OBからの便り

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「馬術部38喜寿の会in八ヶ岳・草津」に7人参集  (2016.7.29~8.1)

我々38年卒業組は6年前にニセコ・支笏湖畔に集まり、その模様はこの後援会便りに「ポレポレじじい合宿記 」として報告しました。それから6年、「じじい」はさらに年輪を重ね、多少の誤差はあるものの、なんと喜寿を迎えました。いまや高齢化社会の堂々たる中核です。

今回集まったのはその祝いではなく、札幌の岡田君(ポンちゃん)から「市川が馬術部監督に就任してあれこれ苦労しているので激励会を開くのはどうか」と新年にメールが来ました。同期生は関東に多く住むので、札幌から2人が来たほうが早い、というので札幌組にご足労願って7人が合流しました。

参集したのは市川瑞彦、岡田征至(ポンちゃん)、恩田正臣、志水一允(イソちゃん)、玉澤一晴、原重一、宮崎健の7人。前回参加の清水洋(アブさん)は体調不良、実吉峯郎は入院中で欠席です。喜寿ともなればまあ仕方がないでしょう。このほか大阪にいる小出秀達にも声をかけましたが「心不全気味でみんなに迷惑がかかるかも」と欠席。ホームページ作りに大活躍いただいている中村せつ子さん(旧姓:田中)は昨年夫君に先立たれましたが「介護の手間がなくなったので」と参加予定でしたが、直前に息子さんの体調不良でこれまた不参加でした。

7月29日昼羽田についた市川、岡田の二人を宮崎が出迎え、中央道途中で志水と合流、長坂ICから八ケ岳は横岳直下にある宮崎の山荘へ午後3時到着。すぐさま炭をおこして野外でジンギスカンです。市川は前回紹介したようにラーメン博士ですがジンギスカンにも一家言持ち、「空知のたれ」がうまいというので取り寄せました。

ジンギスカン
八ヶ岳の宮崎山荘でまずはジンギスカン
(左から)宮崎、岡田、市川、志水。

我々世代は何といってもサッポロビールなので、エビスビールで乾杯、名酒「十四代」が手に入ったのでこれの封を切りました。五十年以上前の馬術部生活を昨日のように思い出しながら、ああだこうだと暗くなるまで談論風発。部屋に入ってからもキツネが覗き込むなか、ウイスキー、ワイン、焼酎なんでもありの大酒のみの会となりました。

翌日は市川が少し覗いてみたいといっていた小淵沢にある「山梨県馬術振興センター」へ。山梨国体が開かれたときの馬術会場で一時は全国の馬術部から研修生を集めて夏期講習会を開くなどしていたようです。このころ北大馬術部から自主参加した人もいたようです。小淵沢周辺にはウエスタン含めて10ほどの乗馬スクールがあり、今では学生馬術のメッカとなっているところです。

山梨県馬事振興センター
山梨県馬事振興センターを見学。

3キロのクロスカントリーコースや大きな覆馬場があるなど馬術界では注目されたところですが、いずこも同じ第三セクター経営の受難時代で、広い馬房も空き家ばかり、10頭ほどの預かり馬がいる程度です。この日は年に一度の「小淵沢ホースショー」開催日で、花火大会もあるというので大勢の人が集まりかけていましたが、市川に言わせると「思ったほどの施設ではなかった」とのこと。

清里の清泉寮で名物のソフトクリームを男4人で食べましたが、ここはその昔、立教大で教鞭をとったポール・ラッシュが日本の大規模農場経営を始めたところで後年、北海道にその技術が持っていかれたところで風景も北海道とよく似たものがあります。

赤岳
八ヶ岳の主峰、赤岳をバックに。

八峰の湯(ヤッホーのゆ)に入ってまた酒盛りの2晩目。宮崎の家内も加わってウイスキー4リットル瓶がほぼ空、ワイン2本。日本酒「十四代」1升がそれぞれ空。

市川から馬術部の現況報告がありました。その内容は、  1)新馬6頭は若手OB 3人の調教協力を得て概ね順調に成長しており、2頭程度は来年北日本学生馬術大会に出場が期待できる、問題点としては  2)部員が騎乗している部員と騎乗していない部員に分離している傾向がみられること、 3)大会出場でも出場選手が少なく固定化している傾向がある、があった。

2)に対しては、部班運動の頭数を増やして騎乗機会を与えることを提案したが、現在では多いときは9頭の馬で部班が行われており改善されている、 3)に対しては、騎乗技術の点で障害種目に参加できないときは馬場種目に出場させて経験をつませることを提案したが、これも改善されつつある、とのことであった。

7月31日、八ケ岳最後の日は上田城見学に。NHKの「真田丸」を見ているのはひとりだけで、やめようかと言いましたが、その一人が「いやせっかくだから行く」と頑張るので、4人で上田に。途中、近頃そばの名店としていろんな雑誌に登場する旧中山道、望月の宿にある蕎麦屋「職人館」へ。なかなかのものでしたが、こんな田舎では再度来るのも容易ではなく、たぶん最初で最後でしょう。

真田丸
目下放映中のNHK大河ドラマ「真田丸」
を見ているのはひとりだけだが、立ち寄り。

嬬恋村のキャベツ畑の中を走って、午後3時過ぎ、観光プロデューサーをしている原の顔で女将に話が通じている草津温泉名物「湯畑」の前にある老舗旅館の「一井」へ。ここで残りの3人(原重一、玉沢一晴、恩田一臣)が加わって7人となりました。

温泉に入ってすぐさま宴会です。日本酒の冷酒(地元群馬の「赤城山」)1升、ビール7本、ウイスキー1本、ワイン1本がたちまち空です。ここで前夜の馬術部現況がまたまた話題になりました。「馬に触りたい、馬が好きだという部員も存在できるのが北大馬術部の伝統だ。38組がまさにそうだったように」「イタリア式だなんだというのは昔からいた。馬術理論の途中論で行き着くさきはフランス式も英国式もオーストリア式もみな同じ。青白い理論だ」「現況からは馬術部の若い人たちは監督以下に強力な指導力を待望しているように思う。この際、積極的に指導力を発揮したらよい」

全員
全員で祝宴。(左から)宮崎、恩田、志水、玉沢、市川、岡田、原。

思い出せるのはそんなところでしょうか。ともかくみんなを集めて一度指導方針というかあるべき馬術部の姿を指し示す場を作れ。ホームページに「指導部から」というコーナーを作るから、監督、コーチ、馬匹など皆が筆をとり、思うところを披歴してほしい。それでもなお青白い理屈を並べるのがいるなら、ここにいる38全員で札幌に乗り込んで空論を現実路線に引き戻そうではないか。

まあ、そんな次第でした。翌日5人が恩田の経営する群馬県太田市の乗馬クラブ「かなやま森林馬事公苑」でトレッキングして散会しました。同期生11人中亡くなったのは1人(堀川君60歳で山で遭難)だけ、「一病息災」で元気なうちにまた会おうと約束しました。

全員
草津の旅館「一井」前で。原が早朝帰り6人で。

以上

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近藤喜十郎さんが新聞に掲載されました  (2015.4.5)

近藤喜十郎さん

近藤喜十郎さん(昭和41年卒)からメールで新聞記事(2015年4月3日付、北海道新聞夕刊)が送られてきました。 馬術への思い断ちがたく、家業を途中でやめて英国に留学、BHS(英国馬術協会)認定の国際馬術指導教官 の資格を取得しました。 さらに帰国後は単身で札幌に戻り、修士課程に在学しながら北大馬術部でコーチ役をかってでてくれて現在、後輩の指導にあたってくれています。詳しくは記事にありますので読んでいただくとして、1月末開かれた北大馬術部東京OB会の「総会・新年会」に東京で勤務する娘さんとともに出席、札幌の現況について解説するとともに、熱い馬術への思いを披瀝してくれました。 英国の正統馬術を身につけたおbだけに馬術部現役の皆さんには力強い力になってくれると思います。

