鎌田正人氏 「馬術」を語る   
                   ―おんたい語録―

鎌田氏
鞍上の鎌田正人氏。乗馬は「北楡号」
北大ポプラ並木馬場で昭和33年10月撮影。 

鎌田正人氏は、馬仲間からは尊敬と信頼の念をこめて御大(おんたい)と呼ばれました。

平成20年5月2日、76歳で亡くなられましたが、その生涯は、馬産地北海道の乗馬振興の担い手は北大馬術部であらねばならないという、強い使命感と責任感で貫かれたものでした。
戦後の混乱期から現在の日本馬術界の隆盛をみるまで常に学生馬術を見守られ、北大の馬と人を優しく見つめてこられた方です。

北大のライバルでもある、十勝柏友会の久保田学氏(帯畜大S41卒、道馬連理事、日馬連(前)エンデュランス本部長)は、「氏はわれわれにとっての目標であり、馬の気持ちを大事にして乗ることを基本にされたすばらしい技術の持ち主でした」と、追悼されています。

早朝、浦河から約180キロの暗闇を自ら車を運転して北大馬場に通われ、馬術部の諸君の質問にも気軽に耳を傾け、指導されることも多く、その薫陶を受けた部員も数多くいることと思います。
今となっては鎌田さんの助言や、馬上の模範演技、肌から伝わる空気などを正確に再現することとて出来ませんが、生前、北大馬術部「部報」にたびたび寄稿され「鎌田馬術」と呼ぶべき馬術の真髄、馬と人への愛情、信念を披瀝されています。後輩諸氏にも必ずや参考になるものと思い、要旨を採録して優れた先輩への感謝の意としたいと思います。

1.北大馬術部の使命
2.馬術部のジレンマ
3.基本馬術
4.馬の調教
5.二蹄跡運動
6.障害飛越

 

1.北大馬術部の使命

鎌田正人さんが北大に入学された昭和26年は、北大馬術部が荒廃の中からやっと復活できた年でした。北海道で初めて開かれた「札幌国体馬術競技」(昭和29年秋)の準備に奔走しながら、昭和27~28年の2期、北大馬術部の主将を務められました。それ以来亡くなられる直前までの50数年にわたり北大馬術部を見つめ、北大の馬たちを愛された熱意には頭が下がるばかりです。この間北大馬術部のあるべき姿とその使命感を熱く語り、常に助言を与え続けていただきました。

『戦前は、軍隊に十分な馬と優秀な調教師がおり、また地方にも多くの教職者がいたため、アマチュアによる馬の調教ということは、軍人を除いてあまり考えられなかった。しかし戦後は、この調教師とか先生などは殆ど見られなくなり、わずかに東京など中央の一部で見られるに過ぎない。そのためこれら調教師といわれる人に仕込まれた乗馬の数はごく限られ、多くの人々は自らの馬を自ら調教を施して乗り易くし、さらにそれと並行して自己の乗馬技術を磨くという方法をとらざるを得なかった。即ち良く調教された馬から教わるという機会が、戦後は殆どなくなってしまったのである。

昭和26年9月、戦後一時中断されていた北大馬術部が復活し、馬術界に再び仲間入りすることができた。さらに昭和29年の札幌国体開催を機として、同年秋に国体競技用に調教された乗馬6頭を、当時の島善鄰北大学長、太秦康光北大馬術部部長、松本久喜北大農学部教授などのご好意と努力によって、北大馬術部の自馬として繋養し得たことは、ひとつの大きな転機となり現在の発展を招来したといえる。当時の大英断に対して、私たちは大いに感謝せねばならない。

さて顧みて、わが北大馬術部の現況はどうであろうか。自馬を得てから多くの対抗競技にも勝てるようになり、自馬の効果偉大なりと感嘆させられる。確かに練習量が十分になったことと組織的な部班運動の結果は、一見、堅確な騎座と脚を養成したが、それはシャニムニ馬にしがみつくことによっても得られ、これを馬についてみれば「硬い口」、「鈍感な扶助に対する反応」、「平衡への無頓着」という好ましくない結果を招いた。結局は「ひっかける馬」、「障害の逃避が上手な馬」を作り上げてしまった。即ち、ややもすると多くの勝利は馬の調教において少しでも乗り易い馬を作る本来の目的を忘れ、結果的には馬を悪くしながら、その繰り返しだったといっても過言ではあるまい。これでは馬術部という名を返上した方が良い。』(S32年部報 No.3)

