最終更新日   2016年12月29日

北大馬術部後援会 ホームページ制作委員会編

北大馬術部ホームページのフロントページではバックグラウンドに「都ぞ弥生」を流しています。馬術部にいた者ならば幾度となく口にしたことでしょう。現在もOB会などでは必ず歌われ、そのたびに懐旧の想いにひたるのですが、歌い方となると各々キャンパスにいた時代によって微妙に違ってくるようです。世はIT時代、たくさん出回るようになった動画を交えて振り返る「都ぞ弥生」物語。


ページトップへ

elm_leaf「都ぞ弥生」物語


応援団ならずとも、歌うときには「明治45年度寮歌、横山芳介君作詞、赤木顕次君作曲・・・」と大声の前口上にはじまり、ゆったり歌いだした記憶があると思いますが、「都ぞ弥生」が作られてから平成24年(2012)で100年になりました。以下はウイキペディアによります。

都ぞ弥生(みやこぞやよい)は、北海道大学の学生寮である恵迪寮の寮歌の一つ。 1912年(明治45年)度の寮歌として作られた。当時の恵迪寮は、北海道大学の前身となる東北帝国大学農科大学の予修科(予科)学生の寄宿舎であった。恵迪寮では1907年から寮歌が作られており、都ぞ弥生は第6回目の寮歌である。

作曲者は当時予科3年生であった赤木顕次(1891年 - 1959年)。作詞者は同じく2年生であった横山芳介(1893年 - 1938年)。
都ぞ弥生は自然の美しさを讃える歌詞であるのが特徴である。色彩や光彩を表現する言葉が多く使われ、星・雲・空などの広大な自然を表す言葉も多い。1番の歌い出しの 「都」 とは、今日ではしばしば札幌のことと誤解されるが、当時の札幌は都会ではなかった。また、当時の大学予科は9月入学であり、1番の歌詞は実際には、華やかな都 (おそらく東京) の春の桜の姿を暫時のものと見限り、「人の世の清き国」 北海道に憧れた心情を歌っているのである。

 
草稿
「都ぞ弥生」の草稿
 

都ぞ弥生の歌碑は、北海道大学構内と静岡市の2箇所にある。北海道大学構内のものは、1957年に大学創基80周年記念行事の一つとして建立された。静岡市のものは、横山芳介の菩提寺である長源禅院の中に横山の没後20年を記して、横山に育てられた孤児の河田悠記恵と静岡市在住の同窓生等により1958年1月に建てられた。刻まれた文字は横山の遺品のノートから復刻されたものである。

歌詞は5番まであるが、1・2番のみや1・2・5番のみが歌われることが多い。寮生や応援団により歌われているメロディーと合唱団などにより歌われているメロディーには若干異なる所がある。また、寮生や応援団によるもののほうがゆっくりとしたテンポで、間をとって歌われる。一説によると、例年市内の円山公園で行われる応援団主催の春の花見会で、都ぞ弥生を歌いながら会場へ歩きはじめ、会場到着と同時に歌い終わるように歌ったためゆっくりとなった、とある。

しばしば「日本三大寮歌」の一つに挙げられる。他の二つは、第一高等学校寮歌「嗚呼玉杯に花受けて」と第三高等学校寮歌「逍遙の歌」である。

作詞者の横山芳介(よこやま よしすけ、1893 ~1938)は明治24年に貴族院書記官の長男として東京で生まれ、東京女子高等師範学校附属小学校、東京高等師範付属中学校から北大農学部へ進んだ。中学生の頃から文学を愛好していて入寮後に文学愛好仲間と「凍影社」を発起する。これはドイツ語の教授を顧問に新進作家の作品を読む評論読書会で、機関誌「辛夷(こぶし)」を発刊した。

 
横山芳介
写真は横山芳介

 

