千葉幹夫氏を偲ぶ


・千葉幹夫さんを偲んで 春田恭彦(昭和44年卒)

・千葉幹夫さんの訃報に接して 市川瑞彦(昭和38年卒)

・千葉幹夫さんと東京OB会 樋口正明(昭和34年卒)

・「千葉幹夫さんと北大馬術部東京OB会」アルバム

 

千葉幹夫さんを偲んで (2016.1.5)

春田恭彦(昭和44年卒)



千葉幹夫氏


千葉幹夫さん。
「馬術教本」編集にあたり2014年末、
ご子息の祥一氏から提供を受けたもの。
地元紙に掲載されたもので最晩年の
撮影と思われる。

北大馬術部の誇るべき大先輩千葉幹夫さんが平成27年12月8日、お亡くなりになりました。癌に負けたとのことです。

デジタル化していただいたバックナンバーの部報を開いてみると、千葉先輩が北大馬術部時代、鎌田正人先輩や同時代の仲間とともに残した数多くの輝かしい戦績が覗えます。貸与馬戦では東京等まで遠征した大会を含めてほとんど勝利し、国体、馬事公苑での全日本や名古屋での学生自馬でも優勝を含む上位入賞を果たしています。面白いことに、同好会には勝てないとのジンクスがあり、それを破ったとのコメントもどこかにありましたが。

千葉さんは昭和34年に獣医学部を卒業し、獣医師として日本中央競馬会に奉職しました。日本中央競馬会の最初の任地は中山競馬場競走馬診療所でした。就職してからも仕事と並行して中山競馬場の乗馬に乗り、その卓越した技術を磨かれていました。昭和39年の東京オリンピックを控え、馬術部現役時代に教えを受けた鎌田(セントベル号)さんとともに総合馬術の候補選手として頑張っていました。馬は、中山競馬場で出会った「真歌」。真歌はその名のとおり静内の真歌山で生まれた中間種。自ら調教してオリンピック馬に育て上げました。結果、見事4人の総合馬術選手の一人に選抜され、軽井沢で行われたオリンピックに出場しました。


千葉幹夫氏02


東京五輪での真歌号千葉幹夫さん(障碍飛越)
(ご家族提供)


千葉幹夫氏03


東京五輪での千葉さんと真歌号(馬場競技)
(ご家族提供)

思わぬ悪天候で外国選手にも失権が相次ぎ、日本の3選手が失権する中、34位ではありましたが見事完走しました。国内にいては国際競技会など出るすべのなかった時代で、日本ではオリンピッククラスの総合馬術など行われていなかったことを考えると、快挙です。過去のオリンピック総合馬術では1928年アムステルダム大会の木戸俊三氏、1932年ロスアンジェルス大会での山本盛重氏に次ぐ3人目の完走です。因みに日本(馬術)のオリンピック参加は1928年のアムステルダムが最初です。次のメキシコ大会(1968年)ではジョセフィン号で総合馬術にただ一人(障害馬術には荒木雄豪、杉谷昌保、福島正が参加。)参加し、結果は残念ながら失権でしたが、戦後の日本における総合馬術の流れを作ったと言えると思います。

東京オリンピックでの教訓を足掛かりに、競馬会と日本馬術連盟は昭和41年フランスからピエール・デュラン大尉を招聘し、馬事公苑において6か月間におよぶ障害馬術の講習会を実施しました。それを機に大尉の尽力で日本中央競馬会のソミュール騎兵学校留学制度が立ち上がりました。その留学生第一号が千葉さんでした。千葉さんはフランスにおいて訓練や勉強ばかりでなく多くの競技会で戦績を残し、ソミュール騎兵学校と日本の確固たるパイプを築かれました。また、短い期間ながらフランス語を修得し、馬術書の翻訳・監修や執筆に勤しまれました。代表となる著書に「馬術入門(昭和47年)」、「馬術概論(昭和59年)」、「はじめての乗馬(平成元年)」、「馬-乗馬・馬術を志向する人達へ向けて(平成22年)」ほか、刊行された翻訳書では「エキタシオン・アカデミック(昭和53年)」、「ライディング(昭和59年)」、「ロングレーン調教(平成7年)」などがあります。さらに晩年まで馬術書の翻訳に取り組んでいたほか、新たな視点で馬術書の執筆にもあたっていたと聞いています。