『北大馬術部について色々言われているが、「乗馬とは何か」、「馬とはどんな動物か」、一度基本的なものを良く考え、研究してみることが必要だ。馬術は感覚に負うところが大きいが、百錬自得というように、感覚は鍛えられて身につくものです。指導の方針、進むべき方向、乗馬をマクロに考える努力が欲しいと思います。その感覚的なものを科学的に分子解明をするのは大変なことですが、北大馬術部の大きなテーマにして欲しいと思う。』(S47年部報 No.18)

 

2.馬術部のジレンマ

だれしもが馬術の奥の広さ、美しさ、楽しさに魅かれて集うのだが、いつの時代も経験者の入部は極めて稀で、殆どの部員は初心者から始まる。より強い、高度の競技馬を育てるのか、優秀な選手を鍛え上げるのか、大きな現実問題にいつも直面する。この調教と育成には、馬が先か、人が先か、いつの時代も大きな壁となって立ち塞がった。

『現実の問題として部員自身が馬を調教するためには、相当の修練を積まねば果たしえない。またさらに優れた感覚を養成するためには、良く調教された馬も必要とする。だがしかし一年生や二年生のうちに十分な訓練を積んだ馬術部員で、少なくとも「三百ほどの鞍数」を積めば、三年生、四年生の頃には相当の調教能力を備えられると確信できる。しかし「二年間で三百鞍」というのは、所謂「マニヤ」の部類に属すると思われる。したがって皆がマニヤであり、またマニヤの出現を促すように新入生には馬術の深さ、広さ、そして面白さを教えねばならぬと思う。

さて三年生、四年生となって調教をするようになっても、一人での練習は誤りに陥り易いことに注意したい。ここで必要なことは、先輩と絶えず連絡を取り、お互いの批判を快く受け、先輩の経験と意見を十分に聞き入れて、かつ内外の馬術家の著書を熟読して味わい、常に研究心を持って行わねばならない。先輩の方々も大いに批判し、時には自ら馬に跨って叱咤激励し、議論を重ね、純粋に馬術的な見地から後輩を指導していただきたいと思う。訓練に当たる上級生は、小さな欠点を多く見出して注意するよりは、訓練する者自身が鋭く研究しつつ、その人にとって今一番欠けているのは何かを良く観察し指摘して、訓練の効果を挙げるべきです。馬術の上手下手は、結局において如何に馬を調教するかということであって、自ら調教した馬でなければ「羽化登仙」などという馬術の真髄は、百年かかっても得られぬことと思う。』(S32年部報 No.3)

 

3.基本馬術

最近では馬に関する研究書も書店に並ぶようになったが、まだまだ乗馬の技術面からの専門的なマニュアル本は少ない。そのため、書物から純粋に馬を御するということへのアプローチは、初心者にとって難しいものになっている。その理由は、戦前に比べてプロの調教師が極端に少なくなったためでもある。さらに難しいことに、「馬乗りが百人いれば、百通りの乗り方がある」とも言われるように、その指導カリキュラムも多様に存在する。乗馬技術の奥の深さ、芸術としての美しさを探求するがゆえに、人それぞれの感覚によるところが大きいためでもあろう。百家争鳴の馬術論のなかで、まず最初に修得しなければならない「基本馬術」とは。

『競技会に出場して、閉会式の講評で多く聞かれるのは、決まって基本馬術が出来ていないということだ。それでは何をもって基本馬術といい、どの程度まで修得していると良いのだろうか。

私は基本馬術を一言で言うならば、次のように考えています。
① 「完全な馬上の平衡」
② 「拳の独立」
③ 「強力な推進の出来る脚の力」
だれしもが通り抜けねばならない最低の知識、技能は、この三つだと考えています。