「凍影社」は明治45年から大正3年までの短期間の活動だったが、この時期の寮歌は「辛夷」の編集委員で作られていたという特徴がある。横山は「都ぞ弥生」を発表した年に落第するが、大正3年に東北帝国大学農科大学農学科に進学する。作物学を専攻し、薬用植物の栽培技術に関する研究を卒論にまとめる。明治45年、「都ぞ弥生」を作詞。卒業後、静岡県農会技師を経て、当時制度ができた小作官となり開明的実務家として、農民の側に立って地主との調停を行うなど、ヒューマニズムにあふれた役人として親しまれたが、若くして46歳で亡くなった。

 
本

その業績を追った「小作官・横山芳介の足跡―北大寮歌「都ぞ弥生」の作詞者」(田嶋 謙三 、大高 全洋、塩谷 雄共著  北海道大学図書刊行会 2003/05 )=写真右=がある。この表紙写真から後年の姿を知ることができる。

またネット上に第61代応援団 土屋明氏の「横山芳介氏のこと」(http://nagom.net/keiteki2/yokoyama.htm)があり、作詞当時の話と小作官としての足跡を紹介した一文がある。

 

作曲者の赤木顕次(あかぎ けんじ、1891~1959)は小樽の赤木病院の息子として生まれた。幼少の頃より耳が遠いというハンディキャップがあり、そのため講義では必ず一番前に座っていた。小学校時代から音楽が好きで、ハーモニカやヴァイオリンに熱中、東京の京北中学に進学したが、中学校時代には演奏依頼を受けるほどの吹き手になっていたという。農学部畜産科に進学し、神戸牛の肉質に関する卒論で大正5年に卒業した。その後は東京で食品科学の研究に従事したり、東京帝国書院で教科書の編纂に関わったり、広島や東京に出て食品化学会社や中学校教師を勤めるなど職を転々としたのち宗教の道に入った。昭和4年にひとのみち教団に入信し、以後布教活動に生涯を捧げ戦後はPL教団の祐祖となった。

赤木顕次
写真は赤木顕次

 
 

1958(昭和33)年9月、恵迪寮舎南の原始林内に「都ぞ弥生歌碑」が作られた時には、除幕式に参加されたが、すでに半身不随だったため,左手書きで「左手 赤木生」とした色紙が恵迪寮に残されている。

OBなら誰しも思うところだろうが、「都ぞ弥生」はなんでこんなに「引き伸ばして」歌うのか。それに関してはこんな話が残っている。

学部寮の同窓会が札幌であったとき、ある大先輩との会話で話題が赤木顕次氏に移って、さらに「都ぞ弥生」を引き伸ばして歌う歌い方についてに及んだ。「真相かどうかは分かりませんよ。ただ私が聞いたのは…」という由来は次のようなものだ。

戦時中寮生にも赤紙が来た。壮行会が終わってさあ駅まで皆で歩いて送ろう、というとき、当然のように都ぞ弥生を5番まで歌いながら歩こうとなった。駅まで歩いて30分弱、これを5番までの所要時間に合わせようとなったわけである。前述のように長い歌であるが、普通に歌えば5分程度で終わる。当然1番を6分間に引き伸ばして歌う計算がされた。初めは計算どおりに歌っていたが、駅に近づくにしたがって皆の足取りが遅くなり、どんどん引き伸ばしが長くなっていったという。

もちろん汽車の時間が決まっていたわけであり、無制限に引き伸ばしが可能なはずもない。だが意識下のどこかで、いっそ汽車に遅れてくれれば、というはかない希望も働いたに違いない。こうした悲しい道行きが何度か繰り返されて、いわゆる「正調 都ぞ弥生」が定着したのだという。(今市病院形成外科部長 尾郷 賢氏の「悲しき寮歌」から)

line_leaf

都ぞ弥生

横山 芳介君  作歌
赤木 顕次君  作曲

都ぞ弥生の雲紫に
花の香漂ふ宴遊(うたげ)の筵(むしろ)
尽きせぬ奢(おごり)に濃き紅や
その春暮れては移らふ色の
夢こそ一時(ひととき)青き繁みに
燃えなん我が胸想ひを載せて
星影冴(さや)かに光れる北を
人の世の 清き国ぞとあこがれぬ