馬事公苑長や日本馬術連盟常務理事などを歴任し1995年、競馬会退職と同時に、岩手県遠野市に建設中の競走馬調教施設における職員養成所の所長として招かれました。遠野市では昭和40年ころから乗馬の生産が行われていましたが、生産の拠点となる農用馬・乗用馬の種馬場のある地に岩手県競馬の調教場を兼ねた1000m馬場・屋根付坂路・覆馬場を備えた一大競走馬調教施設兼乗用馬拠点を建設する計画が進行していました。乗馬の生産地といっても生産規模は小さく、何よりも騎乗技術者は皆無といってよいくらいでした。そこで千葉さんを招き、騎乗職員養成所を立ち上げたのです。

「遠野馬の里」として施設は完成し、千葉さんが育てた人材も機能してきました。競走馬施設としてはもとより、日本の数少ない乗用馬の生産地に技術が導入され注目を集めるようになってきました。職員養成所の目的が終了し退任するにあたり、ご子息の祥一氏(昭和40年生)を呼び、その後の「馬の里」の技術部門の運営を託されました。千葉祥一氏は専修大学馬術部で活躍した後、NTTへお勤めでしたが、馬とともに働きたいという強い気持ちで一大決心をして父に続きこの仕事に就いたそうです。祥一氏の仕事は「馬の里」の3つの事業「競走馬・乗用馬の育成事業」、「乗用馬・農用馬の繁殖事業」、「馬とのふれあい事業」の運営とその高度化であり、父が教えた何人かの仲間とともに立派に遠野の評判を上げています。

千葉さんは引退後故郷の岩手県前沢でお暮しでした。毎年秋の遠野の乗用馬市場に出向き教え子に会い、若馬を見るのを楽しみにしていましたが、昨年は病のためそれができませんでした。12月12日に行われた葬儀では、4人のお孫さんほかご親族、前沢の幼馴染や一関一高のクラスメイト、馬術関係者、長男祥一氏の仲人を務められた東京OB会樋口正明会長ほかに見送られ旅立たれました。葬儀の司会者が「北大馬術部獣医学科卒業」と紹介したのが印象的でした。

私は北大馬術部の後輩は当たり前ですが、獣医学部卒、競馬会では中山競馬場診療所からスタートしたこと、馬事公苑長をやったこと、日本馬術連盟常務理事をやったこと、一時ではありますが競馬会本部馬事部で机を並べたこと・・・など千葉さんと多くの共通点があることに気づきました。大きな違いはオリンピックですが、今は日本馬術連盟理事長としてリオデジャネイロに向けて、そして2020年TOKYOに向けてオリンピック対応に頑張っていますので、ある意味それも共通点かもしれません。

千葉さん、ありがとうございました。安らかにお眠りください。

(日本馬術連盟 理事長)

以上


岩手日報掲載の訃報
千葉 幹夫氏(ちば・みきお=総合馬術の五輪日本代表)
 8日午後1時52分、原発不明がんのため奥州市内の病院で死去、80歳。奥州市前沢区出身。自宅は同市前沢区白山字清水畑。火葬は10日午前10時半から同市水沢区佐倉河のさくらぎ苑、葬儀12日は午前11時から同市前沢区字七日町裏のごくよう前沢会館で。喪主は長男祥一(しょういち)氏。 
北海道大で馬術を始め、獣医師として日本中央競馬会に就職後も競技を続けた。総合馬術の日本代表として出場した64年の東京五輪で34位、68年のメキシコ五輪は失権だった。


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千葉幹夫さんの訃報に接して (2016.1.6)

市川瑞彦(昭和38年卒)


