アメリカに帰ったクラーク博士のその後

  クラーク博士記念庭園の設計にかかわった馬術部OB

北大馬術部後援会ホームページ制作委員会

クラーク博士

札幌農学校の頃の写真を見るとクラーク博士に限らず誰もが馬に乗っています。「Boys be Ambitious !」の島松の別れのレリーフでも全員馬上にあります。それは開拓当初から馬が重要な役割を担っていたからで、唯一の交通手段といってもいいくらいでしょう。北大馬術部の創設は1930年ですが、ずっと早く、いわば札幌農学校と同時に馬術部がスタートしていたと見ることもできます。

北大に残っている写真を3枚(北海道大学創基120周年記念展示資料と写真で見る北大の沿革 展示写真から)お見せします。どれを見てもいかに馬が多用され身近に使われていたか分かるものばかりです。

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馬上のパンくい競争
馬上のパンくい競争実科専門部の生活
 
牧草刈取風景
農校園牧草刈取風景
 
 

クラーク博士の帰国
クラーク博士の帰国 

ボストン郊外のアムハーストに帰ったクラーク博士は必ずしも幸福ではなかったようですが、100年後その故郷に記念庭園が作られることになりました。その設計指導に当たったのが北大馬術部OBの高野文彰氏(昭和40年卒)というのも不思議な因縁です。設計にいたるまでのいきさつは一文にまとめてくれるそうですので、それを待つことにしますが、経過を非常に詳しくまとめたホームページがあるのでそちらを紹介しながらクラーク博士のその後などをたどります。

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「ポッキーのボストン案内」(http://www.pockyboston.com/index/index.html)というサイトの「アムハースト」というくだりにありますが、文章からみると現地でツアーガイドをしている日本人女性のようです。ボストンと言えば目下の話題は西武からボストン・レッドソックスに行った松坂大輔投手ですが、この地はハーバード大学はじめコーネルなどアイビーリーグの名だたる名門大学がある学術都市です。クラーク博士の郷里はこの郊外、アムハーストという町ですが、郷里に帰ったあとの話、記念庭園の設計にあたった高野文彰氏のこと(サイトでは名前を間違っているが)など大変な取材力で紹介されています。

この方のサイトからクラーク博士の生涯をたどってみます(どんな人物記よりも詳しい)。

ウィリアム=スミス=クラーク博士

1826年7月31日 マサチューセッツ州アッシュフィールドに生まれ、年少の頃イーストハンプトンに移る。
1844年 ウィリストンセミナリーで学んだ後、18歳でアムハーストカレッジに入学。兄弟が多かったこともあり、学費の支払いには随分と困ったようで、学費が払えないので大学を辞めようかと思ったことも何度かあったと手紙に書いている。この問題は、彼が鉱物学研究のために集めた標本がいい値段で売れたことによって解決し、学業を無事に終了。
1850年 ドイツ・ゲッチンゲンにあるゲオルギア・アウグスタ大学に入学。隕石に含まれる金属の化学構造をテーマとする論文で地質学の博士号を取得。
1852年 母校のアムハーストカレッジに講師として迎えられ、教鞭を取る。翌年には幼馴染みのハリエット=リチャーズと結婚。ハリエットの父は、クラークの母校・ウイリストンセミナリーの創立者でもあった。
1861年 マサチューセッツ第21義勇軍少佐として南北戦争に参加。ノースカロライナ州まで遠征し、数々の武功をたて、大佐から准将にまで昇格。
1863年 新設マサチューセッツ農科大学(後のU MASSアムハースト校)開校。
1862年に可決されたモリル土地法(大学を新設する州には土地を無料で交付する)に対応して、マサチューセッツ州議会が大学の設置を決めたが、クラークらはアムハーストに農科大学を誘致する運動を積極的に行なった。豊富な知識と経験を活かしたクラークの講義は人気があったという。
1876年 第3代学長に就任。
この頃、明治政府から北海道に近代的な農業学校を創立したいので指導者を派遣してほしいという打診があり、熱心な誘いに打たれて日本へ行くことを決意。マサチューセッツ農科大学の評価を高める絶好のチャンスでもあると考えたようだ。
1876年5月15日 日本へ向けてアムハーストを出発。
クラークはマサチュセーッツ農科大学の卒業生のホイーラー(土木技師。測量調査や鉄道施設のための調査などを行なった)、ペンハロー(化学、英語の教師)の2人をともなっていた。サンフランシスコから船に乗り横浜を経由しての長旅で、札幌に到着したのは7月31日のこと。8月14日には札幌農学校の開校式というあわただしさだった。