豊かに稔れる石狩の野に
雁(かりがね)遙々(はるばる)沈みてゆけば
羊群声なく牧舎に帰り
手稲の嶺(いただき)黄昏こめぬ
雄々しく聳(そび)ゆる楡(エルム)の梢
打ち振る野分(のわき)に破壊(はゑ)の葉音の
さやめく甍(いらか)に
久遠(くをん)の光り
おごそかに 北極星を仰ぐ哉(かな)


寒月懸(かか)れる針葉樹林
橇の音(ね)凍りて物皆寒く
野面(のもせ)に乱るる清白の雪
沈黙(しじま)の暁霏々(ひひ)として舞ふ
ああその朔風飄々(ひょうひょう)として
荒(すさ)ぶる吹雪の逆巻くを見よ
ああその蒼空(そうくう)梢聯(つら)ねて
樹氷咲く 壮麗の地をここに見よ


牧場(まきば)の若草陽炎燃えて
森には桂の新緑萌(きざ)し
雲ゆく雲雀に延齢草の
真白(ましろ)の花影さゆらぎて立つ
今こそ溢れぬ清和の陽光(ひかり)
小河の潯(ほとり)をさまよひゆけば
うつくしからずや咲く水芭蕉
春の日の この北の国幸多し


朝雲流れて金色(こんじき)に照り
平原果てなき東(ひんがし)の際(きわ)
連なる山脈(やまなみ)冷瓏(れいろう)として
今しも輝く紫紺の雪に
自然の芸術(たくみ)を懐(なつかし)みつつ
高鳴る血潮のほとばしりもて
貴(たふ)とき野心の訓(をし)へ培い
栄え行く 我等が寮を誇らずや


【前口上 】

吾等(われら)が三年(みとせ)を契る絢爛のその饗宴(うたげ)は、げに過ぎ易し。
然れども見ずや窮北に瞬く星斗(せいと)永久(とこしへ)に曇りなく、
雲とまごう万朶(ばんだ)の桜花久遠(くおん)に萎えざるを。
寮友(ともだち)よ徒らに明日の運命(さだめ)を歎かんよりは楡林(ゆりん)に篝火(かがりび)を焚きて、
去りては再び帰らざる若き日の感激を謳歌(うた)はん。

この後に、「明治45年度寮歌、横山芳介君作歌・赤木顕次君作曲、都ぞ弥生、アインス、ツバイ、ドライ」と続け、歌に入る。

*「都ぞ弥生」を始め恵迪寮歌にはこの前口上が述べられる。これを聞かないと気持が入っていかないという人が多いので紹介した。この前口上は「楡陵謳春賦」と呼ばれ、1936年(昭和11年)に寮歌の『嗚呼茫々の』の序文として当時の学生、宍戸昌夫氏によって書かれた。



ページトップへ

elm_leaf動画でたどる「都ぞ弥生」


つい最近まで「都ぞ弥生」はレコードでしか聞けなかった。それも町の楽器店などにはなくて、札幌まで注文するか、受験シーズン前に深夜放送などに突然流れるラジオでしか聞く機会はなかったものだ。家族に教えるにしても、音程がはずれた親父のだみ声では「なにそれ?」といわれるのがオチだった。ところが急速なIT社会の到来である。ありがたいことにYouTubeなどにどんどんアップされるようになった。

とはいっても馬術部ホームページがスタートした時には(2006年11月)ネット上には一つもなかった。東京OB会の最後をビデオに撮ってアップすることも考えたが、これは自他共におすすめできないしろものだ。世に混乱を招くだけかと自粛してきた。ところが2012年の時点で以下に紹介するようにいろいろな「都ぞ弥生」が存在する。改めて、こんなにとりどりの歌い方があったのかと言う思いである。


