬術競技の代表選手を世に送り出した。学校行事として行われる馬術大会には東京などから馬術部の学生や見物客が多数詰め掛けた。

「坂の上の雲」で有名になったが、日露戦争で騎兵戦を縦横に駆使して「騎兵の父」といわれた秋山好古はここの第2代校長。卒業生には蒋介石や硫黄島の戦いでは守備隊指揮官として指揮にあたり、西竹一とともに戦死した栗林忠道中将(死後、大将)などがいる。

 
陸軍騎兵学校02
これはロス五輪より前の第9回オリンピックの馬術の日本代表メンバー。
左から遊佐幸平、城戸俊三、岡田小七、吉田重友。

 

ページトップへ  「二つの物語」インデックスへ