以上

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40年組、道東呑んだくれ旅行 札幌で紅二点加えて同期会  (2011.9.12~9.16)

吉田 賢一

私たち昭和40年卒業の大木誠示、野田行文、吉田(御坊田)賢一の3人は、2011年9月12日から16日まで道東ドライブ旅行をしてきました。卒業から46年が過ぎましたが、大木は杖をつきながらも頑張って運転しかつ飲んでくれました。野田もおおいに運転し、ともに飲みました。

関東在住の私と野田は12日正午ごろ千歳空港に着き、千歳にいる大木と落ちあい直ちにスタートしました。その日のうちに襟裳岬経由で釧路まで行きました。5日間のうちで最も長いドライブでした。途中大木と野田が馬術部時代にアルバイトをした浦河の牧場に寄りました。馬の牧場は健在でしたが、馬の数より野生のエゾ鹿、たぶん100頭はいたのではないか、のほうが多くびっくりしました。襟裳岬は風が強くまた霧が深く寒いところでした。

最初の晩は釧路の「Fisher Mans Warf」で食事。大木はこの日はノン アルコール ビヤーでしたが( 健康を維持するためとか)、次の晩からは 普通の酒に戻るという「1日坊主」ぶりでした。釧路はこの日もやはり霧が深く、私は、寅さんの映画の何作目かに釧路が出てくる映画がありそれを思い出しました。

釧路の酒盛り
釧路の酒盛り
(左から)大木、野田、飲み屋のお姐さん、吉田
 

13日は、細岡展望台から釧路湿原を見、次に常陽台展望台から十勝平野を遠望し北海道の広さを実感しました。厚岸経由で納沙布岬に行き、北方4島を返せと叫びましたが、やはり霧で水晶島しか見えませんでした。この日は中標津で宿をとりまた酒盛り。

14日は、中標津から東へ出て、忠類川で鮭の遡上を見、さらに羅臼、知床峠を経て知床5湖を見ました。天気がよくて湖と知床連峰が美しく映え、この旅行の圧巻でした。熊は出ませんでした。また、温泉が混じるカムイワッカ滝も訪ね、その晩は網走観光ホテル泊で、ホテルで夕食をとりましたが、またまた酒盛りです。

羅臼港
羅臼港を望む展望台で大木と野田。
国後島は見えなかった
 
網走のホテル
網走のホテルで道東のん兵衛旅行の3人
 

15日は、網走監獄博物館で本物の監獄を見ました。私は網走番外地シリーズの映画はまったく見ておりませんが、中の展示によると、数十本の映画のほとんどは高倉健主演で映画が作られていたんですね。われわれの大学時代のころです。そのあと定番の摩周湖、然別湖、阿寒湖をみて足寄経由帯広に泊まりました。その晩は屋台通りという横町で一軒の屋台に入りおおいに飲みました。

ユリ根や鮭の精巣の料理など、珍しいものを味わううち、大木が隣で飲んでたお姉さんと仲良くなり もう一軒行こうと言い出しました。わたしは彼の健康と、財布(私が会計でしたが、それまでの毎日の宴会で当初の予算を超えてまったくの赤字状態 )を考え、ホテルに帰ろうといっても大木は頑として聞かず、とうとう次はスナックへ。私は朝1時まで、野田と大木は朝2時半まで飲んでしまいました。大木は本当に元気です!

16日、案の定、大木も野田も二日酔いで初めは運転できず。私が狩勝峠越えまで運転、少し醒めた野田がそのあとを運転し千歳に無事帰りつきました。

総走行距離1,564kmでした。まー、年寄り3人で よく走ったよ。17日の土曜日は札幌たぬき小路で 同じく昭和40年卒業の 水野佑亮(藤女子大で教えている)、大澤(旧姓、牧)竜子、植木(旧姓、滝沢)迪子(元北大文学部教授)の札幌組と野田、吉田の5人で晩飯を食べ旧交をあたためました。

たぬき小路
たぬき小路で40年組の同期会を開いた。
左から吉田、野田、大澤、水野、植木
 

北海道にいる菅野弘は倒れて、いま老人施設におり 出られないとかれの息子から連絡があったとのことです。でも70歳近くなってこのような旅行ができたことを、同行した大木や野田に感謝です。また三人の元気さを実感した旅でした。

◆ ◆ ◆

この旅行の直後、参加できなかった同期の松永武彦が静岡県藤枝市でガンにより永眠しました。10月11日の通夜には吉田賢一が出席。葬儀は12日で野田行文、荻原雅典、守屋正、それに途中退部したものの今も同期つきあいしている小川東二(船橋市在住)が出席、野田が弔辞を捧げました。40年組では先に瀧澤南海雄が2006年9月14日亡くなりました。さびしい限りです。


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ポレポレじじい合宿記  (2010.7.5~7.7)

北大馬術部38年同期生9人が48年ぶりに北海道に集いました。2010年7月5日から3日間ニセコ山麓、支笏湖畔で夜を徹して、(時にサッカーW杯の試合を横目で観戦しながら)、馬の話2割、どうでもいい話8割で懐旧にふけった報告を。

ポレポレ38全員
(左から)・岡田・玉沢・清水・市川・原・宮崎・志水・実吉・恩田
 

王決(現在の全日)に優勝するなど「花の38」と讃えられる(自称)北大馬術部38年卒業組は12人ですが、全員古希を迎えて70歳前後。60歳で山で遭難した堀川芳男君を失いましたが皆元気でまだ現役の者もいます。ご家族の介護で忙しい中村(旧姓田中)せつ子さんと大阪で開業医をしている小出秀達君以外全員参加しました。

「ポレポレじじい合宿日程」というのが送られてきたのは3月。ポレポレというのはケニヤ語で「ゆっくり・のんびり」だそうですがそれによると、「今回の38同期会は卒部以来はじめてであり市川が奮闘した北大馬術部75年史の完成慰労会も兼ねているので万難を排して集合」とありました。当時はなかったイン ターネットをいまや全員が駆使していることから、渋る輩にはメールで「なんとかならないのか」と矢の催促。

かくて集まったのは、札幌にいる市川瑞彦、岡田征至(ポン)の両人を幹事に関東に在住の恩田正臣、清水洋(アブ)、志水一允(イソ)、実吉峯郎、原重一、玉沢一晴、宮崎健の9人。

「7月5日正午千歳空港集合」の指示どおり市川夫妻とポンちゃんの出迎えを受けて全員が集合。直ちに空港内のラーメン横丁で各自思い思いの好みのラーメンを食べました。馬術部時代は恵迪寮近くの市電通りにあった「爐」(いろり)でしたが、当時はなかった塩ラーメンなどがあり、舌づつみを打ったのですがこのラーメンが後日物議をかもすことに。

札幌組の2台のクルマで一路ニセコ山麓へ。途中名水が湧き出ている場所がいくつかあり立ち寄りました。おりから全国的に記録的猛暑、北海道も珍しく暑いということでしたが関東組からすればたいしたことはありません。


市川山荘
市川山荘は瀟洒な2階建て
 

ニセコの瀟洒な市川山荘ではジンギスカンの用意がしてありさっそく戸外でパーティー。七帝戦の後のコンパはポプラ並木のはずれ第2農場の牧草地で下級生が夜を徹してさばいた堅くて噛み切るのに苦労した羊肉でした。今はぐんとおいしくなった肉と市川幹事が北海道を試食しまわってコレと決めた空知のタレです。