① 北大合唱団OB会による5番までの完全歌唱
     (閲覧制限)


「IDとパスワード入力へ」

2013年にアップされたばかりの「都ぞ弥生」。ピアノ伴奏で合唱したものだが、前口上から入っているのと、コンパなどで歌われているテンポに近いので一番のおすすめ。また5番まで全歌詞を歌いあげている点や最近の写真が多く散りばめられていてOBには母校の様子をし偲ぶよすがとして最適だと思う。

この動画を見るにはプラグインが必要です。

なにも記載されていないので出所はわからないが、「北海道帝國大學寮歌 都ぞ彌生」という旧漢字の表記や、無伴奏で正確に楽譜をたどっているこなどから北大合唱団などによる録音ではないかと思われる。1、2番歌唱。

この動画を見るにはプラグインが必要です。

これも男性ボーカルのもの。時おりバックコーラスと伴奏が入るがほとんど独唱にちかい。馬術部ホームページのフロントでバックコーラスに使っているもの。1, 2,3番歌唱。

加藤登紀子が歌うもの。いろいろな学生愛唱歌を歌っているなかにあるもので「知床旅情」の延長線上にあり、メディアに取り上げられるときはこれが多い。1,2,5番歌唱。

この動画を見るにはプラグインが必要です。

ボニージャックスが歌うもの。1,2,3番歌唱。「荒(すさ)ぶる」のところを間違って歌っているので気になる人もいるかもしれない。

北大祭「一万人の都ぞ弥生」.からのもの。応援団が付いているので前口上つきで始まる。現在の歌い方だと思うので採録した。

この動画を見るにはプラグインが必要です。

もうすこし音楽的に洗練された歌い方となると北大混声合唱団の「都ぞ弥生」。音源は2006年1月21日 第44回定期演奏会の演奏からのもの。1、2番歌唱。

北海道大学合唱団の「都ぞ弥生 」。これまで紹介してきた「都ぞ弥生」はアップテンポなものが多い。皆さんご承知のとおりキャンパスでなじんできたものはもっとゆったりとしている。応援団のように花見のとき「円山公園に到着するまでに5番で終わる」というのではLPでもCDでもやってられないだろう。「もっと音楽的に耐えられるテンポで」となるとこのようになるのだが、その点、北大合唱団のものはOBに親しみ深いテンポである。残念ながら音量が低いがそのうち声量があるものが出てくるだろうと期待して、それまでのつなぎとして紹介する。

この動画を見るにはプラグインが必要です。

ページトップへ

elm_leaf永遠の幸


札幌農学校から北大へ受け継がれてきた校歌『永遠の幸』(とこしえのさち)がある。OBである白樺派の作家、有島武郎22歳のときの作歌というので知られる。太鼓にあわせて歌う美文調の寮歌のなかでは一段と目立つしゃれた旋律でファンも多い。

この動画を見るにはプラグインが必要です。

永遠の幸

大和田建樹  校閲
有島 武郎  作歌


永遠の幸 朽ちざる誉 つねに我等がうへにあれ
よるひる育て あけくれ教へ 人となしし我庭に
イザイザイザ うちつれて 進むは今ぞ
豊平の川 尽きせぬながれ 友たれ永く友たれ


北斗をつかん たかき希望(のぞみ)は 時代(とき)を照らす光なり
深雪(みゆき)を凌ぐ 潔(きよ)き節操(みさを)は 国を守る力なり


山は裂くとも 海は浅(あ)す=涸れる=とも 心理正義落つべしや
不朽を求め 意気相ゆるす 我等丈夫(ますらを)此にあり

leaf_line

北大の校歌だと思っていたらアメリカでもアイルランドでも同志社大学のラグビーの試合でも耳にしたという驚きをOBの古川俊実氏(朝日新聞社友、北大文学部英文科 1960年卒業)が「ダブリンで『校歌』を聞きました」
(http://www.hokudai.ac.jp/bureau/populi/edition21/again.html)と書いている。歴史などもこのサイトに詳しいのだが、いきさつは次のようなことである。