千葉幹夫さんの訃報に接して、まず浮かんだのは「巨星墜つ」という言葉でした。千葉幹夫さんは北大馬術部にとって偉大な先輩のひとりであることは、OBなら誰でも知っていますが、残念ながら、私は馬術について直接指導を受けたり、ゆっくりご意見を伺ったりする機会をついに失ってしまいました。私は千葉さんと入れ違いに入部した年代にあたりますし、オリンピック東京大会、メキシコ大会に出場されたり、ソミュール騎兵学校に留学されたりして現役選手として活躍されていた時代には、私は馬から遠ざかっていましたので。私が馬術部長になってから、わずかながらお話しする機会がありました。一度は盛岡で物理学会がありました折に、終了後思い立って遠野に足を伸ばし「遠野馬の里」に千葉さんをお訪ねしたことがありました。お忙しい立場であろうとアポイントメントなしの訪問でしたが、運よくおられ施設を案内していただきました。また、北日本学生馬術大会が東北地方で開催された折には、馬場の審判員として参加されることがありました。そのようなときには審判棟などにあいさつに伺い、少し話をすることもありました。その他は、馬術関係のパーティーなどで立ち話をする機会がわずかあったぐらいだったかと思います。穏やかでインテリらしい立居振舞いというのが私の印象で、言葉の端々から北大馬術部のことを気にかけていただいていると感じることができました。

我々は千葉さん(及び同時代)から何を学ぶべきだろうかと考えます。千葉さんの活動の中で特筆されるべきことは、馬術(乗馬)の普及のための著作、馬術書の執筆、訳、監訳などの活動であろう。オリンピック選手だからといってすべての人がそのような活動をしているわけではないし、しようと思ってもできるわけでもない。千葉さんにそれができたのは、自分の頭で考え理解し、整理し、理論化し、それを実践されてきたことが基礎にあるのではないかと思います。

昔も今も北大馬術部が活動している環境下では、常に現役で騎乗している優れた指導者に恵まれるわけではない。また、部員の乗馬歴も有力私立大学とは歴然とした差があり、入部前に騎乗経験のある新入部員は少ないし、繋養馬には外産馬はいないしほとんどは廃業したサラブレッドである。このような状況下で現役諸君及び我々に求められているのは、おかれている環境に不平を言ったり嘆いたりすることなくいまある武器で戦う気概と、流行に右往左往することなく自分の頭で考え、持続的な構想力をもって北大馬術部の環境に適した戦略を描き実行していく実践力ではないかと思われる。

千葉さんの時代は、コーチ格であった岡田光夫さん、当時若いOBであった兄貴分の鎌田正人さんの影響下のもと「北大馬術部史上最強の時代」とも言われ、間違いなく全国ブランドであった。もっと千葉さんにはいろいろ教えていただけることがあったのではないかと思うと、その機会を失ってしまったことは残念でならないが、当時の部活動から学ぶことは意義あることではないだろうか。謹んでご冥福をお祈りいたします。

(北大馬術部後援会長、北大馬術部監督)

以上


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千葉幹夫さんと東京OB会 (2016.1.31)

樋口正明(昭和34年卒)


千葉幹夫さんとは、北大の学生時代、毎日のように顔を合わせていた。 彼は獣医学部、私は法学部。そして別々の寮で暮らしていたのだが、馬術部の厩舎・馬場にお互いに日参していたのであろう。

学生時代のことは、何枚かの写真を紹介させていただくことにして、ここでは、北大馬術部東京OB会に関連することに絞ることにする。

我々が馬術部にいた頃には、いまだ後援会の組織はなく競技会に参加するつど、先輩に奉加帳を持ってお願いに行くことを繰り返していた。そのような状況の中で、当時話し合っていたことは、何とかして後援会組織を作りたいということであった。

我々が卒業した昭和34年、東京周辺のOB有志によって、東京OB会が創設された(東園会長・樋口幹事)。当時、千葉さんは中山競馬場の勤務だったと思うが、東京OB会の役割について話し合ったことがある。東京OB会は、全国的な後援会組織ができることを目指し、その先駆けとしての役割を果たすことを目的にした。そして馬術部の支援に取り組むことになった。

馬術部の支援を長く継続していくためには、まずOB会員の相互親睦を図ることが重要であり、家族も参加できる乗馬会・各種の見学会等を計画することになった。具体的には、中山競馬場での乗馬会や競馬を見る会が実現し、本田先輩が家族の方々と参加されて、賑やかな集まりとなったことが思い出される。乗馬会は、間があいた時もあるが、長年にわたって開催されている。吉見先輩のお子さんが参加され、後年そのお子さん(お孫さん)も参加されていた。初めて馬に乗る人にも千葉さんの教え方は、わかりやすく好評だった。乗馬会・懇親会は、半澤先生が札幌から上京される日程に合わせて実施されたこともある。