「平衡」がなくては馬上にあることが出来ません。平衡がなくては「しがみつく」だけです。しがみつきに平衡はまったくないのです。ですから鐙上げ練習をするのは、決して膝で締め付けて馬上に安定することを覚えるのではなく、よりよい平衡を得るための手段と考えて良いでしょう。鐙上げによって内股が硬直するくらいになったとすれば、それは破れんとする平衡を、中心の坐骨上に戻すために使われたのでなければ、その人の練習は誤った方向に向かっていると言えましょう。良い騎座は「柔軟な身体より発する平衡により獲得」出来るのであって、少しでもしがみつきの兆しがあれば硬い騎座となって現れるものです。鐙はあくまでも平衡を助ける「道具」です。そして「拳の独立」「強力な脚」も平衡より生まれるのです。

「拳」の重要性は、馬の前進する力が全て手綱を通って拳に戻るからです。「脚」がアクセルだとすると、「拳」はブレーキであり、ハンドルでもあります。「銜」は敏感な口内にあるものであり、拳の微妙な操作は大きな影響を馬の運動に現すものですから、拳が体のその他の部分の運動に影響されたり、一緒に動揺してはならぬのです。拳の感覚、及び操作は馬術の最も困難な課題の一つで、坐骨体重、腰及び脚の操作とあいまって馬術を向上させるための主役を務めます。「拳の独立」が相当に出来るようになれば、ある程度の基本馬術は出来上がったと言って良いでしょう。

「推進」は、フイリス*も「推進、推進、そして更に前進」と言うとおり、脚の力もこの重要な推進を司どるものなのですから、強力に且つ適切に使用されねばなりません。もちろん強力だからと言って、馬鹿力では微妙な操作は無理でしょう。必要に応じていくらでも強く使える脚力を持ち合わせてなければなりません。たとえば競馬の騎乗法は人馬の安定を主眼とし、その騎乗技術は重心の一致による人馬の平衡の上に作られるので、脚、拳、それに体重、騎座と馬に何かを感じさせる全てのものを利用しているのです。そのため一つ一つが独立して他と無関係のものではありませんが、平衡、拳の独立、それに「肩を内へ」をする位の脚力があれば、およそ基本は出来たと言えるでしょう。そしてこれは自錬自得、練習からのみ備わるものと考えています。』(S33年部報 No.4)

*フイリス James Fillis,十九世紀のフランスの名馬術家で、近代馬術の創始者。一生の間に15万鞍を騎乗し、新しい馬場馬術の種目を編み出し、数多くの名馬を世に送り出し、八十歳で大往生を遂げるその三日前迄、高等馬術の研究に熱中した。
そのフィリスの有名な言葉が「En avant, en avant, et toujours en avant!」(前進・前進・常に前進)。馬術用語では「旺盛なる推進気勢」という。東京・馬事公苑の入口にはフィリスの言葉を刻んだ銅像がある。
「フィリス氏の馬術」(遊佐幸平編 恒星社厚生閣)ほか翻訳多数。

 

4.馬の調教

鎌田さんの言う調教とは、「少しでも乗り易い馬にする」、「口向きの良い御しやすい馬にする」ことが第一だと言う。もちろん基本馬術が備わっていない者の調教は論外として、どんなことに気をつけて調教に当たれば良いのか。

『そこで現在の部員の方々に考えて欲しいのは、2年生の後半から3年生になったころからは、自分の練習もさることながら、馬の調教をする、少しでも乗りやすい馬にする、口向きの良い御しやすい馬にすることに、全神経を傾けて欲しいということです。そのために最小限必要な要件は、

(1) 馬上でバランスが良く取れていること。
(2) その結果、拳がそこそこ自由に動かせ、体の他の部位の動きと独立して使用できることが必要になりますし、馬の口に軽く、かつ柔らかく当たることが出来るようであれば理想的です。
(3) 脚による推進とその操作が(当然、拍車を含めてですが)、腹帯の直後と、やや後方の2箇所に、的確に操作できるようになっていれば良いと思います。