当時の大食漢を基準に準備されたもので現在の古希の体では食べきれずたくさん余り、市川夫妻はその後連日野菜の山と格闘したそうです。ポプラ並木馬場時代の山のような思い出から試合の話、馬を東京まで運ぶ貨車輸送の途中青森操車場で居場所がわからなくなってうろうろしたこと、七帝戦できつい拍車を使って北大の馬を血だらけにした東大生と喧嘩になって、ジンギスカンで仲直りしたことなど。


市川山荘
ニセコの市川山荘でのジンギスカン
 

市川山荘の2階に9人が布団を並べて雑魚寝でまた話し込み、アブがガールフレンドと「1勝2敗か2勝1敗」だかのよく分からない勝率披露でニセコの夜も更けていきました。ニセコではこの仲間数人でスキーに出かけたことがあるのですが、イソが山の上で盲腸になり叱咤激励しながら昆布駅だかにたどり着き列車に乗せたものの札幌に着いたときは破裂してあわやの大事になったことがあります。

翌日も晴れ。アブ、イソ、実吉、ポンの4人は「こんなとこまで来てゴルフがやりたいか」という中傷をものともせず近くのゴルフ場へ。ゴルフ場で朝食の予約をしてあるというので残りの5人もつきあうことになったのはいいが、「ここから30分。余裕で着く」と豪語した市川が「ニセコ東山プリンスホテル」とニセコ東急ゴルフコース」を取り違えニセコ山麓をあっちへうろうろこっちへうろうろ。同じところを4度も通るドジで、4人は用意された朝飯をかきこんであたふたとスタートして行きました。結果はアブが書いてよこしたところでは「ゴルフはイソに自信をつけさせてやったようなものだ。言い訳じみるが、誰しも調子の悪い時がある。せっかく北海道でやるんだったら、最高クラスのコースでやるべきだった」と文句を言っているから推して知るべし。

ほかの5人はゆったりとニセコ山麓の名水めぐり。ニセコ五色温泉につかって「北海道はいいなあ。本物の掛け流し温泉ばかりで」と大満足。


ニセコ五色温泉
ニセコ五色温泉で一風呂
 

その足で原が仕事のリゾート開発で手を貸したか知り合った縁で手配してくれた新しいスタイルの支笏湖畔のホテル「鶴雅リゾートスパ水の謌」へ。この世代、合コンかダンスパーティーでしか女性と知り合う機会はなかったのですが「モーラップキャンプ場で生協主催のキャンプに来たことがある」というのが何人も。モーラップはこの ホテルのすぐ近くで、隣り合って当時米軍の専用砂浜があったものです。我々が入学した昭和34年はまだ米軍の占領下で衣食住すべてないないづくしの中にありました。そんな中で馬に乗る生活を送れたのですから良しとしなければなりますまい。


水の謌01
旅で一番豪華な支笏湖畔の宿で
 

ホテルでの夕食会は「北大馬術部75年史」で苦労した市川の慰労会を兼ねたものとなりました。遅れに遅れ、いっそ80年史にしたらなどと外野席から声がかかったいきさつなど律儀な性格どおり縷々説明していましたが、完成してしまえばもうどうでもいいこと。各自 昔の思い出や近況などを語りました。全員揃うのは48年ぶりですが東京OB会でだいたい年に一度は会っているので互いに周知のことですが一応紹介しておきます。

市川瑞彦

卒業後同期ではただ一人大学に残りました(理学部物理)。馬術部長、後援会会長としてずっと馬術部と関わりを持ってきたのはご承知の通り。定年退官後も週に一度は大学で教えているそう。ずっとダンスを習いつつけているとは初耳でした。

岡田征至

拓銀に入り、まさかの破綻後は室蘭の実務学校の経理を担当してこの地でヨットにはまりました。いまも時間を見つけてはクルーザーで帆走しています。親父さんが根室の拓銀支店長をしていたときは同期数人で押しかけカニを死ぬほどご馳走になった話でもりあがりました。

恩田正臣

群馬県庁で畜産関係ひとすじ。定年退官後は太田市で乗馬クラブ「かなやま森林馬事公苑」を経営、ここに東京OB会から毎年馬に乗りに行くのが恒例になっています。北大馬術部からも研修に行っているようです。現役の指導に熱意を持っていますのでいつでも相談に乗ってくれるでしょう。

清水洋

農林省に入り九州などの種畜牧場の責任者を務めた後外郭団体の日本食肉市場卸売協会の専務理事。定年後はJICAに志願パラグアイやメキシコでそれぞれ2年間畜産指導にあたり顔つきまで現地に溶け込んでいましたが、2010年帰国。

志水一允

目黒の森林総合研究所でセルロースの研究をしていたが、筑波移転とともに身柄もそちらに。中国林業科学院で人工材木の研究を2年半、定年後日大生物資源科学部教授に。役所では原稿料1枚400円ほどだとぼやいていた男がいつの間にかゴルフが趣味に。

実吉峯郎

馬術部の泊まりのときクロロフォルムを睡眠剤に使うので周りを閉口させたが、北大薬学部助教授から帝京科学大学理工学研究科バイオサイエンス学科教授。山梨県上野原にある学内で馬術部を立ち上げ、代表者として今も乗っている。

原重一

馬術部を冬はスキー部にした男。日本交通公社は株式会社と財団法人があり、(財)日本交通公社調査部に30数年、常務理事。この間全国で観光開発のコンサルタントを務め今回の支笏湖畔の宿もその仕事の延長線で世話してくれた。

玉沢一晴

卒業の関係で38組に入っているが本当はみんなより1年先輩に当たる。山之内製薬に勤務したが馬術とはずっと縁がきれず埼玉県の馬術連盟で審判などをつとめる理論派。現在北大馬術部ホームページの馬術教本のまとめ役。本格的家庭菜園が趣味。

宮崎健

産経新聞で編集局次長をしているときインターネットと出会い、社のホームページ作りをした縁で同期の中村せつ子さんと北大馬術部サイトを立ち上げた。現在80%の仕上がりであと馬術教本ができれば完成で現役諸兄への38組からのプレゼントだと思っている。

水の謌02
「鶴雅リゾートスパ水の謌」を出発
 

さて、同期会のつづきですが、翌7月7日はホテルを出て全員で千歳のノーザンホースパークへ。ニュージーランド産の敷きわら材など新しい馬匹管理に感心しました。


ノーザンホースパーク
ノーザンホースパークに感心
 

昼ごろ千歳空港で解散。東京直行組、ポンチャン自慢のヨットで1泊の上セーリングする班、馬術部訪問のため札幌でもう1泊する者と別れました。


新渡戸稲造の筆の額
北大総長室で新渡戸稲造の筆の額を撮影
 

その後メールが飛び交いさらに懐旧を深めたのですが、物議をかもしたのがイソの一文。「千歳空港でラーメン屋に連れていかれましたが、小生、北海道ラーメンが嫌いで、憎悪に近い感情を持っています。旭川のラーメン村の「山頭火」など下品な味です。北海道は観光の町、ラーメンの町になります。ラーメンはいけません。下種です。あの当時の”いろり”のラーメンは許せましたが」

原からは「前半の中国レポートは兎も角、”蛇足”のラーメン云々はいただけない。憎悪するぐらい嫌いなら喰わなければいいこと。市川やポンちゃんが事前にあれだけ「他に好みがあれば…」と皆に確認してから行ったのに後だしジャンケンみたいに…御託を並べるのは、失礼だ」と大叱責。

総スカンにイソが平謝りの顛末はどうでもいいとして市川が最後に「体験的ラーメン論」を寄せました。これが大した物なので大略を紹介しておきます。これが我々「2010年38同期会」の収穫でしょうか

(文責 M)