長年続けていた行事としては、観桜会・ジンギスカンパーティーがあげられる。東園会長ご夫妻のご尽力によって家族を含めての催しが続き、千葉さんにお世話になることが多かった。見学会としては、三里塚の御料牧場・移転後の栃木の御料牧場、恵比寿のビール工場、馬の博物館などにも家族も加わって実施されている。

半澤先生が馬術部長のとき、馬術部の調教・練習方法について、ご相談があったことがある。当時の部員と馬術部長をはじめ関係する人たちとの考え方には、ギャップがあって困っておられた。この対応は、実力者の千葉さんにお願いすることになり、千葉さんに札幌に行っていただいた。千葉さんは、北大馬術部部員のみを対象にするのでなく、広く馬術団体の人たちを対象とする講習会を開催してくださった。

日本馬術界の第一人者の千葉さんの講習会には、北海道の馬術関係者が集まり北大の部員たちも参加する講習会になったそうである。その後、半澤先生からは、改善のきざしが見られたとのお礼の連絡があった。しかし、千葉さんからの話によると、講習会のときに出た議論は平行線になるものがあって、馬術部が立ち直るには相当時間が必要だろうというものであった。そのあとも千葉さんは、現役部員の動向を見守ってくださっていたが、難しい課題として続いていた。



樋口氏と千葉氏


遠野を訪ねた日、前沢駅前で
樋口さんと千葉さん(右)H9.8.10
 

馬術の入門書・専門書を世に出した千葉さんが、馬術連盟の審判講習会等の講師をされていた時、講習会で半澤・岡田・鎌田さん等とご一緒したこともある。また、千葉さんが遠野の馬の里に移られてからのことだが、「乗馬術を科学する会」での講義―「乗馬・馬術を志向する人たちへ向けて」― に出席して、千葉さんの馬に対する若々しい情熱が、いつまでも続いていることに頭が下がったこともある。

いつでも会うことが出来ると思っていた千葉幹夫さんとの別れは、つらく淋しい。60余年前の月日が繰り返し思い出される。私の亡き母は、学生時代から千葉さんの応援をしていて、東京オリンピックのとき、軽井沢の総合馬術競技で千葉さんの健闘をたたえるニュースを見て、とても喜んでいた。千葉さんの葬儀に参列していて、千葉さんの真歌号との勇姿が母の笑顔と重なり合って、瞼に浮かんできた。

千葉さんが長年にわたって気にかけてきた、馬術部の発展を念じてやまない。

千葉幹夫さんのご冥福を心からお祈り申し上げます。

(東京OB会 会長 )

以上


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  「千葉幹夫さんと北大馬術部東京OB会」アルバム 

<敬称略>



大馬場での千葉さんの飛越姿(北楡)(S32.7.29) 「七帝戦」での千葉さん(左)と樋口さん。(S31.7.21) 帯広定期戦。(後列左から)渡辺、千葉、生田、山本、酒井(前列左から)榎本、宮沢、荒川、樋口、岡部の北大選手。
馬事公苑での観桜会には60人近い人が集まったことも(H4.4.26) 雨の時は馬事公苑の覆馬場でジンギスカンも。 一般客が退出した馬事公苑の満開の桜の下で東園基文会長(中央)と「都ぞ弥生」を歌う。(S59.5.13)
千葉さん(左後列)のお世話で毎年開かれた馬事公苑での乗馬会とジンギスカンには若い女性もたくさん参加した。(H5.5.9) 本橋氏のブラジル行き壮行会に集まった東京OB会有志。(前列左から)中村、本橋、千田。(後列左から)千葉、佐伯、森本、樋口の各氏。 半沢先生(中列左から3人目)の上京に合わせて千葉さんのお世話で馬事公苑で東京OB会の乗馬会が開かれたことも。(後列右から)森本、千葉、樋口、千田の各氏。(1961年)

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