さてそれでは調教はどのようにするか一口で表現するのは大変なことですが、まずは「良い口向きの馬を作る」ということです。口向きが良いということは、馬が銜を受けて(on the bit)、控えると止まり、右に控えれば右に回転し、左を控えれば左に回転する。これらの動作がスムーズにいけば問題はない訳です。しかしながら馬には、右が固かったり、左が固かったり、下顎が固かったりと、それぞれ特有の硬さがあるものです。これらの硬さを調教によって少しでも少なくし、騎手の手綱や脚の操作に少しでも抵抗がなく従ってくれるようにすることが調教です。

具体的には、馬場内で運動を始めたならば、軽い銜受けで馬を活発に動かせながら、直径10~12mの巻乗りを左右にすることから始めます。まったくの新馬でなければ同じ場所で続けて2回行って、より正確な円形を蹄跡に残すように心がけます。この運動は常歩、速歩、駈歩でしっかりする必要があります。硬さがあったりスムーズさに欠ける側は、柔らかい側の2倍やることが求められます。初期にはこうした運動を中心にしながら、馬の口に軽く接触することが肝心です。馬が大きな歩様で運動できるように心がけなければなりません。』(H16年部報 No.50)

『従順さということは無理な要求をしないことも一つですが、要求をしたら騎手の命令に絶対服従をさせる、反抗をさせない強い意志が必要です。できれば闘争しないで進歩させるべきだが、ひとたび人馬の間に闘争が勃発すれば、必ずそれを打破する技能を持つことが肝要です。また反抗心を起こさせないように要求する。これは反抗を粉砕するよりも大事なことです。この両者のバランスを上手に用いて、全ての騎手は馬を進歩へと導くことが出来るでしょう。』(S39年部報No.10)

 

5.二蹄跡運動

馬という生きものが少しずつ理解できたならば、その運動のなかに是非取り入れなければならないものに、二蹄跡運動があります。これは、馬場馬術だけでなく障害飛越など、あらゆる競技馬術の基礎になっています。二蹄跡運動の効用はどこにあるのか。

『乗り手が名人、達人の域であれば、先に述べた基本馬術だけの条件だけでも馬は良くなってくれると思われます。しかし更に馬に軽快さを求め、ハンディーな馬にするためには、二蹄跡運動が必須です。この運動は決して難しいものではありませんが、脚と拳(手綱)の共同操作が必要になります。まず馬に対しては、片方の脚の操作(腹帯の直後に拍車を含めて)によって、馬の後駆を外側に動かすことから始めます。停止の状態で行えば前脚旋回になりますが、常歩をしながら行えば「肩を内へ」をしながら巻乗りをすることになります。馬を活発に前進させることが肝心で、さらに歩度を伸ばせば大きな輪乗りが出来ます。常歩でスムーズに動けるようになったら、緩除な速歩を指示します。騎乗者の脚の操作にスムーズに反応し、腰を外側に振ってくれるようになれば馬場の柵沿いを利用して、直行進をさせながら「肋の屈曲」を求めるように努めます。この際、軽く外側の脚をやや後方(10cm程度)に操作して、「外方脚」の扶助を覚えさせるのが自然のように思います。これら内方脚の操作のときには、当然ですが内方の手綱を控えることが必要です。何といっても大事なことは、「内方脚」をしっかり使うことです。

馬場の柵に沿って「肩を内へ」がスムーズに出来るようになれば、自然と「腰を内へ」も出来るようになると信じています。二蹄跡運動の効用は、脚に対する従順性を求めると同時に顎の柔軟性が向上し、銜受けが柔らかくなっていくことです。特に馬場馬術をするということではなく、乗り易い口向きの馬を作ることは、障害飛越でも障害間の走行、誘導が楽になり、飛越に全神経を使うことが出来るのです。 日常のトレーニングにおいては、いつも同じ運動の順序でウォームアップすることをしっかりと記憶させます。たとえば総合馬(馬場と障害の競技)の場合には、馬場に入って準備運動が終われば、常歩、速歩での二蹄跡運動。そして駈歩での大小の巻乗り、輪乗りをしっかりとしてから低障害(80~90cmまで)の飛越を30~50個を繰り返します。必要なときは120~130cmを数個飛越するに留めます。このプログラムを規則正しく正確に守ります。このようにいつも同じ運動を繰り返し固定し、運動をパターン化するのが最も効率的な練習方法だと私は思います。』(H16年部報 No.50)