アメリカの南北戦争のときにG.F.ルートという人が、北軍の行進曲として『Tramp! Tramp! Tramp!』という曲を作曲し、さかんに部隊で使われた。メロディーは上記の表題を検索に打ち込めばたくさん出てくる。(例えば http://www.youtube.com/watch?v=AO6SmllpTR8)。副題に「Prisoner's Hope」とあるように内容は南軍の捕虜となり救出を待つ少年兵の心情を歌っている。歌詞はこのサイト(http://www.contemplator.com/america/trampsouth.html)で見られるが、以下のように母と故郷を偲ぶせつせつとしたものだ。

In my prison cell I sit,
thinking, Mother, dear, of you,
and my happy Southern home so far away;
and my eyes they fill with tears
'spite of all that I can do,
though I try to cheer my comrades and be gay.


このあとに続く、「Tramp」というのは行軍する時の重い足音の擬音である。

南北で60万人が戦死した戦争の方は1865年に終了した。その当時、北軍の兵士には、英国からの独立運動(戦争)をしていたアイルランド出身者が多く、この歌はアイルランドに渡り、歌詞を変えて、『God Save Ireland』(神よアイルランドを守り給え)となった。歌詞と歌はYouTubeにいくつかアップされている (http://www.youtube.com/watch?v=i6aJbNx7qVs) など。

現在ではアイルランドの国歌は1926年に制定された「兵士の歌」(Soldier's Song)だが、それ以前は国歌としては非公式ながらこの『God Save Ireland』が歌われていた。第二のアイルランド国歌として親しまれているうちに日本に伝わり「船乗りの夢」(http://www.youtube.com/watch?v=Jc3uvpQjFbc)という曲になった。筆者など小学生の頃、曲名「夕日の落ちる頃」としてキャンプファイアーの歌として教わったが、学校でも教えたしボーイスカウトやガールスカウトや運動会の鼓笛隊の演奏などで今もよく演奏されている。

「永遠の幸」の由来に戻るが、南北戦争には北軍少佐としてDr.W.S.クラーク(1876~1877)が従軍していた。終戦時、准将まで昇進していたクラークは郷里のAmherst(アムハーストまたはアマースト)に帰り、自らが誘致したマサチューセッツ農科大学(現在、マサチューセッツ大学アマースト校)第3代学長から乞われて、はるばる札幌農学校教頭として赴任した。

1876年に開校した札幌農学校には、校歌も寮歌もなく、農学校にも「校歌」という要望がたかまり、多分、このころ農学校では有名であった、「Tramp! Tramp! Tramp!」の曲をベースに、有島武郎が作歌(この年、有島 22歳)して明治34年(1901年)に披露されたのが「永遠の幸」だった。

一方、クラーク博士が、来日する前だが、新島襄がクラーク博士が学んだ同じアマースト大学に留学、1870年に卒業している。新島は私立大学の重要性を訴え、没(1890年)後ではあるが、同志社大学が創立された。そこから先は推測だが、そのとき彼が持ち帰った曲が同校ラグビー部の応援歌『若草萌えて』(http://www.youtube.com/watch?v=ThHflcafQJs&feature) となったようである。応援歌だけに北大校歌の「永遠の幸」より一段とリズミカルで早いが、メロディーはまさに同じである。

line_leaf

ところで「永遠の幸」は有島武郎が学習院から進学した札幌農学校本科4年に在学中の作詞だが、表記のように「大和田建樹 校閲」とある。寮歌集の発行年度によっては「 納所弁次郎 選曲」となっているものもある。「校閲」だの「選曲」という見慣れぬものが付いているのは何なのだろうか。

