追悼 飯野秀之君 千の風になって

飯野秀之君
18条馬場時代の飯野秀之君
と北美号(メールエクスプレス)
 

全国的に記録的な猛暑に見舞われた平成19年8月15日、飯野秀之君(S58卒部)を永遠の帰らぬ人として葬送することになりました。今このことを書くとあまりにも悲しい出来事で、つらい思いばかりが増してきます。ここに皆さんとともに飯野秀之君をささやかに想い出し、いつまでも記憶に留めることができればと考え、この場をお借りしてご報告させていただきます。

飯野君とは、たまたま中学高校(東京、芝学園)が一緒で、仲良く1浪して北大に入学、そして私たちは馬術部に入部しました。北大卒業後も良く飲みに行ったり、一緒に北海道旅行に出かけたり年に何度も会う仲でしたが、この10年はお互いに仕事や家庭の優先で忙しく、お互い顔を会わせるのも2~3年に1度くらいの間柄ではありました。

そしてこの夏、私が1週間ほどの夏休みで旅行から戻った8月12日(日)の夜、飯野君のご家族から飯野君が危篤との緊急連絡を受け、あまりにも突然の衝撃に気が動転し、頭の中が真っ白になってしまいました。翌13日(月)に慌てて、同期の増田美希夫君(S58卒)にも連絡し、2人で飯野君の入院する杏林大学附属病院へと駆けつけました。

飯野君は病室(ICU)ですでに病「悪性リンパ腫」(血管内大細胞型B細胞性リンパ腫)と闘っていたのですが、その時には深く鎮静しており、我々の呼びかけにも応じることはありませんでした。病室では、ICUに入院した時に彼自身が持って来てほしいと家族にリクエストしたと言う小田和正の2枚のCD(自己ベスト・そうかな~相対性の彼方)が静かに流れていたものでした。

ご家族のお話では、6月の初めに発熱し、下旬には咳が止まらない為、7月3日に一般病棟に検査入院をしたところ、肺、肝臓、腎臓に病変が見つかり、悪性リンパ腫、その中でも極めて稀で厳しいものであると診断、7月9日に病名の告知を受け、同17日に集中治療室に移られ化学療法を開始したとのことでした。

8月5日には彼の「48歳の誕生日」をご家族や看護師のみなさんでお祝いをされたとのことでした。その2日後に容態が急変し、一進一退を繰り返しながら1週間近く経過した頃、ご家族からの知らせを受けた私たちが飯野君のお見舞いに伺った次第でした。

私たちは「飯野!何とか快復してくれ!」という強い思いのままを病院に残し、この状況を現役時代一緒に過した馬術部OB仲間に増田君から連絡をしてもらい、全国各地にいるみんなで彼の快復を祈っていたものでした。

そんなみんなの祈りも届かず、15日(水)14時48分、これ以上はともに飲み、語り、笑うことができぬ人となってしまいました。(死因:悪性リンパ腫、享年48歳)

学生時代の飯野君は成績優秀でバランス感覚がよく、中学高校時代は体操部で活躍し、数々の大会に参加しながらも何度も「学年トップ」の成績を取っていました。大学に入り馬術部に入部してからも、当時、部員の半分近くは”留年者”が常識(?)と言われる中、部内での重責をしっかり果たしつつ、留年せず工学部電気工学科を4年で卒業しました。

皆様もご存知のとおり馬術部での4年間は、部員とほとんど寝起きを共にしながら、夏休みなども帰省せず一緒に合宿し、おそらく家族の次に密度の濃い時間を過ごしたのではないかと思います。当時は飯野君が大好きだった「オフコース」の曲がはやっており、部室や誰かの部屋に集まり酒を飲みながら当時のお互いの悩みや、将来の希望・目標について語り明かしたものでした。

2年生の秋には、前任の松岡功兄(S56卒)から「北美(ほくめい)号」(牝馬11歳、愛称メール)のチーフを引継ぎ、学生馬術の最高峰「全日本学生馬術大会」を目指しておりましたが、飯野君の代では報われませんでした。しかし飯野君にとっては最高の「彼女」、愛馬「メール」と過ごした2年間、時には喧嘩をし反抗されながら、何事にも代えがたい至福のときだったと思われます。