 

6.障害飛越

馬が軽快に楽しそうに障害を飛越する様には、だれもが憧れます。一方で、障害飛越などの大会で、競技場入り口に近づくだけで、周りの待機中の馬にも惑わされ、興奮が高まります。馬自身がこれから何をさせられるのかをいち早く察知しています。また、乗り手が自信を持って騎乗しているのか、余裕があるのか、馬は馬上の人間の心のうちも見抜いています。人が緊張し馬が興奮したなかで、いかに乗り手が冷静に判断し、決断して馬との共同作業を全う出来るかが障害飛越の醍醐味でもあります。日ごろの訓練を含めて、障害飛越の心構えはどこにあるのか。

『現在の北大馬術部の訓練状態、自馬の状態を見ても、止まらずに飛越させるということが第一の目的、目標であって、それ以外に何もないように、私には見受けられ残念です。もちろん現状では、それも致し方ないことかも知れませんが、それだけでは良い結果は得られません。第一義的な脚に従順で真っ直ぐ前進させる(拒排させない)ことと同時に、その前進を規制(制御)することも必要です。そして何よりも大事なことは、障害飛越にあたり馬に対して高度の緊張も与えておかねばなりません。そのことは脚の推進と、拳の微妙な連携によって生ずることを、訓練によって学ばねばならないと思います。緊張を与えるということは、馬を完全に手脚の中に入れるということも一つですし、また近頃流行のモンテ(インテルヴィション)も、その高度に進歩したものと思われます。それ程でなくとも、馬を障害に対して緊張した状態にするということが、落下を防ぐための重要なポイントとして、良く知っておいていただきたいと思います。もちろん馬それぞれの個性によって、種々の表現の相違はあります。馬術とは根本原則が種々の形になって現れてきますから、それを形にとらわれて(惑わされて)、原則を忘れることがあってはならぬと思います。私も大会で緊張せずに失敗したことがあります。それは落下にしても拒否にしても、馬の現状に相応した各種の緊張の必要性を、数多くの苦い経験を通して感じております。そしてそれがどんなに難しいかも知っています。馬術部の現状として、競技用の高度の技術の他にも数多くやらねばならぬ、研究せねばならない基礎的なものがあります。やはりそれが第一ですが、時には一歩進めて競技的高度な作戦を議論しておくことも、進歩的馬術部としての使命でもあり、個人個人を将来に向かって末永く乗馬人たらしめる、一つの要素と確信しています。』(S38年部報 No.9)

『障害で拒止されるのは、私の経験では殆どが小さな障害で止められている。このことを考えると、いくら理想的に調教された馬でも、馬としては嫌々ながらか、大して嫌とも思わない無関心を装って飛越してるようにも思います。しかしながら、人が何もしなくて障害を飛越してしまうということは、あり得ないことなのです。まず馬に乗ったら、休む以外は推進というのが馬術本来の姿であることを忘れてはなりません。また競技場で馬を落ち着かせるということは、どんなに上達しても常に第一の課題であります。落ち着かせるのに一番大事なことは、騎手が無用の力を加えずに単純な扶助で御すことであり、そのためには騎手が冷静あることが第一の要諦です。また日常の練習の合間に、「索き馬」で馬とともによく歩くということは、人馬の調和、親和を強くすることに非常に効果があります。

最近の部員の皆さんが口にするイタリー式について、一言申し上げます。どうも皆さんのお話を聞いていると一面的にしか捉えておらず、御術との関連をイタリー式の内部で解決しようとするのは間違いではないかと思います。イタリー式とは、障害馬を作るにあたりその最大の力を発揮させる方法論の一つです。いま馬術部に必要なのは御術を十分に研究され、基本的な騎座、拳、脚を作り、その上に立ってイタリー式も参考にされてはと思います。御術の基本が、非常に歪められているように思えるのが気がかりです。』(S39年部報 No.10)

(以 上)

=部報などからのまとめは、大場善明氏(S36卒)の手による=


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