大和田健樹(1857-1910)は文学者で、『鉄道唱歌』、『故郷の空』、『青葉の笛』などの作詞者して知られるが、学習院教授でもあった。

納所弁次郎(1865-1936)は明治期を代表する音楽家で「桃太郎」「うさぎとかめ」などの作曲者で多くの軍歌の作曲をしている。納所は明治21年学習院助教授になり小学校にあたる予備科で「唱歌」の授業を担当していた。年代的に有島が予備科に在籍していた時代で、このとき納所に唱歌を習った可能性がある。

全員が学習院という共通因子でつながっているのである。しかも2人とも有島武郎にとっては恩師にあたり、ともに文部省主導による数多くの唱歌作成選定に参加している人物だった。

一方、明治政府は明治8年から20年にかけて欧米から大量の楽譜を購入している。文部省買い入れ楽譜は現在国会図書館が所蔵しているが膨大な数に上る。このなかに『Tramp! Tramp! Tramp!』もあった。納所はこの購入楽譜を管理する立場にあり、自分でも利用した。彼が編集した「日本軍歌」では「学びのみち」と言う名で『Tramp! Tramp! Tramp!』が載っている。

明治時代には外国曲に元歌と関係のない内容の歌詞をつけたものが多い。これが西洋音楽に馴染みの薄い日本人に洋楽を広めるのに大変役立ったと言われている。

有島は「曲にあわせて作詞した」とも言っているところをみると、納所から提供された『Tramp! Tramp! Tramp!』にあわせて「永遠の幸」をつくり、大御所だった大和田健樹に校閲を依頼したのではないか。これが「校閲」と「選曲」という形になって二人の名前が出てくる由縁だと解される。




ページトップへ

elm_leaf瓔珞みがく


正しくは<櫻星会歌「瓔珞みがく」>です。櫻星会は現在の体育会、その会歌として作られたもので寮歌ではないのですが、学生・OBに親しまれ、いまでは寮歌の扱いを受けている歌です。全国にある寮歌の多くは青雲の志を披露した大言壮語型が多いのですが、北大のは豊かな自然をせつせつと謳いあげていて魅力的なのが特徴でしょう。「瓔珞みがく」もまたその範疇にあります。「瓔珞」(ようらく)というのは「紐を通してつないだ美しい石の首飾り」のことです。

学生が歌うものよりテンポが早く、やや歌謡曲風で軽いかもしれないが、加藤登紀子の「日本寮歌集」のなかにある「瓔珞みがく」。 1、2、3、4、8番歌唱。

北海道大学応援歌 瓔珞みがく
(大正9年桜星会歌)

佐藤一雄君 作歌
置塩   寄君 作曲


瓔珞みがく石狩の 源遠く訪ひくれば
原始の森は闇くして 雪解の泉玉と湧く


浜茄子紅き磯辺にも 鈴蘭薫る谷間にも
愛奴(アイヌ)の姿薄れゆく 蝦夷の昔を懐(おも)ふかな


今円山の桜花 歴史は旧(ふ)りて四十年
我が学び舎(や)の先人が 建てし功(いさお)はいや栄ゆ


その絢爛の花霞 憧憬(あこがれ)集ふ四百の
健児が希望(のぞみ)深ければ 北斗に強き黙示(もくし)あり


醜雲(しこぐも)消えて人の世に 陽光(ひ)はうららかに輝けど
風の名残のつきやらで 狂瀾さわぐ今しいま


潮(うしお)に暮るる西の空 月も凍らむシベリアの
吾が皇軍(みいくさ)を思ひては
猛けき心の踊らずや


白銀狂ふ埋れ路も 踏みて拓かむわが前途(ゆくて)
はろけき牧場(まき)に嘯けば 雲影はやし草の波


想を秘めし若人が 唇かたくほほゑみつ
仰げば高く聳え立つ 羊蹄山に雪潔し
line_leaf

深田久弥の「日本百名山」の大雪山の項で、層雲峡についての説明として、「北大寮歌に、瓔珞みがく石狩の……と歌われた頃に、この渓谷を探ったパイオニアたちの、何と幸福だったことか。」とある。パイオニアと言うのは慶大山岳部に属し、槙有恒らと槍ヶ岳・奥穂高岳をはじめトムラウシ山、石狩岳を登り、石狩川の源流を層雲峡まで下るなど北海道の山を全国に広めた大島亮吉(1899-1928) らのことで 「アイヌほど美しい地名をつける種族はない」とも書いている登山家で、前穂高岳で墜落死しています。