市川瑞彦のラーメン学

ワイフも子供達もラーメンが好きでよく食べる方で、小生は自称「ラーメン評論家」です。メモしてあるだけでも行ったラーメン屋は130軒ほどテレビ・雑誌などで美味いと言われた店をエクセルのファイル「旅グルメ」に記入し、それらの店を訪ねるのが楽しみの一つである。

思い返してみると、ラーメンの想い出は、高校時代の旭川の「蜂屋」のラーメンです。駅から常盤公園そばにあった旭川西高に行く途中の繁華街(5条6丁目?)に「蜂屋」がありました。腹が減った厳寒の折にはインパクトがありました。今の緑橋通りにあった市場の「鍋焼きうどん」と双璧でした。当時の「蜂屋」のラーメンは、こってりした醤油の豚骨スープと魚介だしがミックスした癖のあるもので、店の裏に行くと豚の頭?など大きな鍋で煮込んでいて、くさい匂いがしたものです。店のガラスは湯気で曇り中が見えず、テーブルに届いたラーメンの表面はすぐにラードの皮が張り、それを「壊して?」麺を食べる感じでした。今でもその味の名残はあるように思います。

小生は、普通定番の(基本的な)のラーメンを注文することにしています。北海道では好みのこってりした醤油にはあまりお目にかからないので、普通は味噌です。チャーシュウ麺とか、海鮮ラーメン、カニラーメンとか値段の張るものは始めは敬遠します。ラーメンは、「たかがラーメン、されどラーメン」で、高級で涙が出るほどおいしいというものとも思いません。値段はせいぜい800円止まりの食べ物であるべきと思います。また、ラーメンが好きなせいか、「まずい」という店はめったにありません。20軒行って一軒あるかないかという程度でしょう。多いのは「まずくはないが、特に美味くもない」という店です。

個人的な意見としては、同じ名前の店では、「本店」の味で評価すべきだと思います。要するに、良くも悪くも「店の親爺の味」で評価するべきでしょう。私が有名になる前から行っていた店で西区八軒に「桑名」という店がありますが(今ではスーパーでその名のスープ付きの「生めん」が売られています)、息子か娘がやっている札幌駅(道庁)近くの店はうまくありません。時々奥さんが店に行っていると言っていましたが、それでもです。フランチャイズ店はなおさら味の巾が出てくるでしょう。私の感じでは、理想的なのは親爺がカウンターの中にいて、手伝いの店員が1-2人のカウンター席のみ8-10席ほどの店です。そういう店は、一軒限り一代限りですが、それでいいのではないかと思います。テーブル席にできたラーメンを運んでくるスタイルは、親爺の顔が遠くなり、人件費もかかります。本店でない店や名前は同じでもフランチャイズ店に行くときは、あらかじめ味に巾があるものだということを考えに入れて行ったほうがいいと思います。

全国的には食べ歩いたというほどの経験はありませんが、「博多ラーメン」、「喜多方ラーメン」、「新潟ラーメン」などを現地で食べたことはあります。個人的には、「博多ラーメン」の細い直麺、紅しょうが、「喜多方ラーメン」のあっさりスープなどは好みでありませんが、そういうものだと考えればまずくはありません。徳島に「いのたに」という有名な店がありますが、そこの麺は太くてまっすぐな、まるでうどんのような麺です。しかし、スープは、だしのきいた豚骨のいい味でした。小生は、北海道が長いせいか、やはり「縮れ麺」が好みで、他の地方のラーメンは物足りませんが。

私の経験からは、「山頭火」は旭川の緑橋通りの本店や、札幌の店にも行ったことがありますが、少なくともまずくはなく、いい方かと思いました。もっとも、ラーメン丼は黒い丼でラーメンらしからぬものですが。「旭川ラーメン村」の、「山頭火」には行ったことはありませんが、「青葉」とか「天金」とか、前述した繁華街の「蜂屋」の近くに本店があった店には行ってみました。2軒とも「まずくはないが、特に美味くもない」ランクでした。そこに比較的近くの旭山公園そばの「特一番」(昔旭川駅前の「旭ビル」の地下にありました)にも行ったことがありますが、まずくはなかったと記憶しています。

他人に「どこのラーメンが美味いか」と聞かれるのが一番困ります。観光客に聞かれて店を推薦しても、きっと行かないだろうと思います。結局は、パンフレットに書いてある店に行くのが納得する方法なのだろうと思います。スープはあっさりか、こってりか、豚骨か鶏ガラか、それともミックスか、麺は太麺か、中細麺か、細麺か、直麺か縮れ麺か、などなど好みに大いに依っている。美味さは気候、体調にも依るし、難しい。

最後に、敢えて小生の推薦する札幌の店を3店ほど挙げておきます。行ったら感想を聞かせてください。第一は「彩未」(豊平区美園)。スープはこってりではないが、しょうがの入ったいい味と思う。ただし、休みの日なら冬でも外で30分待つ覚悟を。第二は、「欅」(中央区ススキノ(S5W3?))、札幌ラーメンの定番のもやしは入っていなかったと思う。代わりに細切りのネギである。焼き豚ではなく、挽肉だったと思う。この店も外で30分待つ覚悟がいる。豊平区美園?(環状線沿い)の店は美味くない。第三は、「庵(いおり)」)(中央区S5W16あたり、札幌医大の裏)を挙げておこうか。オーソドックスなこってり気味の味噌スープというところかな。


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37北馬同期会 近藤喜十郎兄を祝う (2009. 8.17)

平成21年8月17日、英国遊学から名古屋に帰国中の近藤喜十郎兄(S41)に上京願い、八重洲口の郷土料理「北海道八重洲店」に同期の仲間が集いました。近藤兄は8年ほど前に英国に渡り、Hartpury Collegeで2年間学んでBritish Horse Societyの国際資格を取得。その後Nottingham Trent Universityで3年間学び、7月にHorse Science(馬の健康科学)の学士号を取得、卒業されました。さらにこの9月からはOxford Brookes Universityの大学院に就学予定とのことでした。当日の出席者(敬称略)を写真で説明すると次の7名でした。



(前列左より) ・松尾英彦(S41)・河合晴夫(S41)・梶山泰嗣(S41)・春田恭彦(S44)
(後列左より) ・大場善明(S37)・近藤喜十郎(S41)・八木澤守正(S41)
 

近藤兄の卒業と大学院進学のお祝いを名目として、「北海道八重洲店」にて開催されました大宴会について、梶山泰嗣兄が簡単にご報告いたします。

大宴会は、定刻17時30分、と申し上げたいところですが、17時20分に私(梶山)が「ちょっと早いかな」と思いながら店に入ると、何と既に3人がジョッキを傾けているではありませんか。「あ、ひどい!」、「いや、梶山が早く来ていると思って」と何やら意味の分からない言い訳も流れたが、「生!、なま!」の連呼に手際良く運ばれたジョッキで、主賓の近藤兄、大幹事長八木澤兄、3期下になる日本馬術連盟常務理事の春田兄とお久しぶりの乾杯。東京駅からほぼ500メートルも歩いた喉を生ビールが爽やかに通り過ぎて、ニコニコニコ。当方にメニュー選択権を与えられ、いつも通りのニコ。メニューを開いても何が良いのか、よく判らない。とりあえずトップページの、北海刺身盛り合わせ、タラバガニの刺身、十勝ブタの蒸ししゃぶ、黄金鶏焼き鳥盛り合わせ等々、北国の幸をふんだんに注文した。

程なく、大場兄が到着し乾杯。律儀にジャスト定刻到着の河合兄とともに、また乾杯。タイミング良く一杯目のジョッキが空いたころには、10分ほど遅れて松尾兄が到着、改めて全員でオール乾杯。