わずか8か月だったが、後年「教育の奇跡」といわれる人材を輩出する下地を作って離任。札幌から20キロほど離れた島松(現・北広島市)まで同行した学生たちに向かってあの有名な「ボーイス・ビー・アンビシャス」(少年よ大志を抱け!)の言葉を残した。別れを惜しむ学生達に向かってこの言葉を叫ぶなり、クラーク博士は馬に乗って林のかなたに姿を消したという。また安東幾三郎が農学校の機関誌「恵林」に寄せた文章には、クラークの残した言葉は正確には「Boys be ambitious like this old man.」であったと記されている。

クラーク博士が別れの言葉を残した島松駅逓は、運送と宿泊のために人馬と駅舎を備えた北海道開拓初期の施設で、現在は当時と同じように復元され国指定の史跡として一般に公開されている。

1877年4月16日 日本を出発、アムハーストに帰国。
故郷に帰ってからのクラークの晩年は失意の連続だった。大学を辞任した後に始めた鉱山経営(クラーク・ボスウェル社)にも失敗し、倒産をめぐる裁判にも悩まされた。1882年には心臓病で倒れ、寝たり起きたりの生活。
1886年3月9日 59才(60才の誕生日を目の前にしながら)で病没。
1890年 キャンパス内のクラーク邸焼失。この家は、妻・ハリエットと子供たちが住んだビクトリア朝切り妻造りの豪華な家だったという。

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アムハーストの街の中にはクラーク博士が札幌から種を持ち帰って育てたハルニレ(エルム)の樹が残っている。街の人々はこの木をチャンピオンツリーと呼んで、大切にしているそう。またクラーク博士の墓は1730年にできたWest Cemeteryという墓地を入って正面の大きい桜の木の下にあり、春には墓にかぶさるように桜が咲くという。この桜は札幌農学校でクラークの後任として教鞭をとったブルックスが日本から持ち帰った苗木が育ったものだそうだ。

クラークの墓

クラーク博士の墓
写真:「ポッキーのボストン案内」サイトから

「教師、兵士、市民としての生涯を神と同胞への奉仕に捧げた、ウイリアム=スミス=クラークの記念に」との募銘が記されている。彼の名前の下には妻、ハリケット=リチャーズ=ウィリストン(1917年9月22日没)の名前もあり、墓の周りには彼の11人の子供たちの小さい墓が取り巻くように並んでいる。クラーク博士の墓の奥にはアムハーストが生んだ偉大な詩人、エミリー=ディッキンソンの墓もあるそうだ。


高野文彰氏が庭園設計に協力

クラーク博士の時の「マサチューセッツ農科大学」はその後「ユニバーシティーオブマサチューセッツ(U MASS)アムハースト校」となった。ゆかりの北海道大学とは姉妹大学提携を結んで交流を続けていたが、1986年にクラーク博士没後100年の記念式典が行なわれた時に、クラークメモリアルの計画の話が持ち上がった。クラーク博士の邸宅があったキャンパスの東側の土地は小高い丘の上にあり、キャンパス全体を見渡すことができるロケーション。丘の周りにはU MASSの学生が住むレンガ造りの寮が並んでいるといった環境。

クラークメモリアル01
写真:「ポッキーのボストン案内」サイトから
 

クラークメモリアル02
写真:「ポッキーのボストン案内」サイトから

計画は、この地にクラーク博士の業績をたたえる日本風の記念庭園を造り、「ウィリアム=スミス=クラークメモリアル」と名づけるというものだが、U MASSのグリンビー教授は1970年代に姉妹大学提携を結んだ北海道大学との共同製作を提案し、造園を教えている浅川北海道大学助教授と北海道大学出身の造園家・高野文彰氏の協力を得ることになった。3人の指導のもと、U MASS卒業生のトッド=リチャードソンの設計が選ばれた。

メモリアルの周りには黒い円形の壁があり、東側の部分はクラーク邸のシルエットで、西側は北海道大学農学部の建物のシルエットになっている。円形の壁の中はベンチになっていて座ることができ、U MASSのキャンパスに北海道大学のイメージを重ね合わせるように工夫されているもので、1991年10月17日に完成、両大学の学長が出席した。クラーク博士記念庭園では2000年9月13日に北海道・マサチューセッツ州姉妹提携10周年を記念した式典も行われた。

(おわり)

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