彼は昭和58年、北大卒業と同時に富士通株式会社に入社し、また昭和61年10月10日には、「ウィンドサーフィンが縁」で同期の増田君が愛のキューピットとなり、めでたく由貴子さんと結婚、2人のお子さんたちにも恵まれました。息子さんの大志君はこの春高校を卒業し来春の大学入学を目指して勉強中、娘さんの萌香さんは高校2年生となりました。もともと子煩悩な彼はお子さんたちとの時間を大切にし、その成長を見守り続けているそのさなかの出来事でした。会社では、入社以来、マイコン設計関係の仕事に携わり、今年の4月には電子デバイス事業本部・商品事業部長にも昇格しておりました。会社からは将来を嘱望され、上司、同僚、部下からの信望も厚く、さらに取引先からも信頼され、これからの「富士通」を背負って立つ矢先と言っても過言ではなかったようでした。

さる8月17日(金)のお通夜には、会社関係の方が300人以上も弔問に訪れ、会社からの期待や職場の信望が厚かったことを伺わせておりました。

また北大馬術部OBでは悲しみを胸に、北は北海道・宮城・新潟から、西は大阪・兵庫、など遠方からもお通夜には9名が参列し、翌日のお別れ会には19名のOB・OGが飯野君との最後のお別れ、そして野辺のお見送りに集まりました。また、参列できなかった方からも、飯野君の思い出を書き綴ったたくさんの弔電を頂いたのも彼のお人柄でしょう。同期の仲間としてまた友人として、とても嬉しく誇りに思いました。

飯野君が病気になる前、たまたまZARD坂井泉水さんの葬儀を見ながら夫婦でお互いの人生のしめくくり方を話し合う機会があったそうです。そんなことから、彼のご葬儀は本人が希望する「自由葬」で執り行われました。彼が学生時代から好んで口ずさみ聴いていた「オフコース」の曲、ICUでの闘病中毎日聞いていた「小田和正」の2枚のアルバムが流れる中、参列者一人一人からの献花、そして今は棺の中でただ目を閉じて横たわる飯野君との最後の対面をし、安らかに眠って下さいとの祈りが続きました。 お別れ会でご遺族を代表して飯野君のお父様がご挨拶をされましたが、飯野君が入院されてから病との壮絶な闘いにも弱音を吐くことなく、「元気になってまたみんなに会いたい」との強い意志でひたすら頑張り続けたことが披露された時には、参列者の悲しみをさらに深くしました。あの「千の風になって、またみなさんの前に現われるかもしれません」というくだりには、私もそうあって欲しいと思ったものでした。

しばらくしてから奥様からお聞きしたのですが、ご両親は飯野君が入院してから、ご自宅のある千葉県の市川から入院先の病院のある吉祥寺まで、始発電車に乗り看病に通い続けていたとのことでした。さぞや本人の無念、そしてご家族の深い悲しみはいかばかりかと、推し量ることもできません。

ご葬儀に参列していただいた馬術部OB・OGのお名前を以下に記載します。(敬称略)

【お通夜】
  大場善明[S.37年]、景山博文[S.50年]、高橋均[S.56年]、
  岩橋(旧姓、今)由美子[S.57年]、石井洋行、齋藤牧人、
  増田美希夫[以上S.58年]、
  世良健司、名越正泰[以上、S.59年]

【お別れ会】
  石黒直秀[S.55年]&奥様のゆう子様、篠田聖児、高橋均[以上S.56年]、
  石井洋行、小泉清重、齋藤牧人、築地和彦、増田美希夫[以上S.58年]、
  世良(旧姓、佐藤)仁美、世良健司、名越正泰、町田雅人[以上、S.59年]、
  上本浩之、田面木(旧姓、国枝)由紀、丹野宏昭、中川千夏子、
  平石哲生、平山復志[以上、S.60年]、山田和男[S.61年]


卒業以来、20数年ぶりに再会したOB・OG同士もいましたが、これも飯野君が引き合わせてくれたのだと思います。でもこんな悲しい形での再会は絶対に嫌です。

なお、ご都合が合わず、参列が叶わなかった西川理一さん、島村努さん、北畑裕さん、松岡功さん、井上京さん、川俣(旧姓、折橋)由美子さん、斉藤(旧姓、平田)委久子さん、野中道夫さん、鈴木(旧姓、嶋田)明美さん、森田敏さん、野中(旧姓、小役丸)千加子さんの諸兄諸姉からも、お弔電やご供花にご賛同いただきました。ありがとうございました。

<飯野よ、君はいつまでもみんなの心の中にいるよ。
 千の風になって、みんなをいつまでも見守っていてくれ。>   合掌

(S.58年卒 石井洋行)


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