 注文のメニューはドサンコ料理「蒸ししゃぶ」も中々のものでした。蒸籠にキャベツ・ジャガイモを敷いた上にブタロースが乗せられて蒸し、これをおろしダレで食する乙な一品でした。「刺身」に添えられた「本わさび」も上等でした。久しぶりに北海料理にありついた近藤兄は、「氷頭(ひず)なます」が気に入ったようで、お替りの注文。私は「たらこの塩辛」というものを初めて賞味しました。 お互いに「呑み放題の年でもない」とか言っておきながら、この夜はまあ良く飲みました。白ワインが何本空いたのでしょうか。お酒も「越の寒梅」よりおいしいとの「越の影虎」を何本乾したのでしょうか。家に辿り着いたとき相当ふらふらしていましたので、「呑み放題」選択の方が正解だったとの声も。

さてさて、本題が全くおろそかになってしまいました。

主賓の近藤喜十郎兄、誠に元気です。集まった7人の中で一番ツヤツヤして若く感じました。「学ぶ」という心がそうさせているのでしょう。これからの大学院2年も、充分こなす事が出来るでしょう。でも彼の何処から、あのファイトが出てくるのでしょう。何度も八木澤兄も念を押す「近藤君、英国でくしゃみが止まらなかったのでは?」。かく言う小生も、小社の今朝の朝礼で「こんな人もいるのよ」と、60歳から英国留学を実現した近藤兄のエピソードを自慢げに披露したものです。

日本馬術連盟常務理事の春田恭彦兄(S44)は、Nottingham Trent Universityでの近藤兄の「卒論」を、日馬連の機関誌「馬術情報」に掲載を盛んに薦めておりました。すっかり日本語を忘れかけた(?)近藤兄は、英文のままの原文掲載に拘っていましたが、一体どうなることやら。

八木澤兄は再来年の2011年に、札幌での国際会議場を舞台に、大規模な合同の学術国際会議の主催準備に、大学の授業の合間を縫って世界中を走り回っています。

河合兄は、現職をあと1年とのことでしたが、引き続き介護施設の運営に熱意をもって取り組んでいます。「皆さんは、今のうちに介護するよりも介護されるトレーニングを」と彼は提唱していました。

松尾兄は、これまでの会社は替わりましたが、マスターズ水泳と同様に職業紹介の現役部長として新職場で活躍中です。

大場兄は相変わらずウーロン茶一筋で、皆の話に相槌を打ちながら相談に乗っておりました。

仲間みんなも間もなく70歳。それでも衰えぬ37北馬同期会のマニフェストを準備しよう。さらに大々的なイベンティングを計画したいものです。また会う日まで、皆さんさようなら。

(梶山泰嗣(S41) 代筆)

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アブさんの「メキシコ便り」 (2009.6.11)

6月になって本人からメール。案の定「新型インフルエンザ」騒動に巻き込まれていたようです。以下のような元気な便りと、牧童姿の写真が添付されていました。

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宮崎兄
メキシコのABです。

このたびは、原の一文送ってくれて有難う。日本橋での盛り上がりは楽しかった、そのあと、門前仲町で久しぶりのカラオケ、イソの独唱は幸いにして拝聴はできなかったが、ママとの合唱は何とか聞き終えた。


小生、その後メキシコに帰ったのは良いが、3日ほどして、今度はインフルエンザ発生と言うことでJICAボランティアの一斉帰国で再び帰国、そしてほとぼりも冷めたと言うことで6月3日にまたメキシコに戻った。

NARITAに到着したとき、全体を防護服に身を固めたあたかも原発の事故調査に向かうような格好をした検疫官たちが機内に乗り込んできて一人ずつ容態の確認。スペイン語が中心でとんちんかんなやり取りで余計時間がかかる。韓国に乗り継ぐ若者が途中で無断で逃げ出したりして大変。スチュワーデスなんかは脇でニヤニヤ見ているだけ。小生の席の前に熱のある人がいて近くの者は全員足止め、そのほかは晴れ晴れと出て行くのに恨めしい、しかし40分程して全員解放となり、一斉に歓声と拍手。

その後1ヶ月は、JICAのみだりに出歩くなとのお達しで自宅待機、スーパーに買い物に行く程度。妊娠中の娘からも来ないでくれと受け入れ拒否。あたかも感染者の扱い。日本では想像以上の神経質ぶりだが、その点メキシコの厚生大臣は実に落ち着いた対応だった。実害のない殆どから騒ぎだったBSE問題しかり、衛生環境でははるかに進んだ日本ではあるが、どちらが大国か分からない。

もっとも、メキシコ経済に与えた影響は計り知れない。リゾート地カンクンでは、閑古鳥が鳴いて閉めるホテルが続出しているという。だが一般にそのような雰囲気はない。国民性の違い、個人の判断を重んじる国となんでも政府やマスコミを頼りにする国民との違いが現れた。

中途半端な2ヶ月の日本滞在で心身ともにふやけてしまった。急いで元に戻さねばならない。どこまで読んだか分からなくなった本の続きを探しているようなものだ。 本といえば、村上春樹の「1Q84」、機中など時差の眠い中で読み終えたが面白かった。

以上、メキシコ インフルエンザ騒ぎの印象でした。先日、訪れた牧場での乗馬姿の写真を送る。

AB

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38同期会の集まり (2009.5.15)

2009年4月9日(木)写真の面々が東京・日本橋のレストランで久しぶりに懇談しました。


今でもメキシコでJICA関連の仕事しているAB(アブ)さんこと清水が人間ドック入りのため一時帰国する、と札幌のポンちゃんこと岡田から連絡があり、では集まろうと。イソちゃんこと志水が段取りしてくれて集まったメンバーが写真の面々(写真前列左から実吉、清水、原、後列は宮崎、玉沢、志水、大場)。

我々の同期は9人+α。出席出来なかったのは東京OB会では恩田と中村、札幌の岡田、市川それに大阪の小出。中村さんは仲間の紅一点で旧姓田中セッちゃん、北大馬術部のホームページづくりには初期の段階から大場幹事長に協力し、大きな役割を果たしてくれています。

我々が馬・馬術を通して札幌で付き合い始めたのが、昭和34年4月('59年)だから、数えてみると今年はちょうど50年。そんな節目のつもりで集まった会ではないのだが、あの時この時の話を始めるとあっという間の50年でもあるが、“半世紀”というその長さに改めて感慨深いものがある。

七人の会はビールで型通り乾杯のあと、口火はメキシコ在住ABさんの国際女性比較論。「メキシコの女性は魅力的だよ!情熱的だよ!引き換え日本の女性は…」で始まり、なかなか日の目を見ない「創部75年史」(仮)の話で市川がひとしきり俎上に上り、ニッカの水割りになる頃には、自然に当時の馬たちのこと、馬術論、遠征先の出来事、合宿のことなどますます盛り上がる。会えばしょっちゅう話している話題なのに懲りずに何遍でも次から次へと尽きない。

まさにエンドレス、男も集って飲み且つ喰うと中年女性のことをとやかく言えないくらいおしゃべりだということが判る。その上で、敢えて分別臭く言えば、それぞれの道で30年、50年と積み重ね、同じ時代を生きてきた仲間の体験、経験に基づく話は、話のうまい下手は別にして、随所に耳を傾けるに相応しい中身を持っているということ。だから共鳴・共感することも多く、面白く、楽しい。

話題の中で面白かったのは大場さんの「鞍付き」の話―ABさんのスペイン語習得の話から語学や音楽とセンスの問題へ、それに技術論が絡まり、馬術論に。その中で大場さんが「恩田君よりイソちゃんの方が“鞍付き”は良かった!…」と―。「鞍付き」が日頃の練習鍛錬で会得出来る技術的なモノなのか、持って生まれた天性の素質、センス、感覚的なモノなのか筆者には興味深いテーマ。それは、今、巷で喧しい「教育」論、特に「英才教育」との関連でどうなのか…と。

