ポプラ並木のそばに北大馬術部があったころ 追記:

宮崎 健(昭和38年卒)

上の原稿は「馬術部75周年誌」用に2005年1月に書いたものですが、記念誌の制作が遅れているようなので一足先にウェブに掲載しました。この機会に一部加筆、また関連項目へのリンクなども行いました。2年の間に、写真に写っている部員が3人も鬼籍に入りました。残された者として彼らのことに触れないで通り過ぎることはできないので、いささかの紙面を拝借して報告とします。

◇ ◇ ◇

我々が最初に訃報に接したのは堀川芳男君でした。

合宿風景
読売37/12/19
 

上の合宿風景の写真、また「市川主将を見舞う」読売新聞の記事でともに左端の最前列に写っています。平成17年1月の東京OB会の新年会直前でした。夫人から、「平成16年12月25日亡くなった」旨の連絡を頂き仰天しました。

その年の秋、私がいる八ケ岳の山墅にひょっこりやってきました。彼のお姉さん夫婦が2キロほど下の牧場のそばに教員仲間で建てた山荘があり、彼が自由に使っていたので、よく夫婦でやってきました。すぐ上の八ケ岳の主峰・赤岳や横岳に登るのに、我が家のカーポートにクルマを置いて気軽に登っていたのですが、このときもそうでした。

愛用のセルシオのトランクには常時登山靴とスキー用具が詰め込まれ、思い立ったらすぐというのが彼の流儀です。しかしこの時来客がありました。全日空の元役員だったのですがやけに話がはずみました。長らく東京OB会の会長をされていた東園基文さんの息子さん、基宏氏は学習院大学の馬術部OBですが、よく親子で馬事公苑の観桜会に見えていて我々とは旧知の間柄でしたし、私はその後も全日空常務や全日空商事の社長をされているとき仕事で付き合いもありました。

その基宏氏がこの方の部下だったとわかると、堀川君は俄然ひざを乗り出しとうとう山登りをあきらめて我が山墅に泊り込み夜遅くまで飲みながら話し込みました。翌朝、日当たりをさえぎるカラマツの大木を切ろうとしていたところ「一宿一飯の仁義だ」とチェーンソーで手伝ってくれました。今も残る切り株を見ては偲んでいます。

私の娘が東京乗馬倶楽部で馬に乗れるように道筋を付けてくれたのも堀川君でした。N大学馬術部の裏口入学に馬が使われている、とオリンピックの馬術コーチをしている夫婦が訴えられたときは訴状を持ってきて「許せない」と報道するよう私の尻を叩きにきました。一本気なところが人に愛されて、東京ガスの神奈川支店長は私のゴルフ仲間でしたが、堀川君の会社にしか広報の仕事を回さなかったほどです。われわれが北大馬術部の同期生と分かると丸ごと北大ファンになってくれました。

大場善明先輩のメールには「とにかく驚きました。とうとう 昭和37年”学生王座”優勝メンバー、あの”Magnificent 7”が欠けたか。闘将そのものだった。恵迪寮の部屋を訪れると、堀川君が寝ている部員をたたき起こし、深夜の雪道を全員シャツ1枚で、恵迪寮から桑園の競馬場と走った」とありました。

亡くなったのはどうも雪山で遭難したらしいのですが、まだ家族に確認していないので断定はできません。その後馬術部同期生数人で東京・中野の「功運寺」に墓参しました(写真はここに)。戒名が「駒岳・・・」で始まるのと、クルマに登山道具一式を積んでいたことから、彼らしいとは思っています。

その次は八木正巳君でした。

馬運車

馬運車の写真で後ろの方で首を突き出して写っています。平成17年(2005)8月3日出先から札幌に戻る途中交通事故死しました。新聞記事では交通事故になっていますが運転中に持病が悪化したのではないかと聞きました。

上の原稿で、合宿の後遺症に悩まされたとき、ある部員が買ってきた「なんとかチンキ」を筆にひたして、塗ってくれたが、その痛いこと・・・と書きましたが、実はそれが八木正巳君です。あの照れたような薄笑いがトレードマークでしたがその瞬間はマゾの気があるのではと思えたものです。多賀子夫人は馬術部OGです。知る限り、お二人が馬術部内結婚のはしりですが、まあこんな下世話な話、夫人もはじめて聞くと思います。

瀧澤南海雄君もご家族からのメールで知りました。「平成18年(2006)9月14日午後7時45分、瀧澤南海雄は急性間質性肺炎のため64歳の短い人生を閉じました。平成15年3月に北海道立林産試験場を定年退職し、その春より鍼灸師資格取得のため3年間札幌での学生生活を過 ごしました。この5月、旭川で開業の運びとなり、これから第2の人生というところで病魔に襲われてしまいました。こじらせた風邪が回復せず7月3日に旭川厚生病院を受診したところ、間質性肺炎の疑いと診断され、6日に入院。 本人は病状を把握しないまま最期を迎えたと感じております」。由利夫人と二人の息子さんの名前でした。

八木君も写っている馬運車の写真で、馬の耳の間から顔を見せているのが瀧澤南海雄君ですが、私にとってはキノコの師匠でした。自分のホームページで我が山墅の周りに生えるキノコに毒があるかどうか悪戦苦闘しているとき、横田肇君(昭和40年卒)がたまたまサイトを覗いて、その惨状に同情して身近なキノコ博士を紹介してくれたのです。

「私は就職先でキノコの栽培と品種改良を担当していた関係で、全くの素人より、キノコに出会う機会が多かっただけですが、できるだけ先輩のお手伝いします。食べられるものを憶えるより、毒キノコは数がしれているのでこちらを憶える方が早いのです」と教えられ、なるほどと、以後出合ったキノコの下書きを送っては添削していただきました。彼がチェックしたキノコの話はここにあります。

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そのうち撮影した白鳥の写真つきのメールなどが送られてくるようになりました。それには「びっくりしたのは、私が作曲した『馬術部賛歌』を、後輩たちが全く似ても似つかぬメロディーで歌ったことです。40年の歳月の中で、とてつもなく変形してしまったのですね。楽譜と言うものがあるのに、誰も読まなかった訳で、お前らは物事の真理を検討するのに、文献を当たらないのか、と意見をしてしまいました」とありました。

大場さんからのメールに作曲のエピソードが書かれています。「瀧澤君は本当に多才な男でした。生前ご本人から伺ったら、作詞の三浦清一郎君から依頼され、二つ返事でOK。数日後、どちらが好きか、(A)、(B)から選んで、と洋楽風、和楽風二つのメロディーを差し出したら、三浦君が”どちらも素晴らしい。両方いただく”といったので二つのメロディーを押し込んだのがあの曲だそうです」。

(おわり)

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