 
記念碑
入り口すぐ右手にある
「瓔珞みがく」の記念碑。

「瓔珞みがく」歌碑は札幌の北大植物園の中にありますが、もう一つ、記念碑が山梨県大月市の中央道大月ICを出てすぐのところにある星野家旧宅本陣跡に「瓔珞みがく」記念碑が建っています。昭和45年、北大東京同窓会が記念碑を建設し寄贈したものです。

 

余談ですが、児島仁・NTT社長と松田昌士・JR東日本社長、という日本で1番と2番の企業トップが北大OBで占めたとき新聞ニュースになりました。そのころのことですが北大東京同窓会主催のバスツアーがあり、児島会長とともに星野家住宅を訪れたことがあります。このときはじめていわれを知りました。

 
星野家の本陣跡
甲州街道沿いにある星野家の本陣跡。
 

作曲の置塩 竒(おしお・くすし)氏は大正9年 北海道帝国大学予科に在学中にこの歌を作曲し、のちにこの本陣の所有者である星野家に養子に入りました。星野家は、甲州街道・大月宿の西隣にある花咲宿の名主を務めていた旧家です。江戸時代には、甲州勤番をはじめ大名や幕府の役人らが宿泊しました。明治13年(1880)6月18日には、明治天皇が京都へ御巡幸の際に御小休所にあてられました。江戸時代の本陣建築を伝えるのはいまでは「星野家住宅」だけとなり、主家と籾蔵および味噌蔵、文庫蔵の三棟が宅地を含めて重要文化財に指定されています。

 
歌詞
本陣広間に掲げられている歌詞。
 

国道20号線わきの一角に「瓔珞みがく」の碑があり、本陣の広間に「瓔珞みがく」の歌詞が掲げられています。

 

昭和55年に作詞者の佐藤一雄氏未亡人とともに札幌を訪れた星野さん夫妻の新聞記事が残っています。このとき84歳で「私と違って作歌者の佐藤君は豪放な人でした。その佐藤君の詩に私が曲をつけたのですが、夜中、布団に横になりながら頭に浮かんだメロディーをもとに、次の朝、恵迪寮食堂にあったオルガンで譜面を書きました。実はそのオルガンに昨日対面しました。昔のままで、懐かしい思いがしました」。「アインス ツバィ ドライ」で、全員で「瓔珞みがく」が歌われた。足腰が弱くなって手放せないはずのツエを背広の前ボタンにかけ、両足でふんばった星野さんも声を張り上げていた。(昭和55年4月27日北海道新聞朝刊)




ページトップへ

elm_leafストームの歌


寮歌のあとはストームがつきものだった。こちらも動画があるので紹介する。北大水産学部の同窓会・大阪府支部総会の懇親会の模様とのこと。

この動画を見るにはプラグインが必要です。

ストームの歌

――醒めよ迷ひの夢さめよ
        醒めよ迷ひの夢さめよ――


札幌農学校は蝦夷ヶ島  熊が棲む  荒野に建てたる大校舎コチャ
エルムの樹影で真理解く  コチャエ  コチャエ


札幌農学校は蝦夷ヶ島  手稲山  夕焼け小焼けのするところコチャ
牧草片敷き詩集読む  コチャエ  コチャエ


札幌農学校は蝦夷ヶ島  クラーク氏  ビーアンビーシャスボーイズとコチャ
学府の基を残し行く  コチャエ  コチャエ

ページトップへ