昔から芸術やスポーツの世界は英才教育で育てられた人材が少なくなかった。それが近頃は、動機は議論のあるところだが、兎も角、裾野は広がり奥も深くなってきた。ベースボールのイチローは別格として、ゴルフの遼君、テニスの錦織君、卓球やゴルフの愛ちゃんたちなど英才教育で育てられ、国際的に通用し始めた若いプロ選手が世界で大勢活躍している。明日の遼君や愛ちゃんを目指す予備軍も含めれば大変な数だろう。この現象は素直に喜ぶべきことなのかどうか。

スポーツの種類も本当に沢山あるが、生き物・馬と一緒に競技する馬術は特異な存在だろう。法華津選手のように70歳近いオリンピック選手は他の競技では考えられないのではないか。我々の時代から、馬術競技は、物心付いた頃から馬に親しみ、4,5歳から本格的に馬に乗る人たちが主流で、大学生から乗り始め、貸与馬で、団体中心で競技する我々が少数派でることは言うまでもない。

そんな状況にあって、北大馬術部が、馬術競技者だけではなくて、馬に興味・関心のある学生をも柔らかく包み込んだ運動部として創部80年を迎えようとしていることに、その存在する意味と意義があると改めて思う。馬術を磨くことは勿論、馬と親しみ、馬を通して多様な目的で集まった仲間たちの“絆”は強く太い。50年近くたった今夜もこうして仲間たちが集まり、楽しく盛り上がる時間を持てることが最大の成果のひとつであることは間違いない。いつまでも大事にしてほしい運営理念だと思う。

会は終盤、イソちゃん自らのセリフ「俺は歌も上手くなった!」で三度盛り上がり、「二次会は門前仲町の“カラオケ”だ!」にまで発展はしたが、なにしろ50年近く毎度このセリフを聞かされている我々だから、“付き合っていられない”派も多く、「次回は、東京OB会のお声がかりで、昨年に引き続き恩田の金山乗馬倶楽部で温泉と乗馬を楽しむ会で会おう」ということで21時過ぎ散会と相成った。(原 重一 記)


メキシコに端を発した「豚インフルエンザ」(その後「新型インフルエンザ」と呼称)騒ぎはこの会の直後のこと。ABさんは連休明けに現地に戻ると言っていたのだが、足止めを食ってそのまま日本に滞在中なのか、現地に戻ったものの罹患したか、あるいはしなかったのか不明。写真をみてわかるように顔つきからして現地に溶け込んでいるのでまあ大丈夫でしょう。

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群馬あかぎ国体のころ 三好功悦兄(S54卒)からのメール (2009.2.14)

ふと「国体馬術競技」資料を眺めていたら、<第38回群馬あかぎ国体(S58)障害個人第8位三好功悦>の記録が目に止まりました。最近では群馬大の主催「国立十大戦」へ遠征する北大チームを、毎年地元の高崎で応援されている三好功悦兄(S54卒)のことでした。ご卒業後の昭和58年「群馬あかぎ国体」に出場された思い出などを伺うと、三好兄から次のような返信を頂きました。(大場善明S37)

このところ東京OB会の行事にも参加できずに、皆さんには申し訳なく思っております。毎年群馬大で行われる「国立十大学馬術大会」の審判長を務める恩田正臣先輩(S39)にはかないませんが、地元でせめて応援だけでもと、現役の皆さんを激励しております。

 私がS56年、群馬の教員として就職の折に、群馬県庁の恩田正臣先輩へご挨拶に伺ったところ、S58年開催予定の群馬国体を手伝うように要請されました。やがて群馬県の選手として出場する大会も増え、さらに国体開催県として天皇杯を目指すようになりました。しかし卒業後に関東へ来て感じたのは、馬匹の優秀さはもちろんのこと、乗り手の技量が洗練され、私の技術レベルではとんでもない格差でした。練習で顔を合わせるうちに先輩の推薦もあり、群馬県の強化選手指定を受けて杉谷乗馬倶楽部や全日本総合馬術の合宿などに参加させていただきました。しかし目立つ実績もなく、自分なりに「あかぎ国体」では縁の下を支える役割に徹することを覚悟しておりました。

  「あかぎ国体」開催の昭和58年の春、群馬県は杉谷乗馬倶楽部からNZ産ハンター「コンフュージョン号」を購入することになりました。この馬の乗り役は当時、アジア大会日本代表で天才と云われた陶器修一氏。また陶器氏は、S59のロス、S63のソウル両五輪で日本代表に選ばれるなど、油の乗り切ったトップライダーでした。この人馬の訓練風景も私は杉谷合宿で拝見しておりました。130~140㎝程度は安心して見ていられましたし、回転、誘導も流れるように憧れの馬でした。突然、この県代表馬の乗り役に、縁の下を覚悟していた私が指名され大変な驚きでした。選ばれた理由は私には分りません。ただしそのように決まった以上は目標を「優勝」とし、絶対に弱音をはかないと心に決めました。そのころの自分には「優勝する」という言葉以外許されない、聞きようによっては傲慢な毎日でした。このコンフュージョン号は、あかぎ国体の直前まで大阪の杉谷乗馬で調教を維持してもらい、私が新幹線で大阪まで通いました。今でも、職場で運動部系の後輩教員たちとも話し合うことがあります。「木曜日の午前は授業をして、午後の新幹線で大阪へ。金、土、日の午前中まで馬に乗り、午後に群馬へ帰宅。月曜は朝の1時間目からきっちり授業をする」。どんなにくたびれていようと、これだけは守りました。

「あかぎ国体」での私の成績は、「成年障害飛越」で1落下の「個人8位」でした。また団体では、恩田正臣先輩(S39)と組んで「第2位」でした(*註1)。そのほか、コンフュージョン号で六段飛越にも出場して150cmを完飛できましたが、入賞は逸しました。このとき一番嬉しかったのは、恩田先輩以下いくつもの大学馬術部OBが一緒になって力を合わせ、指導した県内の少年たちが大活躍し、天皇杯優勝の原動力になったことです(*註2)。

「あかぎ国体」で自分の目指した成績は収められませんでしたが、貴重な体験を馬の世界から得たことに感謝しています。お節介ながら、これからも群馬に来られる北大の後輩たちに、カビの生えた体験談でも話して聞かせようかと思います。今後ともよろしくお願いいたします。

以上

(*註1):S58年群馬あかぎ国体<団体障害飛越>の上位成績は次の通りでした。
①東京(竹田恒和・植田元)②群馬(恩田正臣・三好功悦)③大阪 ④鹿児島 ⑤京都

(*註2):この「群馬あかぎ国体」<馬術競技>での地元「群馬県」の種目別成績は次の通りでした。
<総合馬術>=2位 <セントジョージ>=1位 <成年障害個人>=2、8位 <同団体>=2位 <少年馬場>=2位 <少年障害個人>=1位  <同団体>=5位  <少年貸与馬障害>=2位 

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中畠孝幸兄(S54卒)からのメール (2008.8.24)

北大馬術部「部報アーカイブ」を何度も見させていただいております。現役時代のことが懐かしく思い出されます。

<馬匹>ドンホッパーのページに、私と「ドンホッパー号」の写真を掲載していただき有難うござい ます。この写真は、S53年の「全日学」二回走行の二日目、馬の調子がとても良く、私自身にも次の障害を見据える余裕のあるところが気に入っています。

私の卒業記念に、後輩たちが大きく引き伸ばしパネルにして贈ってくれた思い出も深く、「ドン」の ページにふさわしい写真と思っています。いつも、北大馬術部「後援会ホームページ」を素晴らしいものにしていただき、感謝しております。

(2008/8/23 出張で滞在中の台湾より)  中畠孝幸(S54卒)

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佐合義弘さんと「H4部報」 ―今も北大ジャージーを大切に― (2008.8.6)

平成20年7月、当初からの念願だった「部報アーカイブ」がオープンしました。この原本の多くは、第六代部長 半澤道郎先生の丹念な蔵書「半澤文庫」で完成しました。戦後の昭和30年度「部報第1号」から膨大な資料の電子化は、札幌の現役諸君や後援会の皆さんが取り組んでくれました。厚くお礼申し上げます。部報バックナンバーの整理中に、「平成4年度」の表紙が目にとまりました。生き生きとした馬の表紙挿絵のサインに「Y.Sago」とあります。そう、あの特別後援会員の「佐合義弘さん」でした。早速、「部報のことなど覚えてますか」とお伺いしたところ、次のようなメールと写真が届きました。

<メールを有難う。この「平成4年度部報」は、「表紙」も「飼料小屋」(*1)の記事も良く覚えています。きっかけは飼料小屋の新築に私が手を出した関わりから、記念に私が「部報の表紙」を描かせてもらったものです。最初は表紙の下書きに「三頭の馬」を描いたのですが、欲張りすぎて期日に間に合わなくなり「一頭」だけにした思い出があります。モデルは北大での愛馬「北楡号」(*2)のつもりです。少しは雰囲気がありますか?。

当時「17条馬場」時代の馬術部は、部の軽自動車も使い過ぎて潰れ、飼料小屋も屋根が落ちかけ、乾草カッターも切れなくなるなど散々でした。私は見るに見かねて当時の斎藤善一部長に相談し、全費用を私が負担することを条件に、「飼料小屋」の新築を学生部と交渉したのを思い出します。このとき大学側はなかなか「うん」と言わず手こずりましたが、幸い学生部に私の知人がいて助言をもらいながらようやく許可を得た経緯があります。

ご存知と思いますが、あの「17条馬場・厩舎」の後方(モデルバーンの敷地)はもともと湿地状態で、飼料小屋予定地の基礎を打つのにも大変苦労しました。「乾草カッター」は千歳の農機具工場まで中古の機械を探しに行き、組み立てなおして整備、予備の替え刃もつけてもらって購入できました。飼料小屋の中には「鞍置き」「馬具置場」のスペースも作りました。外壁も部員で綺麗に塗装すべくペンキも用意しましたが、私は仕事が多忙で時間がなく、現在の「24条厩舎」移転までに果たせませんでした。

この他にも馬術部との思い出は沢山あります。北大馬術部「部報第1号」の制作も、北大生協プリント部での「ガリ版刷り」を私が薦めました。代々の北大馬術部長には色々お世話になったり、大学との交渉ごとなどその移り変わりにも思い出深いものばかりです。

あるとき北大部員がお揃いの練習着を作ると言うので、私も仲間入りして購入しました。隠居となった今でも、この「北大ジャージー」を大切にしています。雨さえ降らなければ近所の「中島トニアシュタール」、「ウィンズ乗馬クラブ」などで、毎日一鞍を日課にしています。私は、たぶん身体が動かなくなるまで馬との付き合いは止めないでしょう。

(2008/ 7/31)水戸の隠居こと・佐合義弘 


・註(*1)「飼料小屋」:馬術部のお馬さんが可愛そうだと、佐合義弘さんが費用の全額を負担されて「飼料小屋」を厩舎脇に新築、平成4年12月20日に落成、馬術部に引き渡されました。詳しくは「平成4年度部報」(63P)「新飼料庫建設報告」にあります。また「24条厩舎」へ移転の折は、市川瑞彦部長(当時)の発案で、その記念に「佐合義弘様飼料庫メモリアルプレート」が今でも新厩舎(24条厩舎)に残されています。

・註(*2)「北楡号」:佐合さんは、ポプラ並木馬場の時代には北大乗馬同好会のメンバーとして、毎週土日には必ず馬場にお見えになり、愛馬「北楡号」がお気に入りでした。この「北楡号」は千葉幹夫さん(S34卒)がS33年の富山国体「総合馬術」に優勝した馬でした。このときの佐合さんは、わが子の栄誉とばかりに喜んでおられた姿が思い出されます。さらにこの「北楡号」は、第四代馬術部長の太秦康光教授が函館工専の校長に栄転された折、S39年9月、太秦先生に請われて北大から函館乗馬クラブに転厩することになりました。その後も佐合さんは「北楡号」を慕って函館まで出かけ、太秦先生のご自宅に泊めてもらいながら「北楡号」との旧交を温めたエピソードもあります。この「北楡号」への熱き想いを、佐合さんは「平成4年度部報」の表紙に描いてくれました。


佐合義弘さんは、今年82歳になられたそうです。私の学生時代には毎日、北大「中央食堂」でお世話になりました(当時は「中食」、「学食」と呼び、今のクラーク会館の横あたりにありました)。そして馬術部の合宿には、必ず新鮮な食材の差し入れが佐合さんから届けられました。佐合さんのお仕事も多忙で、北大生協→札幌市民生協→日本生協連合会(渋谷)の要職を勤められ、最後の生協連合会では5年間中国に駐在して商品の開発買い付け、店舗展開を手がけられたそうです。平成13年9月、コープ退職を機に札幌から現在の水戸に移住され、今なお近所の乗馬クラブで毎日楽しまれています。いつまでも、馬とともにお元気にお過ごしください。

なお「平成4年度部報」を改めて読み直しましたら表紙の佐合さんの挿絵以外に、「北萌」の題字は、第九代馬術部長「斎藤善一先生」の揮毫によることが分りました。(補記 大場善明)

佐合さんからのアルバム

画像をクリックすると、拡大画像が表示されます。
 
  佐合さんが描いてくれた「平成4年度部報」の表紙挿絵。モデルは、S30年代に佐合 さんが愛した北大の「北楡号」とのこと。表紙題字「北萌」は、第九代馬術部長「斎藤善一先生」の揮毫
  このたび写真と一緒に届けられた佐合さんの力作。当時の「北楡号」を思い出しながら、あらためて便箋にスケッチして送ってくれました。
  佐合さん寄贈の「飼料小屋」建築中の様子。(「平成4年度部報」より)
  ポプラ並木馬場で「北大乗馬同好会」の懐かしい練習風景。 (左から)下飯坂隆氏(S28卒)、渡植貞一郎氏(S28卒)、植木(瀧澤)迪子女史(S40卒)、佐合義弘氏(特別会員)の4人。(S30年撮影)
今なお練習には「北大ジャージー」を愛用する佐合義弘氏。乗馬はハーフリンガー種「春香号」。(H19年3月撮影)
馬仲間と大洗海岸へホーストレッキングに出かけた佐合義弘氏。乗馬は「クリオネ号」。(H20年春撮影)
 

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北大馬術部「38同期会」札幌国際スキー場分科会です (2008.2.12)

2008年2月12日
市川 瑞彦(昭和38年卒)

皆さんご健勝のことと思います。

去る2月6日、原重一氏から2月11日に札幌国際スキー場へのスキーに付き合わないかとの誘いのメールが入った。次の日から2日ばかり札幌で(?)仕事をする予定という。原君とは彼が札幌に出てきたときに、昼や夜に会って話をすることはあったが、スキーをしたことはなかった。小生の返信より早く、ポンチャン(岡田征至氏)からはOKの連絡が入っていたし、小生もその日は特に用事がなかったので、多分学生時代以来の原・岡田と3人でのスキーが実現した。

一緒に滑るぐらいに考えていたら、以下のように”大名スキー”行となった。まず、行く車中でスキー場から電話が入った。「いまどちらですか」と相手は言っているらしい。聞けば、センターの入口の近くに駐車スペースを確保してくれるという。車種とナンバーを知らせてあったので、駐車係の人が確認し、スムーズに特上スペースに駐車とあいなった。

原はウェアとスキーをレンタルしていたが、交通公社から派遣されているという人に案内されたところレンタルルームであった(写真参照)。

そこには、ソファー、テレビ、お茶が用意されており、1日使っていいと言う。おまけに、リフト1日券、お食事券、マッサージ割引券3人分が用意されていた。

こんな贅沢なスキーは小生はじめてであった。札幌国際スキー場は、ご存知の方も多いだろうが、原君が30数年前に調査・計画から開発・建設までマスタープランナーとして関わった思い入れの深いスキー場である。交通公社を退職してから早くも5年が経つにもかかわらず、その”ご威光”はまだそんなに残っているのに感心した。 


お互い幾星霜を経ているが、原君の滑りは猪谷くにお(漢字忘れた)門下の名残を感じさせたし、ポンチャンも「攻めの滑り」を見せた。原のウェアが黄色なのはレンタルなので別として、ポンチャンのウェアは奥さんがボランティアでもらってきたものらしいが、目立つグリーンの蛍光色の上に「Technical Staff」と書いてあるので、スキー場のスタッフは「どちらさん?」と言う感じで見ている。ポンチャンはそれが気に入っているらしい。ポンチャンいわく、「市川のウェアは目立たないので、どこにいるかわからない」そうだ(!)(写真参照)。

天気も悪くなく手稲山や札幌市街が遠望できたし、連休最終日にしてはすいていたし、雪質も上の部類で快適であった。ただ、昔との違いと言えば、途中一息いれる時間が心持ち(?)長くなり、その間おしゃべりをしていたことか。原は、調子が出てきたのでもう1回と所望し、合計4回頂上から滑ることになった。若いときならいざ知らず、70に手が届きそうな輩が3人集まって、「行かないか」、「あいよ」と即座に実現するのは、なかなかないことではないかと思う。お互いスキーをするのに重大な障害がないということで、まずは結構な話である。またやろうと、それまで原のご威光が減衰しないことを祈るなどという、本音とも冗談とも言う言葉も出たスキー行であった。帰りには拙宅に立ち寄り、ワイフの手作りのケーキとコーヒーで、こ一時間ほど談笑して幕は下りた。
では皆さんも元気で。


註1: これには後日談があり、この投稿を見た大場善明先輩が、馬術部HP「掲示板」で、市川君もボケたか、あの「いがや・くにお」の漢字 忘れたとは、「猪谷六合雄」だ、と正解を寄せていただいた。70寸前でまた指導していただきありがたき幸せだ。

註2: また、かって後輩の我々同期を引率してニセコの山の家に泊まり、ニセコアンヌプリの北斜面や北東斜面の深雪を楽しんだ(?)想い出に言及されている。大場さんが選ぶ「スキー四天王」は、原 重一、岡田征至、堀川芳男、市川瑞彦とのこと、まことに光栄の至りです。堀川君亡き後、現存四天王スキー場に勢ぞろいということになる。しかし、馬術部としては、「障碍四天王」などと呼ばれるべきであったかもしれない。

注3:原重一氏は、東大・工学部・都市工学科を経て(財)日本交通公社に勤務。退職後現在個人事務所をかまえ観光開発の仕事を続けている。岡田征至氏は、拓銀、日本工学院北海道専門学校を経て、現在親族が関係する「光生アルミ」のリクルート担当の仕事に従事している。

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小出秀達・小島武両氏の近況 (2007.5.12)

2007年5月12日
市川 瑞彦(昭和38年卒)


若いOBの池田智義君(H10)の結婚式に招待され、2007年5月5日-7日、神戸・大阪に滞在する機会がありました。この機会を利用して、小出秀達(S38)、小島武(S39)両氏に会ってきました。皆さんに両氏の近況を簡単にお知らせします。

小出秀達氏は、ここ10年ばかり持病(心不全)をもちながら大阪市内で内科・神経科を開業し続けています。男の子ばかり4人の子どものうち、3人が医者としての人生を歩み始めましたが、まだ後を継がせるには早く(?)、もうしばらく働かなくてはならないとぼやいています。末の4男坊は彼の念願が叶って、母校北大に合格し、現在農学部の大学院に進学。それが絶好の口実なのか、様子を見に行かなければと言って、犬の世話を奥さんに押し付け、貴重なゴールデンウィークを利用して北海道を慌しく訪れることもあります。

彼の日課は、ラジオ体操をし、庭に所狭しと並んだ発砲スチロールの箱に挿し木をした桜・梅などの苗木に水をやり、アイヌ犬の愛犬の散歩をすることです。これで2時間を要します!


また、休日など自由な時間は、奈良県の古刹、當麻寺がある當麻(たいま)にある土地(自称「當麻農園」)で、奥さんは菜園を、彼は樹林(?)育成をやっています。前述の苗木はここに移植されます。

今回は小生にとって2回目の現地視察となりました。写真で小生が持っているのは、はじめて収穫されたさくらんぼです。さくらんぼはネットをかぶっており、それがないと鳥が皆食べてしまうそうで、さすが関西は厳しいと思いました。また、彼は情操教育の一環として、水琴窟の普及事業に取り組み、自宅の庭はもちろんのこと、料亭などに設置したり、名寄市立大学に寄付したりしています。写真で小出がもっているのは奥さんの収穫したさやえんどうです。昔日の美少年の面影は、やや後退しているかもしれませんが、会うと本質は変わっていないということがわかるでしょう。最近彼の体の調子はあまりよくなく、遠出は自粛しているようです。彼が遠くに旅行するには体調と自信の回復が必要との印象を受けました。

小島武氏は、永らく「カネカ」に勤務し、近年は薬剤の承認・認可をとりつける仕事をしていた関係で、FDA(アメリカ食品医薬品局)との折衝などでアメリカ出張も多く、その機会に馬術の知識や道具を仕入れてきていました。


また、彼は神戸の乗馬クラブに自馬(チグサオー)を持っていて、それらの経験をもとに、これまでも彼の持論を拝聴する機会がありました。退職を機に自馬を手放しましたが、法律の勉強に目覚め、司法試験合格を目指して猛勉強をしておりました。残念ながら、最近脳梗塞を発症し、2度入院しましたが、幸い気がつくのが早かったため、ひどいことにならず済んだようです。話し方が少しゆっくりなのと、右半身に軽い麻痺が残っていますが、現在リハビリに励んでいるそうです。

退院後、何とまた勉強を続けるため早稲田ゼミナールに通い始めたそうです。さすがに、病み上がりでは厳しく、奥さん(や周りの人?)が合格は「100%無理」と言うと、彼は怒るそうです。「99.8%無理」と言えと。勉強にのめりこまないのならリハビリにいいとのことですが、彼の性格上中途半端は難しそうで、奥さんも激励半分・心配半分といった感じでした。私も彼ぐらい意欲的な毎日を送らねばと刺激を受けました。

結論としては、形態上は二人とも永い年月の風雪を受けて、多少修飾を受けて今日に至っていますが、内容は容易に変わることなく保存されているということでしょう(小生も例外ではありませんが)。

ではまた、皆さんのご健勝を祈ります。

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土木学会誌にて (2007.3.17)

2007年3月17日
中村 晃史(平成9年卒)

ご無沙汰しております。
土木学会誌にて 岡田監督へのお悔やみを見つけました。


岡田監督
(社)土木学会編 「土木学会誌」 2007年2月号 より

今更ながら監督の偉大さを痛感しております。

福岡から 中村晃史

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